中井久夫訳カヴァフィスを読む(10)
「中断」。ギリシャでは聖なることに介入する無知な俗人を「メタネイラ」と呼ぶ。中井久夫の注釈には、そういうことが書いてある。
その書き出し。
一行目のことばの響きが「口語」そのもの。それこそ「俗人」のあいだで飛び交うことばである。「出たとこ勝負の生き物。」は「である」という動詞を省略し、人の口からぱっと飛び出した勢いを生かしている。その勢いが、次の「せっかちな未熟な馬鹿。」とうい口語のなかで爆発する。「せっかちで、未熟な馬鹿。」とはまるっきり響きが違う。響きはそのまま「意味」の違いでもある。中井の訳では「せっかちな」と「未熟な」は「馬鹿」を修飾することばではない。文法的には修飾しているように見えるけれど、現実にそのことばが、中井の書いているとおりに動くときは、それは修飾語ではない。「せっかち」という批判だけでは間に合わず、「未熟」という批判を追加しても間に合わず、「馬鹿」まで言ってしまって、すこし気が晴れる--そういう響きの非難である。「せっかちな」「未熟な」は文法的なには「形容動詞」になるのだけれど、批判する人間にとってはそれは「名詞」。一つ一つが独立し、なおかつ併存している。いや、競合しているという方がいいのかもしれない。
そういう批判をあびて、それでもそういうことをしてしまう。「それがわれらだ。神々の御業を中断させるわれら。」と開き直る(?)のが「俗人」ということになる。
批判に対して開き直るという、このことばの調子、口調のなかにある「肉体」のぶつかりあいが、神の御業(神事)と人の出会いを祭りにかえる。人間のできごとにかえる。口語(口調)のなかには人間そのものがいる。
中井久夫は精神科医でもあるが、臨床のときに聞く人間の複数の声、その調子をはっきりと聞きとる習慣が、訳詩にも反映しているのかもしれない。音楽の世界に絶対音感というものがある。その「用語」を流用すれば、「絶対言語感(絶対肉声感)」というものが中井にはあって、ひとりひとりの声を中井自身の声とは識別して動かすことができるのかもしれない。ふつう、ひとは自分の声しか動かせない。耳のいいひとは「ものまね」として口調を動かすことができる。けれど「文体摸写」とはまた違った形、独立した文体として、複数の声を作品に取り込むのはとても難しい。そういうことができるのは精神科医の日常の力かもしれない。
この「濃く」という副詞的なつかい方がまた、とてもおもしろい。「煙が濃くなりながら/煙が舞う」ということなのだが「なりながら」を省略することで煙が「肉体」を獲得する、という感じがある。
「中断」。ギリシャでは聖なることに介入する無知な俗人を「メタネイラ」と呼ぶ。中井久夫の注釈には、そういうことが書いてある。
その書き出し。
出たとこ勝負の生き物。せっかちな未熟な馬鹿。
それがわれらだ。神々の御業を中断させるわれら。
一行目のことばの響きが「口語」そのもの。それこそ「俗人」のあいだで飛び交うことばである。「出たとこ勝負の生き物。」は「である」という動詞を省略し、人の口からぱっと飛び出した勢いを生かしている。その勢いが、次の「せっかちな未熟な馬鹿。」とうい口語のなかで爆発する。「せっかちで、未熟な馬鹿。」とはまるっきり響きが違う。響きはそのまま「意味」の違いでもある。中井の訳では「せっかちな」と「未熟な」は「馬鹿」を修飾することばではない。文法的には修飾しているように見えるけれど、現実にそのことばが、中井の書いているとおりに動くときは、それは修飾語ではない。「せっかち」という批判だけでは間に合わず、「未熟」という批判を追加しても間に合わず、「馬鹿」まで言ってしまって、すこし気が晴れる--そういう響きの非難である。「せっかちな」「未熟な」は文法的なには「形容動詞」になるのだけれど、批判する人間にとってはそれは「名詞」。一つ一つが独立し、なおかつ併存している。いや、競合しているという方がいいのかもしれない。
そういう批判をあびて、それでもそういうことをしてしまう。「それがわれらだ。神々の御業を中断させるわれら。」と開き直る(?)のが「俗人」ということになる。
批判に対して開き直るという、このことばの調子、口調のなかにある「肉体」のぶつかりあいが、神の御業(神事)と人の出会いを祭りにかえる。人間のできごとにかえる。口語(口調)のなかには人間そのものがいる。
中井久夫は精神科医でもあるが、臨床のときに聞く人間の複数の声、その調子をはっきりと聞きとる習慣が、訳詩にも反映しているのかもしれない。音楽の世界に絶対音感というものがある。その「用語」を流用すれば、「絶対言語感(絶対肉声感)」というものが中井にはあって、ひとりひとりの声を中井自身の声とは識別して動かすことができるのかもしれない。ふつう、ひとは自分の声しか動かせない。耳のいいひとは「ものまね」として口調を動かすことができる。けれど「文体摸写」とはまた違った形、独立した文体として、複数の声を作品に取り込むのはとても難しい。そういうことができるのは精神科医の日常の力かもしれない。
焔が高く揚がって 煙が濃く舞えば、
この「濃く」という副詞的なつかい方がまた、とてもおもしろい。「煙が濃くなりながら/煙が舞う」ということなのだが「なりながら」を省略することで煙が「肉体」を獲得する、という感じがある。