詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(10)

2014-04-01 23:59:59 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(10)          

 「中断」。ギリシャでは聖なることに介入する無知な俗人を「メタネイラ」と呼ぶ。中井久夫の注釈には、そういうことが書いてある。
 その書き出し。

出たとこ勝負の生き物。せっかちな未熟な馬鹿。
それがわれらだ。神々の御業を中断させるわれら。

 一行目のことばの響きが「口語」そのもの。それこそ「俗人」のあいだで飛び交うことばである。「出たとこ勝負の生き物。」は「である」という動詞を省略し、人の口からぱっと飛び出した勢いを生かしている。その勢いが、次の「せっかちな未熟な馬鹿。」とうい口語のなかで爆発する。「せっかちで、未熟な馬鹿。」とはまるっきり響きが違う。響きはそのまま「意味」の違いでもある。中井の訳では「せっかちな」と「未熟な」は「馬鹿」を修飾することばではない。文法的には修飾しているように見えるけれど、現実にそのことばが、中井の書いているとおりに動くときは、それは修飾語ではない。「せっかち」という批判だけでは間に合わず、「未熟」という批判を追加しても間に合わず、「馬鹿」まで言ってしまって、すこし気が晴れる--そういう響きの非難である。「せっかちな」「未熟な」は文法的なには「形容動詞」になるのだけれど、批判する人間にとってはそれは「名詞」。一つ一つが独立し、なおかつ併存している。いや、競合しているという方がいいのかもしれない。
 そういう批判をあびて、それでもそういうことをしてしまう。「それがわれらだ。神々の御業を中断させるわれら。」と開き直る(?)のが「俗人」ということになる。
 批判に対して開き直るという、このことばの調子、口調のなかにある「肉体」のぶつかりあいが、神の御業(神事)と人の出会いを祭りにかえる。人間のできごとにかえる。口語(口調)のなかには人間そのものがいる。
 中井久夫は精神科医でもあるが、臨床のときに聞く人間の複数の声、その調子をはっきりと聞きとる習慣が、訳詩にも反映しているのかもしれない。音楽の世界に絶対音感というものがある。その「用語」を流用すれば、「絶対言語感(絶対肉声感)」というものが中井にはあって、ひとりひとりの声を中井自身の声とは識別して動かすことができるのかもしれない。ふつう、ひとは自分の声しか動かせない。耳のいいひとは「ものまね」として口調を動かすことができる。けれど「文体摸写」とはまた違った形、独立した文体として、複数の声を作品に取り込むのはとても難しい。そういうことができるのは精神科医の日常の力かもしれない。

焔が高く揚がって 煙が濃く舞えば、

 この「濃く」という副詞的なつかい方がまた、とてもおもしろい。「煙が濃くなりながら/煙が舞う」ということなのだが「なりながら」を省略することで煙が「肉体」を獲得する、という感じがある。




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藤維夫「晩秋のピアノフォルテ」

2014-04-01 11:52:14 | 詩(雑誌・同人誌)
藤維夫「晩秋のピアノフォルテ」(「SEED」34、2014年02月20日)

 藤維夫「晩秋のピアノフォルテ」の感想を、いま、ここで書くのはかなり季節外れの感じがするのだけれど、04月01日なのだから「今は晩秋だ」と言い張って書いてみよう。

おそらく病んでいる影に沿う部分というものは
ありきたりの区別になくて
雲行きかもしれない霧の彷彿とかさなり
いつしか何もなく消滅するのだった

 うーん、何が書いてあるのかな? おぼろ(春なので、こういうことばが出てきてしまう)というか、あいまいだ。この詩のなかのことばでいえば「霧」のなかに迷い込んだ感じ。でも、霧のなかでも何かが見える。
 1行目。「影」がある。その影は「病んでいる」。これは「比喩」なので、まあ、わからない。適当に「健康ではない影」、くっきりした影ではないのだろうくらいにぼんやりと予測をつける。その影のそばには影でないものがある。「沿う」ということばは影に向き合ったとき「輪郭」のように感じられる。影の輪郭がぼんやりしている--という感じかなあ。
 2行目。その輪郭というのは「区切り」のことでもあるな。輪郭というのは何かを区切る。それが「ありきたり」の区切りではない。明確な、たとえば鉛筆でたどれるようなものではないということ。
 3行目。「雲」ということばを手がかりに、その影の輪郭は、雲行き次第であいまいになる、と考える。感じる。曇ってきて、ものの影があいまいになる。薄れる。こういうぼやけ方を「病んでいる」というのかも、と1行目のことばがよみがえる。そのぼんやりしたあいまいさ、それは霧のようでもある。ぼんやりのなかに「霧」が重なってくる。
 4行目。その霧もいつかは消えていく。そのとき「病んでいる影」はどうなったか。日常の感覚から言えば、霧が晴れ日が差してきたのだから影は再びあらわれる。
 けれども、詩のなかではちょっと違ったことが起きる。
 影が日差しが翳ってきたのにあわせ、ぼんやりと輪郭をなくしていく。まるで霧のなかの存在のように、そこにあることはわかっているのにぼんやりとした感じで輪郭を明確にできない。霧に溶け込んでしまっている。その霧が消えてしまうと、霧のなかに溶け込んでしまった影は霧といっしょに消えてしまう。
 ことばは「もの」と重なり、ものが変化するときその変化のなかに引きずり込まれてしまう。ことばは、もう日常にはもどれない。この、変な運動、ことばのなかで起きる非日常、ことばの運動だけが描き出す幻--それが詩である。
 弱々しい何か(病んでいる影)が弱々しい何か(霧につながる雲行き)のなかで輪郭(ありきたりな区切り)を失い、あいまいさそのものとなる。そのあいまいさは、霧のように弱々しい存在(同類のもの)のなかに融合する。
 つまり「比喩」がこのとき「完結」する。「ひとつの世界」を構築する(と、書くとかっこいいね。)
 この融合までを書くのが、ふつうの詩である。いわゆる「抒情詩」になる。
 藤井は、この融合を利用して「手品」をしてみせる。「論理」というものを持ち込み、論理で世界を思わぬ方向へ突き動かしていく。ここで「論理」が出てくるのは、藤が「論理」を生きる人間だからである。
 私の「感覚の意見」では、引用した4行のなかの「論理」だけで十分なのだが(十分すぎるのだが)、それをさらに突き動かしていく。

それでいいのだから
思い起こすべき人の襤褸の失態さえあたたかいのだ

 「襤褸の失態」か。それが「あたたかい」か。そして、それを「思い起こす」のか。「病んでいる影」が「襤褸の失態」と言いなおされるとき、それはセンチメンタルになる。センチメンタルだから「それでいいのだから」というわざとらしい「論理の強調」がある。強引に論理を前面に出すことで、藤井は抒情を洗い流そうとする。抒情の「あいまいな影」のようなものを洗い流し、清潔な(?)、すっきりしたものにしたいとことばを動かす。
 ここに藤の本能があるのだけれど。
 つぎの部分でおもしろくなくなる。

動こうとするもの
動いたものですら
落日の言い訳になろうと言うのが面白い

 藤は「面白い」と言うけれど、どこが? と私は聞き返したくなる。
 動こうとする「もの」、動いた「もの」。このふたつの「もの」が「もの」という抽象でしかない。「病んでいる影」というのははっきりとはわからないけれど「影」という具体を含んでいるのに、「もの」は抽象的すぎる。「名詞」だけれど「もの」を「名指し」していない。いっさいの具体を伝えない。
 「落日」に戻ってくるけれど、それこそ「言い訳」じみているなあ。
 書き出しの4行で終わっていれば、とてもいい詩だったのになあ、ついつい「論理」で世界構造を鍛え直そうとして、ぎすぎすしてきたなあ、と思う。

 それとも春に晩秋の詩を読むから、日常の感覚(肉体の感覚)と非日常の感覚(頭の感覚)がかみあわなくて、文句を書きたくなるのかな? これが木の芽どきの頭の感覚?
 まあ、いいか。
 秋に読めば、わかるかもしれない。桜の花が散りはじめたいまの季節に、この詩の感想を書こうとしたのが間違っているのかもしれない。私の感想は、その日その日の状態に、いつも動かされている。

詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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