詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井優子『たがいちがいの空』

2014-04-15 11:58:21 | 詩集
藤井優子『たがいちがいの空』(思潮社、2014年03月31日発行)

 藤井優子『たがいちがいの空』にはいくつかの声があって、どの声がいちばん藤井らしいのか、私にはまだわからない。三つの部分にわかれている。そのうちの「Ⅱ」は「物語」の一シーンという印象がある。
 で、「物語」というのは「現実」とは違うということに特徴がある。現実を描いているのだが、現実そのものではない。この「違い」をあらわすことばを何と言えばいいのかなあと考えていたら……。「はなのあだし」。そうか、「あだし」か。
 私は自分では「あだし」ということばをつかわないので、私の理解している「意味」はいいかげんかもしれないが。「あだし」ということばから受ける印象は、なんとなく、「実がない」というか、嘘っぽいというか、むこうが透けて見えるというか、やくざっぽい感じ。「実がない」ので「実をつくる」。そうやってつくられた「実」が「物語」。
 これは私の「感覚の意見」であって、藤井が「あだし」にこめた気持ちは、私の感じているものとは違うかもしれない。
 私の言い訳を先に書いても仕方がないのだが……。

うつむいているようでした
いえ うなだれていたというか
--そうでしょうか 見事だったのに

 詩は、突然、会話から始まる。そしてその会話には「意見の相違」がある。最初の2行を「私(藤井)」の意見とすれば、3行目は相手の意見。二人の意見に「相違」があるだけではなく、「私」の意見にも「相違」がある。一つに固まっていない。固まっていないとはいっても「うつむいている」と「うなだれている」というのはどこかに共通するものがあって、完全に違っているわけではない。「私」は、なんとなく揺らいでいる。
 この「揺らいでいる」部分へ、相手がぐいと入ってくる。何かがぐいと入ってくる。そして、その揺らぎを突き動かす。もともと揺らいでいるのだから、ぐいと割り込まれたら、それを押し返すこともできずに、動かされてしまう。そうして「私」が「私」でなくなる。それが「物語」になるのだが、もともとしっかりしたものがあって動いていくわけではないので、そこに何かしら「あだし」っぽいものがまじる。
 でも、その「あだし」が、「現実」を越える「現実」かもしれない。だから、ことばは、それをつかみとってしまう。ことばでしかつかみ取れないもののために、「物語」を受け入れる。「あだし」が現実を動かして物語にする--という相互作用がここから始まる。
 「現実」「物語」「あだ」が三位一体(?)になって動く瞬間--そのことばの運動に詩がある、と感じて藤井はことばを動かしているのかもしれない。

 こんな抽象的なことばを並べてもしようがないので、詩にもどろう。

 「うつむいている」のは花。「見事」なのは花。その花を中心に「物語」は動いていく。植物園の暗いところに花が咲いている。

はいったら出てこれないんじゃないかって
そう思って怖かったのに
あの方 平気でかぶさってくるから
目の端で空が切れて
あの花が息を吸ったみたいにふくらんで
まるで女にのぞかれているような気がしました
--咲いた花の傍ですもの 無事にはすみませんよ

 セックスしながら、花を見る。その花はふくらんで大きくなる。「まるで女にのぞかれている」と書いているが、そのとき「私」は花になって自分自身を見ているのだろう。男は「無事にはすみませんよ」は言うのだが、それは「無事にはすまない」ことを「私」が最初から望んでいたからである。うつむいて咲きながら、だれかに「見事だ」と見つめられ、そのこことばが肉体のなかへ入ってくるのを待っていたのだ。

ええ それでわかったんです
花は闇を吐きながら咲いているって
でも だんだん吐ききれなくなってきて
自分の闇に侵されて死ぬんだって

 花は欲望を吐き出しながら咲く。咲くことは欲望を形にすること。このとき「花」は「私(藤井)」そのものである。私(花)は欲望(闇)を吐きながら体を開く(咲く)。欲望は吐いても、肉体は吐ききれない。肉体のなかから欲望を誘い出しつづける。欲望が自分を越えて育っていく。男に犯されて(?)欲望が死ぬのではなく、男と交わり、そこから始まる欲望のために、欲望に侵されて死ぬ。エクスタシー。しかし、その「死ぬ」はことばを換えれば完全な開花である。誰の手も届かない開花。自分にさえも手の届かない開花(エクスタシー)。それこそ「見事」ということばで、そこに「ある」ものとして存在させるしかないものになる。
 これは、もちろん「ことば」でしか存在させることのできない「あだ」であるけれど、それが「ある」ということが「わかった」。「わかる」ために、植物園の花を見て、その花の傍らで、男とセックスをし、男によってさらに花開く女になる。花開きながら、この自分を越えてしまう花によって死ぬ--エクスタシー。それがあるここと、自己を越える何か、自己を死にいたらしめることで生まれる何かがあることをつかみ取る。
 こういう「詩」は「物語」を基盤にしないと花開かないものなのかどうかわからないが、藤井は「物語」を利用しながら、花開かせている。「あだし」にかけている。
月の実を喰む―詩集
藤井優子
花神社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(24)

2014-04-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(24)          

 「総督領」には「きみ」という人物が登場する。「きみ」は「総督領」の長官に任命される。それに対して詩人は「それでいいのかい? きみはそれで満足なのかい?」と問う。総督領の長官はだれにでも手に入れることのできる地位ではないのだけれど……。

あんまりだ。
きみは偉大な 高貴な行為のために
造られた人間じゃないか。

 「偉大な 高貴な行為」を「詩人(芸術家)」あるいは「学者」と考えると、カヴァフィスの書いていることがわかる。政治は偉大な仕事、高貴な仕事ではない。これは間接的にカヴァフィスが、自分の仕事は偉大、高貴な行為であるということになるのだが。
 こういうことを正面切っていうのではなく、仲間うちの口語で語るところがカヴァフィスの特徴である。仲間うちの口調であることによって、「政治の高官は偉大な仕事ではない」という認識が仲間のあいだで共有されていることがわかる。カヴァフィスには仲間がいる。カヴァフィスは、一対一の関係のなかでことばを動かしているのではなく、常に他人を含めた関係のなかでことばを動かしている。ことばに自分以外の、他者の認識(過去)を反映させている。そのために、そこで動くことばがドラマチックになる。「いま」を語っているのに、その「いま」に複数の「過去」が噴出してくる。

きみの魂が焦がれ泣くのは別のもの。
地区民とソフィストの称賛だ。
こりゃあ得難い極み。金で測れない値打ちの願いさ。
アゴラ、劇場、月桂樹のかんむり--、
どれもアルタクセルクセスからは得られない。
どもも総督領にゃない。
それなしでどんな人生を送る気だい?

 「魂」が満足するのは、魂が発することばへの称賛である。詩人はそれなしでは生きられない。これは同類(詩人)からの、同類の人間に対する告白でもある。カヴァフィスは自分自身を語っている。自分と「きみ」とを区別していない。それが口調となって表現されている。中井久夫は、そういう人間関係を口調によって訳出している。
 「魂」ということばは、この詩のなかでは抽象的で、何か浮き立って見えるかもしれないが、そういうことばが浮き立つのはまったくの他人の関係のときである。何度も語り合い、親しい間柄なら、抽象的な言語に対しても共通の認識がある。
 カヴァフィスはだれとどんなことばを共有し、だれとどんなことばを共有していないかを識別してことばを動かしている。中井久夫はそれを向き合いながら、詩人のこころのなかで起きている「こと」を描いている。
 「きみ」なしでは、この市も私もさびしいよ、と間接的に語っている。
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