監督 ヤン・オーレ・ゲルスター 出演 トム・シリング、マルク・ホーゼマン、フリーデリッケ・ケンプター、ミヒャエル・グビスデク

モノクロ映画、コーヒー、たばこ、日常のあれこれ……。こう並べるとジム・ジャームッシュ「コーヒー&シガレッツ」みたいだが。私の印象では、それにウディ・アレンが加わった感じ。人間観察がときどき辛辣。温かいのだけれど、辛辣。
おもしろいシーンはいろいろあるが、たとえば主人公が昔の同級生と出会ったときのエピソード。昔はデブで「デブリカ」と呼ばれていた。いまはダイエットに成功し、舞台で役者をやっている。芝居がおわって、劇場の前で不良にからまれる。それに反論し、止めに入った主人公が不良に殴られる。そのあと、楽屋でセックス……。女の方がかなりむりな注文をつける。「デブの女が好き、太った女が好きと言って」と言うのだ。昔のコンプレックスが残っているのだ。で、主人公は気を削がれてセックスが中断する。そのあと、男が「なぜ、チンピラにからかわれたくらいで反論した。無視すればよかったのに」と言う。女は「私が中学生で太っていたときに、あなたたちのからかいを無視したみたいに? あのとき私が傷ついていなかったわけではない。傷ついていた。知らないでしょう。いまは、だから反論するのだ、言い返すのだ」と答える。これ、いいなあ。きちんと自分の時間を生きている。
主人公は一種のモラトリアム人間で、父親のすねをかじって生きている。大学を中退したのに、まだ通ってると嘘もついている。そのモラトリアム人間が、どんな形であれ、真剣に生きている人間と出会い、出会うたびに人間が映画のなかで動きはじめるというオムニバス映画なのだ。
最後に入ったバーで、突然、主人公に語りかける老人のエピソードもいいなあ。
表の通りで自転車に乗る特訓をした。父親が手を離すので倒れて顔が傷だらけになった。やっと乗れるようになって通りを走り回っていると、みんなが笑う。父は「笑いものになるな」と叱った。でも、自分はみんなが笑っているとは思わなかった。喜んでいると思った。戦争の末期、みんなが商店の窓に石をぶつけてガラスを割った。とても悲しかった。道がガラスだらけで自転車で走れないと思って悲しかった。
酔いつぶれて、主人公にからみながら言うんだけれど、老人の語る彼自身のよろこびと悲しみが他人からかけはなれている感じが、台詞だけではなく、肉体全体からつたわってくる。感情というのはまったく個人的なものなのだとわかる。「そんなこと、おれとは関係がない」と主人公が思っていることでとてもよくわかる。そして、そんなことおれとは関係ないと思っているのに、「みんなが喜んでくれていると思った」「ガラスだらけで自転車に乗れないと思った」という感情の断片が主人公にぐいと刺さってくる。共感(?)する必要はないのに、あ、この人はこんな具合に生きていたのか、とわかってしまう。
最初に書いた同級生のエピソードも同じ。突然、彼女はこんな感情を生きてきたのか、とわかる。わかってしまう。まるで、道に倒れて呻いている人を見たとき、自分の肉体ではないのに、この人は腹が痛いのだとわかるように、他人のものなのに他人の感情がわかってしまう。
「共感」というとちょっと違う印象があるが、これもまた共感なのだと思う。
映画の最初に出てくるアパートの上の階の住人(男)が、妻が乳ガンになって手術をしたあとセックスがない。妻は料理だけに熱中している。自分は地下室でサッカーを見ている--というようなことを愚痴る。ある日、その男が地下室でサッカーゲーム(人形でボールを蹴飛ばしてゴールを狙う)をひとりでしているのを見てしまう。誰も男を相手にしないのだ。そのとき見てしまう孤独と、孤独のいらだち(人形をやたらと力を込めて動かしている)をわかってしまう。
主人公は、いわば自分自身の感情をはっきりつかみきれていないために何をしていいかわからないのだけれど、世界には感情がうごめいているということをわかってしまう。他人の感情というものに主人公が気づきはじめる--そういうことをテーマにした映画だね。
他人の感情というものが台詞で語られ、主人公は無口のままという対比が、ちょっとつらい。他人の感情が台詞ではなく、肉体の動きそのもので明確になるともっとおもしろくなると思う。(上の階の男のサッカーゲームのように。)あるいは逆に、運転免許証を受け取りに行った先の係員とのやりとり、地下鉄で無賃乗車を取り締まる2人組とのやりとりのように、台詞をもっと多くしてしまうのも、それはそれでおもいしろいかもしれない。少し中途半端。だから(ジム・ジャームッシュ+ウディ・エレン)÷2、という印象を持ってしまうのかなあ。
(KBCシネマ2、2014年04月02日)

モノクロ映画、コーヒー、たばこ、日常のあれこれ……。こう並べるとジム・ジャームッシュ「コーヒー&シガレッツ」みたいだが。私の印象では、それにウディ・アレンが加わった感じ。人間観察がときどき辛辣。温かいのだけれど、辛辣。
おもしろいシーンはいろいろあるが、たとえば主人公が昔の同級生と出会ったときのエピソード。昔はデブで「デブリカ」と呼ばれていた。いまはダイエットに成功し、舞台で役者をやっている。芝居がおわって、劇場の前で不良にからまれる。それに反論し、止めに入った主人公が不良に殴られる。そのあと、楽屋でセックス……。女の方がかなりむりな注文をつける。「デブの女が好き、太った女が好きと言って」と言うのだ。昔のコンプレックスが残っているのだ。で、主人公は気を削がれてセックスが中断する。そのあと、男が「なぜ、チンピラにからかわれたくらいで反論した。無視すればよかったのに」と言う。女は「私が中学生で太っていたときに、あなたたちのからかいを無視したみたいに? あのとき私が傷ついていなかったわけではない。傷ついていた。知らないでしょう。いまは、だから反論するのだ、言い返すのだ」と答える。これ、いいなあ。きちんと自分の時間を生きている。
主人公は一種のモラトリアム人間で、父親のすねをかじって生きている。大学を中退したのに、まだ通ってると嘘もついている。そのモラトリアム人間が、どんな形であれ、真剣に生きている人間と出会い、出会うたびに人間が映画のなかで動きはじめるというオムニバス映画なのだ。
最後に入ったバーで、突然、主人公に語りかける老人のエピソードもいいなあ。
表の通りで自転車に乗る特訓をした。父親が手を離すので倒れて顔が傷だらけになった。やっと乗れるようになって通りを走り回っていると、みんなが笑う。父は「笑いものになるな」と叱った。でも、自分はみんなが笑っているとは思わなかった。喜んでいると思った。戦争の末期、みんなが商店の窓に石をぶつけてガラスを割った。とても悲しかった。道がガラスだらけで自転車で走れないと思って悲しかった。
酔いつぶれて、主人公にからみながら言うんだけれど、老人の語る彼自身のよろこびと悲しみが他人からかけはなれている感じが、台詞だけではなく、肉体全体からつたわってくる。感情というのはまったく個人的なものなのだとわかる。「そんなこと、おれとは関係がない」と主人公が思っていることでとてもよくわかる。そして、そんなことおれとは関係ないと思っているのに、「みんなが喜んでくれていると思った」「ガラスだらけで自転車に乗れないと思った」という感情の断片が主人公にぐいと刺さってくる。共感(?)する必要はないのに、あ、この人はこんな具合に生きていたのか、とわかってしまう。
最初に書いた同級生のエピソードも同じ。突然、彼女はこんな感情を生きてきたのか、とわかる。わかってしまう。まるで、道に倒れて呻いている人を見たとき、自分の肉体ではないのに、この人は腹が痛いのだとわかるように、他人のものなのに他人の感情がわかってしまう。
「共感」というとちょっと違う印象があるが、これもまた共感なのだと思う。
映画の最初に出てくるアパートの上の階の住人(男)が、妻が乳ガンになって手術をしたあとセックスがない。妻は料理だけに熱中している。自分は地下室でサッカーを見ている--というようなことを愚痴る。ある日、その男が地下室でサッカーゲーム(人形でボールを蹴飛ばしてゴールを狙う)をひとりでしているのを見てしまう。誰も男を相手にしないのだ。そのとき見てしまう孤独と、孤独のいらだち(人形をやたらと力を込めて動かしている)をわかってしまう。
主人公は、いわば自分自身の感情をはっきりつかみきれていないために何をしていいかわからないのだけれど、世界には感情がうごめいているということをわかってしまう。他人の感情というものに主人公が気づきはじめる--そういうことをテーマにした映画だね。
他人の感情というものが台詞で語られ、主人公は無口のままという対比が、ちょっとつらい。他人の感情が台詞ではなく、肉体の動きそのもので明確になるともっとおもしろくなると思う。(上の階の男のサッカーゲームのように。)あるいは逆に、運転免許証を受け取りに行った先の係員とのやりとり、地下鉄で無賃乗車を取り締まる2人組とのやりとりのように、台詞をもっと多くしてしまうのも、それはそれでおもいしろいかもしれない。少し中途半端。だから(ジム・ジャームッシュ+ウディ・エレン)÷2、という印象を持ってしまうのかなあ。
(KBCシネマ2、2014年04月02日)
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谷内 修三 | |
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