詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヤン・オーレ・ゲルスター監督「コーヒーをめぐる冒険」(★★★)

2014-04-03 23:53:36 | 映画
監督 ヤン・オーレ・ゲルスター 出演 トム・シリング、マルク・ホーゼマン、フリーデリッケ・ケンプター、ミヒャエル・グビスデク

 モノクロ映画、コーヒー、たばこ、日常のあれこれ……。こう並べるとジム・ジャームッシュ「コーヒー&シガレッツ」みたいだが。私の印象では、それにウディ・アレンが加わった感じ。人間観察がときどき辛辣。温かいのだけれど、辛辣。
 おもしろいシーンはいろいろあるが、たとえば主人公が昔の同級生と出会ったときのエピソード。昔はデブで「デブリカ」と呼ばれていた。いまはダイエットに成功し、舞台で役者をやっている。芝居がおわって、劇場の前で不良にからまれる。それに反論し、止めに入った主人公が不良に殴られる。そのあと、楽屋でセックス……。女の方がかなりむりな注文をつける。「デブの女が好き、太った女が好きと言って」と言うのだ。昔のコンプレックスが残っているのだ。で、主人公は気を削がれてセックスが中断する。そのあと、男が「なぜ、チンピラにからかわれたくらいで反論した。無視すればよかったのに」と言う。女は「私が中学生で太っていたときに、あなたたちのからかいを無視したみたいに? あのとき私が傷ついていなかったわけではない。傷ついていた。知らないでしょう。いまは、だから反論するのだ、言い返すのだ」と答える。これ、いいなあ。きちんと自分の時間を生きている。
 主人公は一種のモラトリアム人間で、父親のすねをかじって生きている。大学を中退したのに、まだ通ってると嘘もついている。そのモラトリアム人間が、どんな形であれ、真剣に生きている人間と出会い、出会うたびに人間が映画のなかで動きはじめるというオムニバス映画なのだ。
 最後に入ったバーで、突然、主人公に語りかける老人のエピソードもいいなあ。
 表の通りで自転車に乗る特訓をした。父親が手を離すので倒れて顔が傷だらけになった。やっと乗れるようになって通りを走り回っていると、みんなが笑う。父は「笑いものになるな」と叱った。でも、自分はみんなが笑っているとは思わなかった。喜んでいると思った。戦争の末期、みんなが商店の窓に石をぶつけてガラスを割った。とても悲しかった。道がガラスだらけで自転車で走れないと思って悲しかった。
 酔いつぶれて、主人公にからみながら言うんだけれど、老人の語る彼自身のよろこびと悲しみが他人からかけはなれている感じが、台詞だけではなく、肉体全体からつたわってくる。感情というのはまったく個人的なものなのだとわかる。「そんなこと、おれとは関係がない」と主人公が思っていることでとてもよくわかる。そして、そんなことおれとは関係ないと思っているのに、「みんなが喜んでくれていると思った」「ガラスだらけで自転車に乗れないと思った」という感情の断片が主人公にぐいと刺さってくる。共感(?)する必要はないのに、あ、この人はこんな具合に生きていたのか、とわかってしまう。
 最初に書いた同級生のエピソードも同じ。突然、彼女はこんな感情を生きてきたのか、とわかる。わかってしまう。まるで、道に倒れて呻いている人を見たとき、自分の肉体ではないのに、この人は腹が痛いのだとわかるように、他人のものなのに他人の感情がわかってしまう。
 「共感」というとちょっと違う印象があるが、これもまた共感なのだと思う。
 映画の最初に出てくるアパートの上の階の住人(男)が、妻が乳ガンになって手術をしたあとセックスがない。妻は料理だけに熱中している。自分は地下室でサッカーを見ている--というようなことを愚痴る。ある日、その男が地下室でサッカーゲーム(人形でボールを蹴飛ばしてゴールを狙う)をひとりでしているのを見てしまう。誰も男を相手にしないのだ。そのとき見てしまう孤独と、孤独のいらだち(人形をやたらと力を込めて動かしている)をわかってしまう。
 主人公は、いわば自分自身の感情をはっきりつかみきれていないために何をしていいかわからないのだけれど、世界には感情がうごめいているということをわかってしまう。他人の感情というものに主人公が気づきはじめる--そういうことをテーマにした映画だね。
 他人の感情というものが台詞で語られ、主人公は無口のままという対比が、ちょっとつらい。他人の感情が台詞ではなく、肉体の動きそのもので明確になるともっとおもしろくなると思う。(上の階の男のサッカーゲームのように。)あるいは逆に、運転免許証を受け取りに行った先の係員とのやりとり、地下鉄で無賃乗車を取り締まる2人組とのやりとりのように、台詞をもっと多くしてしまうのも、それはそれでおもいしろいかもしれない。少し中途半端。だから(ジム・ジャームッシュ+ウディ・エレン)÷2、という印象を持ってしまうのかなあ。
                      (KBCシネマ2、2014年04月02日)




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谷内 修三
思潮社
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新保啓「約束」

2014-04-03 10:22:17 | 詩(雑誌・同人誌)
新保啓「約束」(「詩的現代(第二次)」8、2014年03月発行)

 新保啓「約束」は「時間」のことをぼんやり考えている。昔だれかが、時間のことはだれもが知っているけれど、語ろうとすると語れないというようなことを言った。逆に言えば、どんなふうに語っても「時間」の哲学から外れない、どんな語り方でも時間を語れるということかもしれない。
 新保は、こんな具合。

つまみを押しても引いても
びくともしないので
今もトイレの時計の三分遅れが
続いている
ドアを開けて出る
三分前に戻る

 そんなことはないのだけれど……そうであったらおもしろいね。何か失敗するたびにトイレに駆け込み、飛び出し、失敗をやりなおす。現実には不可能なのだけれど、トイレでぼんやり座って時間を過ごしている。トイレから出てきたら、トイレにいたこととは無関係に時間がある。この不思議な「ずれ」がおもしろい。「ずれ」があるんだと気づいている新保がおもしろい。
 だからね、「算数」でいうと、ほんとうはこの「三分遅れ」は間違っている、なんていっても始まらない。トイレの時計が三分遅れているなら、トイレから出てきたら外の時計は三分先へ進んでいる。三分、新保はトイレで落としてきたことになる。新保の「肉体」はトイレにいた「三分遅れ」の時間を身につけいてるので「三分前に戻る」と錯覚するのだが、外の時間から言わせれば間違っている。
 でも、こういう「間違い」が人間のおもしろいところだからね。間違いをとおしてしかつかみとれないものがある。詩なんて、そもそもが間違いなのだから、こういうことはどうでもよくて--じゃなくて、こういう間違いをどんどん突き進んでいけばいいのである。
 間違いに気づかないまま、新保はつづけている。

親戚のおじいさんが
先日 午前一時七分に亡くなった
静かな時間だ
犬も猫もみんな寝ている
風が少し吹いて
木々の葉を揺らす程度に

 この「一時七分」というのは「トイレの時計」、それとも「正常(?)な時計」の時間? トイレの時計なら、ほんとうは一時十分だね。その三分のずれを、新保は「静かな時間だ」と呼んでいるような気もする。人が死んで、それがつたわるまでの間の、空白の時間というようなことも考えるなあ。犬も猫も寝ている、風が少し吹いている、か。

一日の時間が伸びるなら
伸びた分をどうしよう

 さあ、どうしよう。一日三分ずつ伸びたとしたら、伸びたことに気がつくかな?

きょうは病院へ予約に来た
予約は三十分刻み
診察はいつも一時間近く遅れる
だから窓の向こうの山ばかり見ている
この窓枠に取り込まれた稜線の手前を
泳ぐように
白衣の人が通り過ぎる

鳥の時間には空を飛び
無視の時間には葉裏で休み
雨が降ったら
傘を差して外出し
晴れたら海へ
決まった時間に港から
船が出る

 「決まった時間」(たとえば「予約の時間」)がある一方、そういう時間の一点を指すのではない広がりのある時間がある。「診察する時間」「山を見ている時間」。これは「現在進行形」の時間だね。動くことでつながっている時間。山を見ているというのは動かないようであって、そのあいだに思いが動いているからね。動きは時間を生み出している。広げている。(動くことで時間を消費している、といえば「経済学」になってしまうけれど。)
 この動くことでつくりだす時間、生み出す時間というのは「人間」だけのことではない。
 鳥は空を飛ぶ、虫は葉裏で休む。そのときも、そこに「時間」がひろがっている。人間はそういう時間を無視するけれど、それは逆に言えば見落としているということかもしれない。そこには人間の知らない充実した時間があるかもしれない。時間の充実があるかもしれない。
 時間というのは秒針が刻むものと人間の肉体(感情)が刻むものがある。
 秒針が刻むもの、時計の時間はみんなに共有されているけれど、肉体の時間は個人個人のもの。人間の充実は個人のもの。--であるはずなんだけれど、ときどき、他人の充実に共感し、自分のものでもないのに「共有」してしまうことがある。一種の誤読なんだけれど。他方、秒針の時間を「共有」できず、遅刻するなんてこともあるが、ほっておこう。
 詩を読んでいると、そして、その詩についてあれこれ思っていると、いまなら新保の思っていることを「共有」しているなあ、と感じる。「共有」の仕方が間違っているかもしれないけれど、そこに新保がいると感じる。触れている感じ。これが楽しい。
 そうか、新保はぼんやり風景を見ながら鳥になったり虫になったりしているのか。あるいは港から出て行く船を想像したりするのか。「何分遅れ」とは言えないけれど、「いま/ここ」から逸脱して、ひとりだけの時間を生み出している瞬間だね。それを「共有」するのはほんとうに楽しい。



詩集 あちらの部屋
新保 啓
花神社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(12)

2014-04-03 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(12)          

 「テルモピュライ」とは古代ギリシャの戦場のよう。中井久夫は注釈を書いているが、私はギリシャのことを知らないので、よくのみこめない。斥候エフィアルテスの裏切りによって、スパルタ兵は「テルモピュライ」で全員戦死したという。

いっそうたたえられよ、見通しつつも踏み留まる者。
ついにはエフィアルテスのたぐいが出て
結局ペルシャ兵が戦線を突破すると
見通しつつ持ち場をすてぬ者がけっこういる。

 負ける、とわかっていても逃げない者がいる、ということ。「踏み留まる」「持ち場をすてぬ」とことばをかえてあらわれる兵。その兵を「けっこういる」と言う。この「けっこう」が、なつかしいような、うれしい気持ちにさせる。
 「相当」という意味だと思う。
 しかし、どこか「申しぶんない」という感じではないのだが、何かしらの「満足」がどこかに隠れているなあ、と思う。「あ、おれもその手の口だよ」という感じだ。「おれも」の「も」が「けっこう」なのだと感じる。「連帯」が生み出す安心感といえるかもしれない。
 詩の引用が前後するのが、

金持ちならば 気前よく
そうでなくてもそれなりに気前よく、
できるだけ人だすけをして

 といういうときの「それなりに」の不思議なつながり。むりをしないで、けれどもちょっと背伸びをして、なのかもしれない。あるいは、ちょっと「いいかっこう」をして、ということにもなるかな?
 そして、ここに「人だすけ」という日本語。その「人」は意味としては「他人」だけれど、むしろ、「自分」に近い。情けはひとのためならず、の「ひと」。自分に帰ってくる「ひと」。「人だすけ」というのは「他人」を助けているのではなく「自分」を助けている。「人」のなかに「自分」がいる。
 負けるとわかっていても逃げない「人」のなかに自分がいる。その「人」と踏み止まる。それは「自分」を発見すること、でもあるのかな? ようやく「自分」をみつけたから、その自分から逃げるわけには行かず、踏み止まるのだ。連帯をみつけ、連帯にとどまる。「戦友」ということばをふいに思い出した。
 カヴァフィスの詩は史実を書いても、その事件を歴史のなかで位置づけるというよりも、その事件を生きた人間の肉体と感情に還元して、人間そのものを動かす。中井の訳は、その人間の思った「こと」を、その場で生きている「肉声」で再現している。


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