リッツォス拾遺(中井久夫訳)(3)(作品は「現代ギリシャ詩選」から)
リッツォスはカヴァフィスに会ったことがあるのだろうか。詩を読み、噂を聞いてつくられたカヴァフィスのイメージだろう。「部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。」が生き生きしている。他人の視線をサファイアに引きつけ、その一方で他人のことばを吟味する。「舌」「味利き」という表現、ことばを「食べ物」として味わっているカヴァフィス。そうか、カヴァフィスは、すべてを食べていたのだ。しかも、冷徹に。欲望にふけるというよりも、欲望を確かめるように。
ここには何か不思議な矛盾のようなものがある。夢中にならない何か、「味利き」の「利き」がそういうことを感じさせる。「悪食」「貪食」が、矛盾という概念を刺戟する。美食ではない。悪食。だからこそ、食べて吟味する。その欲望の貪欲さが、そこにあるものを「うまく」してしまう。「うまい」ものにかえてしまう。
語られることば、語られたことば--それは、カヴァフィスに食べられること、咀嚼されること、その結果として詩に書かれることで、どんなに「悪食」であっても、「美食」にかわる。それが「許し」であり「恩寵」だ。リッツォスは、そのカヴァフィスの魔法を見ている。
「否定と肯定」「欲望と改悛」「一つの極から他の極まで」という反対のものが、カヴァフィスに食べられ、咀嚼されることで、カヴァフィスの「肉体」になってしまう。カヴァフィスの「ことばの肉体」になってしまう。カヴァフィスはどんなことばでも、自分の「ことばの肉体」の一部にしてしまう。
そんな姿を見ているのかもしれない。その姿は、人間というより、半神半獣のような、人間離れした強靱な何かを感じさせる。「罪に濡れぬ」というのは、人間の基準では罰せられないということかもしれない。カヴァフィスのことばをリッツォスは、そう受け取っていたのだろう。
それは野蛮な強靱さというものかもしれないが、カヴァフィスは野蛮だけではない。「秤」ということばが出てくるが、同時に「知」なのだ。野蛮と知性の結合--というのも何か矛盾を感じさせるが、矛盾が詩人のすべてであるとリッツォスはカヴァフィスを評価しているのだと思う。
リッツォスがカヴァフィスどうとらえていたのか--そう考えるとき、私は、ときどきもどかくし感じてしまう。
リッツォスはカヴァフィスを視覚でとらえすぎる。この詩には「匂い」ということばが出てくるが、匂いは嗅覚を刺戟するよりも、視覚へと変化して行ってしまう。それがリッツォスの特徴なのかもしれない。
「いつも灯油の匂いがただよっている」と書くが、リッツォスは「匂い」の世界、嗅覚の世界へとは入っていかない。「ただよう」は「炎がゆらぐ」の「ゆらぐ」へ、さらにはと「揺れる」へと変化していく。リッツォスは「匂い」さえも「ただよう」もの、「ただよい」(揺れ)として見ている。「影が壁に机に寝台に揺れる」の「影」ということばがでてきてしまうところが象徴的だが、輪郭を描くことが難しい光ではなく、目に見える形にたどりついてことばを動かさないとリッツォスは落ち着かないのだろう。「匂い」には形がないが、形のないままでは、リッツォスは、その存在を把握できないタイプの詩人である。その点でカヴァフィスと完全に異なっている。カヴァフィスは視覚を必要としない。視覚にたよらずに対象を把握してしまうところがある。たとえば、この詩に出てくる「匂い」で対象を把握してしまう。ところがカヴァフィスは「匂い」と書きながら、匂いではカヴァフィスをとらえきれずに、「形」のあるもに頼ってしまう。
「鏡」「姿」とリッツォスは書いているが、カヴァフィスは自分の存在を確かめるのに「鏡」を必要としなかった詩人である。目に頼らず、たとえば「詩人の部屋」で描かれていたように、「舌」で自画像を描ける。ことばを聞き、その味を知ることで自画像を描ける。声で、耳で、他人を理解すると同時に自分をとらえる詩人だ。
この詩を読むと、リッツオスとカヴァフィスの違いばかりが印象に残る。
リッツォスのことばを読んでいると、カヴァフィスのことを書いているというよりも、リッツォスがカヴァフィスを把握するとき、リッツォスの肉体のどの部分、感覚のどの部分をつかっていたかということの方を強く感じる。つまりリッツォスの自画像の方が目立ってしまう。
またランプが出てくる。「ランプのまわりには光の敏感な夜の虫とかずかずの記憶とが群がる。」の「虫」「群がる」ということばは、カヴァフィスのもっている野蛮な力を感じさせるけれど、生々しさはない。すぐに「老いたる者のしわを消し、そのひたいを広く見せ、若い身体の影を気高くし」というような明るいイメージがとってかわる。暗く、淫らで、野蛮な力は、リッツォスのことばでは掬い取ることができない。
おもしろいのは音に関する描写だ。カヴァフィスの描く音はもっぱらひとの声、口調であるのに対し、リッツォスは物理的な「物音」を書いている。リッツォスには「声」さえも「音」である。「果物売りの音」とリッツォスが書いているものをカヴァフィスなら「果物売りの声」と書くかもしれない。いや、「声」とは書かずに、売り口上をそのまま口語で書くのではないのか。
「ガラスの架け橋」ということばが出てくるが、そういう繊細な表現は、何かカヴァフィスの強さには似合わない。リッツォスの孤独には似合うけれど……。
カヴァフィスの男色の一面を描いている。詩の最後に「ランプの匂い」が出てくるが、これはリッツォスの感覚からすると「付け足し」のような印象がある。カヴァフィスは「匂い」に敏感だったかもしれないが、リッツォスは嗅覚は鋭くはない。リッツォスは視覚の詩人である。それは、「残ったのは小さな輪のいくつか。わかい巻き髪からはらりと落ちた巻き毛。ちぎれた鎖だ。」という部分にくっきりと見てとれる。ベッドに残っている巻き毛を「鎖」という別の形の比喩にする感覚に視覚を生きているリッツッスがあらわれている。眼で見たものが、別の眼で見えるものを呼び寄せ、そこに「意味」を見出す。リッツォスのことばは、そんなふうに動いていく。
朝の光が老人・カヴァフィスの皺という秘密をあばく。夜見えなかったものが、あるいはランプの明かりではやわらかな陰影に隠れていたものが、朝の強い光で明確に見える。リッツォスは明確を好む。硬質なものを好む。
それは「夏の夜の熱い吐息がゆっくりと冷えていった、あのシーツの端の硬い感触」ということばにあらわれている。熱い吐息の輪郭のない広がりよりも、汗が冷えて固くなっていくシーツの感触の、その「硬い感覚」。角があるもの、エッジがあるものにことばが動いていく。孤独を感じさせるもの、「炎が消えようとする」という感じのことに近づいていく。明確であり、そして孤立するものとリッツォスのことばは親和力がある。
カヴァフィスのことばは逆だ。リッツォスが書いていることばを借りて言えば「熱い吐息」のようにうごめくものと親和力がある。「残酷」「にくさげ」というなまなましいものとも親和力がある。そういうものと親和する力があるとわかっているから、リッツォスも、そういう表現を詩に取り込むのだが、だんだん自分の好みにしたがってことばが変わっていく。
ことばは書いている人を裏切ることはないのだ。どんなにカヴァフィスを描いても、リッツォスのことばはリッツォスをあらわしてしまう。
ただ「ひとつの不死なる言葉を直に吹き込んでいる」の「直に」はカヴァフィスをがっしりとつかんでいるように思える。カヴァフィスは対象に「直に」息を吹き込み、対象のもっている「声」にしてしまう。カヴァフィスの「ことば」が対象の「声」になる。肉体が「直に」ふれあって、本能がうごめくように、がまんしきれず「声」になる。ことばは「意味」を越えて、本能を「直に」露呈する「声」になる。
「カヴァフィスにささげる十二詩」
一 詩人の部屋
浮き彫りにした飾り付きの黒い書き机。銀の燭台が二つ。愛用の赤いパイプ。いつも窓を背に安楽椅子に座る詩人はほとんど目にとまらぬ。部屋のまん中のまばゆい光の中にいて語る相手を眼鏡越しに凝視する。巨きな、だがつつましい詩人の眼鏡。おのれのひととなりを、言葉の陰に、おのれのさまざまの仮面の陰に隠す。遠い距離にいる、きずつかぬ詩人。部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。嘴の黄色い若者が詩人をほれぼれと眺めて唇を舌で湿す時だ。詩人は海千山千。悪食。貪食。血の滴る肉を厭わぬ。罪に濡れぬ大人物。肯定と否定のあいだ、欲望と悔悛とのあいだを、神の手にある秤のごとく一つの極から他の極まで揺れる。揺れる、そのあいだ、背後の窓から光が射して、詩人の頭に許しと神聖の冠を置く。「詩が許しであればよし、なければ、われわれはいっさいの恩寵を望まない」と詩人はつぶやく。
リッツォスはカヴァフィスに会ったことがあるのだろうか。詩を読み、噂を聞いてつくられたカヴァフィスのイメージだろう。「部屋にいる者どもの視線をまんまとおのれの指のサファイアの絹ごしのきらめきに釘づけにして、通人の舌で彼らの語る言葉の味利きをする。」が生き生きしている。他人の視線をサファイアに引きつけ、その一方で他人のことばを吟味する。「舌」「味利き」という表現、ことばを「食べ物」として味わっているカヴァフィス。そうか、カヴァフィスは、すべてを食べていたのだ。しかも、冷徹に。欲望にふけるというよりも、欲望を確かめるように。
ここには何か不思議な矛盾のようなものがある。夢中にならない何か、「味利き」の「利き」がそういうことを感じさせる。「悪食」「貪食」が、矛盾という概念を刺戟する。美食ではない。悪食。だからこそ、食べて吟味する。その欲望の貪欲さが、そこにあるものを「うまく」してしまう。「うまい」ものにかえてしまう。
語られることば、語られたことば--それは、カヴァフィスに食べられること、咀嚼されること、その結果として詩に書かれることで、どんなに「悪食」であっても、「美食」にかわる。それが「許し」であり「恩寵」だ。リッツォスは、そのカヴァフィスの魔法を見ている。
「否定と肯定」「欲望と改悛」「一つの極から他の極まで」という反対のものが、カヴァフィスに食べられ、咀嚼されることで、カヴァフィスの「肉体」になってしまう。カヴァフィスの「ことばの肉体」になってしまう。カヴァフィスはどんなことばでも、自分の「ことばの肉体」の一部にしてしまう。
そんな姿を見ているのかもしれない。その姿は、人間というより、半神半獣のような、人間離れした強靱な何かを感じさせる。「罪に濡れぬ」というのは、人間の基準では罰せられないということかもしれない。カヴァフィスのことばをリッツォスは、そう受け取っていたのだろう。
それは野蛮な強靱さというものかもしれないが、カヴァフィスは野蛮だけではない。「秤」ということばが出てくるが、同時に「知」なのだ。野蛮と知性の結合--というのも何か矛盾を感じさせるが、矛盾が詩人のすべてであるとリッツォスはカヴァフィスを評価しているのだと思う。
二 詩人のランプ
そのランプは従順に仕える。詩人の明かりはこのランプでなくてはかなわぬ。その時時のあるべきように合わせて変わるランプ。詩人のこころの、永遠につきない、そしていつも思いがけない希みに合わせて変わるランプ。いつも灯油の匂いがただよっている。詩人が深夜ひとり帰宅するとき、匂いはやさしく、ひっそりと分をわきまえていつもある。疲労を五体ににじませ、むなしさを上着の織り目、ポケットの縫い目にしみとおらせて、ついには、あらゆるものの動きが我慢ならない、うわべかぎりのものと思ってしまう、その時、ランプは詩人にいくばくかの救いである。今日も芯にマッチを近づける。ぼっと炎がゆらぐ。(影が壁に机に寝台に揺れる)。いや何よりも鏡だ。すき透った脆い鏡。最初の一瞬に映る無邪気な、ありふれた、人めいたしぐさが、きみを保ち、ひとを支える。そんな鏡に映る姿を作り出す炎の力。
リッツォスがカヴァフィスどうとらえていたのか--そう考えるとき、私は、ときどきもどかくし感じてしまう。
リッツォスはカヴァフィスを視覚でとらえすぎる。この詩には「匂い」ということばが出てくるが、匂いは嗅覚を刺戟するよりも、視覚へと変化して行ってしまう。それがリッツォスの特徴なのかもしれない。
「いつも灯油の匂いがただよっている」と書くが、リッツォスは「匂い」の世界、嗅覚の世界へとは入っていかない。「ただよう」は「炎がゆらぐ」の「ゆらぐ」へ、さらにはと「揺れる」へと変化していく。リッツォスは「匂い」さえも「ただよう」もの、「ただよい」(揺れ)として見ている。「影が壁に机に寝台に揺れる」の「影」ということばがでてきてしまうところが象徴的だが、輪郭を描くことが難しい光ではなく、目に見える形にたどりついてことばを動かさないとリッツォスは落ち着かないのだろう。「匂い」には形がないが、形のないままでは、リッツォスは、その存在を把握できないタイプの詩人である。その点でカヴァフィスと完全に異なっている。カヴァフィスは視覚を必要としない。視覚にたよらずに対象を把握してしまうところがある。たとえば、この詩に出てくる「匂い」で対象を把握してしまう。ところがカヴァフィスは「匂い」と書きながら、匂いではカヴァフィスをとらえきれずに、「形」のあるもに頼ってしまう。
「鏡」「姿」とリッツォスは書いているが、カヴァフィスは自分の存在を確かめるのに「鏡」を必要としなかった詩人である。目に頼らず、たとえば「詩人の部屋」で描かれていたように、「舌」で自画像を描ける。ことばを聞き、その味を知ることで自画像を描ける。声で、耳で、他人を理解すると同時に自分をとらえる詩人だ。
この詩を読むと、リッツオスとカヴァフィスの違いばかりが印象に残る。
リッツォスのことばを読んでいると、カヴァフィスのことを書いているというよりも、リッツォスがカヴァフィスを把握するとき、リッツォスの肉体のどの部分、感覚のどの部分をつかっていたかということの方を強く感じる。つまりリッツォスの自画像の方が目立ってしまう。
三 夜明けの詩人とランプ
あ、今宵もようこそ。またしてもふたりが向かいあう。詩人とそのランプだ。詩人はランプを愛している。気にもとめていないような冷淡さはうわべだけだ。ランプへの愛は、ただ仕えてくれるからではない。何よりも、いつくしみ手塩にかける値打ちがある。古代ギリシャの生き残りの繊細なランプだ。ランプのまわりには光の敏感な夜の虫とかずかずの記憶とが群がる。ランプは老いたる者の皺を消し、そのひたいを広く見せ、若い身体の影を気高くし、その穏やかな灯は、まだ書かれていないページの白さのうえに拡がり、詩にひそむ深い血の紅を掩い隠す。明け方になり、ランプの光が弱まって、昼の光の薔薇色にとけこむ時、商店街の鉄のシャッターの開く音に、手押し車の、果物売りの音にとけこむ時、ランプは詩人の「不眠」そのものが凝り固まったひとつの物だ。それはまた、ガラスの架け橋でもある。詩人の眼鏡のガラスからランプのほやのガラスへ、ほやから窓のガラスへ、そして戸外へ、さらに外へ、向うへと続くガラスの架け橋。ガラスの橋は、詩人を彼の市アレクサンドリアの上空へと運ぶ。市井のまん中に詩人を据える。そして、詩人の意志で夜と昼とをひとつにつなぐ。
またランプが出てくる。「ランプのまわりには光の敏感な夜の虫とかずかずの記憶とが群がる。」の「虫」「群がる」ということばは、カヴァフィスのもっている野蛮な力を感じさせるけれど、生々しさはない。すぐに「老いたる者のしわを消し、そのひたいを広く見せ、若い身体の影を気高くし」というような明るいイメージがとってかわる。暗く、淫らで、野蛮な力は、リッツォスのことばでは掬い取ることができない。
おもしろいのは音に関する描写だ。カヴァフィスの描く音はもっぱらひとの声、口調であるのに対し、リッツォスは物理的な「物音」を書いている。リッツォスには「声」さえも「音」である。「果物売りの音」とリッツォスが書いているものをカヴァフィスなら「果物売りの声」と書くかもしれない。いや、「声」とは書かずに、売り口上をそのまま口語で書くのではないのか。
「ガラスの架け橋」ということばが出てくるが、そういう繊細な表現は、何かカヴァフィスの強さには似合わない。リッツォスの孤独には似合うけれど……。
四 ランプを消す
いよいよ大いなる消耗の時。ぎらつく朝。裏切って秘密をばらす朝だ。詩人の夜がまたしても一つ終わる。朝は、磨きあげた鏡よりも残酷に打ちのめす。にくさげに眼と唇のまわりの皺をいちいちあばきだす。こうなっては、ランプの思いやりも詮ない。カーテンを引いてもはじまらない。夏の夜の熱い吐息がゆっくりと冷えていった、あのシーツの端の硬い感触--。しかし、残ったのは小さな輪のいくつか。わかい巻き髪からはらりと落ちた巻き毛。ちぎれた鎖だ。あの同じ鎖だ。誰が鍛えた鎖か。いや、思い出は救いにはならぬ。詩もだ。しかし、眠ろうとして火を吹き消そうとしたランプのほやにかがみこみ、炎が消えようとする、いまわのひとときに、詩人ははっとさとるのだ、詩人は、永遠のガラスの耳に、ひとつの不死なる言葉を直に吹き込んでいるのだと。不死なることば、--あまさずおのれのものなる言葉、まことのおのれの息だ、物質のつく溜息だ。ところで、吹き消したランプの匂いが夜明けの部屋にただようのはいいものだね。
カヴァフィスの男色の一面を描いている。詩の最後に「ランプの匂い」が出てくるが、これはリッツォスの感覚からすると「付け足し」のような印象がある。カヴァフィスは「匂い」に敏感だったかもしれないが、リッツォスは嗅覚は鋭くはない。リッツォスは視覚の詩人である。それは、「残ったのは小さな輪のいくつか。わかい巻き髪からはらりと落ちた巻き毛。ちぎれた鎖だ。」という部分にくっきりと見てとれる。ベッドに残っている巻き毛を「鎖」という別の形の比喩にする感覚に視覚を生きているリッツッスがあらわれている。眼で見たものが、別の眼で見えるものを呼び寄せ、そこに「意味」を見出す。リッツォスのことばは、そんなふうに動いていく。
朝の光が老人・カヴァフィスの皺という秘密をあばく。夜見えなかったものが、あるいはランプの明かりではやわらかな陰影に隠れていたものが、朝の強い光で明確に見える。リッツォスは明確を好む。硬質なものを好む。
それは「夏の夜の熱い吐息がゆっくりと冷えていった、あのシーツの端の硬い感触」ということばにあらわれている。熱い吐息の輪郭のない広がりよりも、汗が冷えて固くなっていくシーツの感触の、その「硬い感覚」。角があるもの、エッジがあるものにことばが動いていく。孤独を感じさせるもの、「炎が消えようとする」という感じのことに近づいていく。明確であり、そして孤立するものとリッツォスのことばは親和力がある。
カヴァフィスのことばは逆だ。リッツォスが書いていることばを借りて言えば「熱い吐息」のようにうごめくものと親和力がある。「残酷」「にくさげ」というなまなましいものとも親和力がある。そういうものと親和する力があるとわかっているから、リッツォスも、そういう表現を詩に取り込むのだが、だんだん自分の好みにしたがってことばが変わっていく。
ことばは書いている人を裏切ることはないのだ。どんなにカヴァフィスを描いても、リッツォスのことばはリッツォスをあらわしてしまう。
ただ「ひとつの不死なる言葉を直に吹き込んでいる」の「直に」はカヴァフィスをがっしりとつかんでいるように思える。カヴァフィスは対象に「直に」息を吹き込み、対象のもっている「声」にしてしまう。カヴァフィスの「ことば」が対象の「声」になる。肉体が「直に」ふれあって、本能がうごめくように、がまんしきれず「声」になる。ことばは「意味」を越えて、本能を「直に」露呈する「声」になる。