詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス拾遺(中井久夫訳)(2)

2014-04-22 10:56:11 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(2)(作品は「現代ギリシャ詩選」から)

三幅対

一、たそがれ

彼は彼女の手を取った。無言だった。
彼は遠くに聞いた、海の豊かな脈動を--、
自分の内部に聞いたのかも。
海も松も丘もみんなきみの手だよ--、
そうとでも言わなければ、どうして彼女の手を握れよう?

ふたりは無言のまま。たそがれが深まる。木々の下には彫像が一つ。
それも左右の手が取れて--。

 「三幅対」「一、たそがれ」「二、女性」「三、どうしてぼくらがわるいのか?」の作品で構成されている。三幅の対、対になったものが三つという意味だろう。ひとつの作品が二連(対)で構成されている。「対」を一つずつ読んでいく。
 この作品はギリシャの古い彫像を見て思いついたのだろうか。ミロのビーナスには両手がないが、そういう彫像を見て、どうして手がないのだろうと想像したとき、この詩が生まれたのかもしれない。男と女が「対」であると同時に、男と女の関係と、両手の取れた彫像が「対」になっている。向き合っている。向き合って、互いを補っている。
 男(彼)が女(彼女)の手を取って、そのとき手のなかを流れる血潮の音を聞いた。それは女の手のなかの音なのか、それとも男自身の手のなかの音なのか、わからない。一つになっている。その音は男には「海の音」に聞こえる。松も、丘も、やはり手に触れれば「脈動」を感じる。それは松の脈動か、丘の脈動か、あるいは自分自身の脈動かわからない。
 あるいは、こう言うべきなのか。
 自分以外のものに触れて「脈動」を感じることができるのは、自分のなかに「脈動」がある人間だけである。自分の脈動が相手の「からだ(肉体)」のなかへはいり込み、誘い水のように、その肉体から脈動を引き出す。
 その二つは融合して区別がつかない。
 それは見方をかえれば、「手」がどこにあるかわからないということでもある。「手」がないということでもある。「手」は海や松や丘にあって、男の(女の)肉体には属してはいない。(だから二連目に手のない彫像が愛の象徴としてあらわれる。)四行目の「海も松も丘もみんなきみの手だよ--、」はそういうことを先取りして言ってしまっている。
 詩は論文ではないので、ことばが順序立てて動くわけではない。突然、答え(結論)があらわれて、そのあとで原因や理由を探すということが起きる。いや、その原因や理由も結論に遅れてやってくるというわけでもない。あらゆることが、ことばになった瞬間に、結論になったり、原因になったりする。そこには時間の「前後関係」がない。
 木々の下に両手のない彫像がある。それが「ある」瞬間と、男が女の手をとって「脈動」を聞く瞬間、手は海であり松であり丘であると感じる瞬間、手は海であり松であり丘なのだから手はないのだと感じる瞬間、それは「同時」に起きる。
 ことばは書いていくと(あるいは声に出して話すと)、そこにはどうしても「前後関係」が生まれてしまう。「前後」は「時間」と勘違いされるが、詩のことばには「あと・さき」という「前後」がない。それは、瞬間的に「同時」に起きている。
 結論と原因が「同時」に起きるというのは「矛盾」かもしれないが、そうだとしたら、その「矛盾」が詩なのである。「矛盾」しているから、「論理的」には説明できない。「論理」を捨てて、そこに起きている「わけのわからない驚き」を受け入れるしかない。詩を楽しむというのは、そういう「わけのわからなさ」を引き受けるということだ。
 「矛盾」というのは「矛」と「盾」が「対」になったものだが、「対」になることで互いを強調する。互いを存在させる。それは、つまり、互いを受け入れるということである。そういう「対」が詩なのである。


二、女性

あの夜。近寄れない夜。彼女は誰にも接吻しない。
誰も接吻してくれないかも知れない恐れの中で独り。

五本の星の指で彼女は一房の白髪を隠す。
美しい人。だが、いちばん美しい自らを拒んだ美しさ。

 彼女は接吻しないのか、接吻してもらえないのか。--これは判断が難しい。接吻する、接吻されるという具合にことばは「能動」「受動」の二つの形をとるけれど、これは文法の問題に過ぎない。実際の接吻は、する、されるという「気持ち」を別にすれば、二つの肉体が出会ってはじめて成り立つことなので、別々に考えてもしようがない。
 「一、たそがれまで」で、彼女の手に触れて脈動を感じるとき、それは彼女の手の脈動なのか、自分の手の脈動なのか、わからない。同じように接吻するとき、そこでふれあってる唇や絡み合っている舌は、誰のものと言っても意味がない。ふれあい、絡み合うことが接吻だからである。「する」「される」という意識とは別な「こと」が「接吻」という行為のなかにある。
 「白髪を隠す」という行為も、何か不思議なものがある。女は白髪を欠点と思って隠すのだが……その白髪こそが彼女のいちばんの美しさだった、とリッツォスの詩は言っているのか。そうではない、と私は思う。そんな単純な「論理」をリッツォスが書いているとは思えない。
 いちばん美しいのは、自分の欠点(白髪)を意識し、それを隠すときのこころの動きである。恥ずかしいと思う、女の気持ちである。もっと美しくなりたいと思う、女のその気持ちである。でも、その気持ちは実際に白髪を隠してしまえば誰にもわからない。白髪を隠すという「動詞」の現在のなかにだけしか存在しない。動詞が完結してしまえば、それは気持ちの美しさを見えなくしてしまう。美しさを拒絶してしまうことになる。
 「いちばん美しい自らを拒んだ美しさ」の「拒んだ」は「隠してしまう/遠ざけてしまう」くらいの意味である。
 --それはおかしい、その読み方は文法的に正しくない、という批判が聞こえてきそうである。その声は、実は私の内部からも聞こえてくる。何か、変な説明だぞ、と私のなかのだれかが抗議している。
 それでも、私は先に書いたようにことばを読みたい。
 どこかに「まちがい」があるのだけれど、「まちがう」ことでしかつかみえない何かに出会っていると思う。
 詩は「矛盾」であるから、それを味わうときは、どこかで「矛盾」を引き受けないといけない。「まちがい」がどうかは重要ではなく、こんなふうに読みたいという欲望に正直になることの方が大切なのだと思う。


三、どうしてぼくがわるいのか?

きみの舌の裏にはカレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある。ぼくはねそべって
休息する。いうこともなし--と彼は言った。

どういう意味なの、「もっと行って」って?
どうしてきみがいけないの、無邪気に葉っぱの間に隠れているのが?
美しい葉、単純な葉、きみの情熱の金色の恰好をした葉なのに?
どうしてぼくがいけないのか、先に立って夜を行くのが?
自分の自由に囚われた捕虜、罰せられた者が罰するのが?

 この詩の「対」は、男の高揚した気持ちと落ち込んでいる気持ちである。前半は高揚して、女(きみ)を描写している。「きみの舌の裏にはカレイの稚魚がいる。/ブドウの種がある。桃の繊維がある。」はなんと楽しいイメージの飛躍だろう。カレイの稚魚やブドウの種、桃の繊維になってきみの舌の裏にまではいり込みたい。そういうキスがしたいという欲望の喜びがあふれている。
 一方、後半には欲望が形になるときの喜びはない。欲望が達成できない、さえぎられる--その精神の苦痛、感情の苦悩がある。
 この二連目は耳で読むと非常に混乱する。「行って」「いけない(よくない/悪い/禁止)」が「行ける(可能)」「行けない(不可能)」に聞こえるし、「行って」は「言って」にも聞こえる。音が混じりあって、意味が溶けだしてしまう。文字で確認しないといけない。また文字で確認したところで意味がわかるわけではない。
 無邪気に無花果の葉っぱの影に隠れていることはいけないのか(わるいのか)、隠れていないで「行くべき」なのか。どうしてきみを夜に導き出すことがいけないのか(悪いのか)、恋して、恋に囚われて、恋に苦しんでいる(罰せられている)ぼくが、きみを誘い出して恋を遂げたいとすることが、どうしていけないのか?
 そんな意味かもしれないけれど、わかりにくい。
 一連目との関係(対)を考えるならば、恋をするとことばが比喩になって先走る。そこにないものを出現させる。ことばがもっともっと先へ行ってしまえば、比喩は炸裂して、ことばは吹っ飛び、そこに「生身」の肉体が、裸の肉体があらわれるだろう。そう夢みてことばに拍車をかけてみても、詩人は恋に裏切られる。精神(ことば)が恋に捕らわれてしまい、肉体はことばの影に隠れてしまう。恋は肉体を求めているのに、肉体はどんどん遠くなる。
 こころ(ことば)と肉体は対になって矛盾している--それが恋であると、この詩は言っているのか。



幼年時代--回復期

ちょっと眼を閉じて。
聞こえるね、台所で皿を洗うお母さん。
聞こえるね、ナイフとフォークを引き出しにしまう音。
聞こえるね、廊下を歩く母さんの衣ずれ、
そしてイコン立ての中に漂う聖母の微笑。

明日はもう治る。病人じゃなくなる。体温計を見よう。
腋から抜いたばかりで温かい。
天国のお父さんが幼い従妹にそっと言うだろう。
明日行っておやり、って。
従妹が来たらいっしょに散歩するんだ、鹿と肩を並べて--。

杏の実の新しいのを集めて従妹にやろう。
青い鹿が来るよね、
とうさん、ぼく、
眠れそう、
青い--
青い鹿なの、
とうさん、
天国
なの


 これもリッツォスには珍しい部類の詩である。病気で死んでいく幼いこども。それが死ぬ直前に感じる安らかな世界。
 一連目。「目を閉じて」いる少年。目を閉じているので何も見えない。しかし、音は「聞こえる」。不思議なのは、その「音」を聞いているのに、「わかる」のは音だけではない。その音といっしょに動いているお母さんが見える。目を閉じているのに、見える。
 肉体が見ている。肉体というふうに何か「いのち」のかたまりとして存在するものが見ている。この見ているは「おぼえていること」を思い出して、見えるというふうに感じるということ。
 音を聞く(聴覚)と、ものを見る「視覚」が、「いのちの肉体」のなかで融合して動いている。音を聞きながら、「見る」というところへことばが動いていくのは、リッツォスが視覚優先の詩人だからだろう。
 2連目の「腋から抜いたばかりで温かい。」という一行が切ない。「腋」という「肉体」を具体的に指し示すことばが、少年の肉体をはっきりと浮かび上がらせる。少年は肉体を病んでいるのだということを強く感じさせる。病気の少年の、汗ばんだ腋の色が見える感じがする。
 その少年が、安らぎの中で夢想する。鹿と従妹と散歩する。そのときの「青い鹿」。青い鹿はいない。いないけれど、やってくるのは「青い」鹿。そこに少年も気づく。そして、ここは生きている世界ではなく、死んでしまったあとの世界、天国だと気づく。その「気づき」のきっかけが「青い」という視覚に作用するものであるのもリッツォスが視覚の詩人であることを証明するだろう。
 詩の中で、ほんとうは一つであるのことば、表現が統一されていなければいけないことばが変化するところがある。「お母さん」が「母さん」、「お父さん」が「とうさん」にかわる。「お」が取れる。ことばが短くなる。ことばを短くしなければならないほどの「急なできごと」が起きている。その「急」の激しさを「お」を省略するということばの動きで表現する中井の訳はすばらしい。声の呼吸を聞きとっている。
 呼吸を正確に聞きとっているから、最後の連の行が少しずつ短くなっている。
 悲しい詩なのに、不思議な安らぎがあるのは、中井が少年の呼吸にあわせてことばをそろえているからだろう。少年を見守るあたたかい視線が、ここにある。



忘れられていた優しさ

お祖母さんはいいひとだった。静かだった。眼の周りには
沢山小皺が寄って、丹念に刺繍してあるお茶用のナプキンの皺みたいだった。
かろやかな心の持主だった。
心は軽くて、綿でいっぱいの小さな袋みたいだった。

お祖母さんは逝った。多分、巨大な夜の、暖炉の隅で
綿を糸につむぎに行ったのでしょう。
でもどうしてお祖母さんは外に出られたのかしら?
雨なのに羊毛の肩掛けも着ないで。

幼いねえやが玄関の間の椅子で泣く。
雨がエルコメノス教会の石段で泣く。
いちばん下の孫は泣かない。
あの小さなお祖母さんは今目に見えない糸をつむいでいる。
そのために雨が、石段が、椅子が、幼いねえやが、みんな泣いている、
美しく泣いているなあ、と眺めていた。

 お祖母さんが死んで雨が降っている。雨はお祖母さんのつぐむ糸(綿からつむぐ糸)のように静かに長く降っている。雨の糸。その雨の糸の涙になって、みんなの涙が流れる。雨に濡れるものはみんな泣いている。石段も、椅子も、幼いねえやも。
 最後の「美しく泣いているなあ、と眺めていた。」の「主語」は何だろうか。誰が眺めていたのか。詩人リッツォスだろうか、死んでしまったお祖母さんだろうか。
 私は、詩人でも、お祖母さんでもないと思う。雨、石段、椅子、幼いねえやの「みんな」が眺めているのだと思う。眺めているということに気づかずに「泣く」という行為の中で「ひとつ」になっている。そして、その「ひとつ」のなかには死んでしまったお祖母さんも含まれるし、お祖母さんのつむぐ糸もふくまれる。お祖母さんの皺や、お茶用のナプキンもふくまれる。区別ができない。
 すべてを(みんなを)区別せずに「ひとつ」にしてしまう何か、あるいは「こと」。それが「忘れられていた優しさ」という「こと」なのかもしれない。「忘れられていた」ければ「おぼえている」。おぼえていることのすべてが、思い出されて、思い出になってあらわれてきて、「みんな」が互いを眺めて(互いの存在を認め合って)、泣いている。
 中井は「主語」を日本語に訳出していない。訳出しないことによって、リッツォスが書こうとした「ひとつ」と「みんな」を感じ取れるようにしている。最後の一行をとても深く、強いものにしている。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(31)

2014-04-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(31)          

 「イタカ」はオデュッセウスの故郷。トロヤ戦争から帰るときの苦労を題材にしている。ただし、この詩の主人公はオデュッセウスではない。英雄ではなく、彼のまわりにいるふつうの兵士である。そしてそれはコーラスのように英雄(悲劇の主人公)の欲望を受け止め、育て、駆り立てるわけでもない。
 まったくの「平民」の声を発するだけである。

イタカに向けて船出するなら
祈れ、長い旅でありますように、
冒険がうんとありますように、
新しいことにたくさん出会いますように、と。

 この「冒険」や「新しいこと」ということばは、まるでこどもに読んで聞かせる絵本のことばのように「軽い」。欲望がない。ほんとうは何もなく、短い旅の方がいいのだ。でも、それはきっとむりだ。だから、逆のことを言っている。逆のことは、ほんとうになってほしくない。何かあっても、それは「絵本」のなかの世界のできごとだ、という具合に自分に言い聞かせている感じだ。この「軽く」「弱い」ことばの響き具合--それが平民的だ。庶民的だ。

何年も続くのがいい旅だ。
途中でもうけて金持ちになって
年をとってからイタカの島に錨をおろすさ。

 このことばの庶民性は、たとえば「プトマイオス家の栄光」の「おれはラギデス。王。富と力で/快楽の技を完全にマスター。」と比較すれば、その「弱さ」がわかる。句点までのことばが長い、ことばの量が多い。短く言い切ってしまう強さがない。ことばを明確にするためには多くのことばが必要なのだ。それだけひとつひとつのことばが弱い。
 これが庶民、平民の声だ。

きみは経験をうんと仕込んで
旅の終わりには賢者になるだろう。
その時にはイタカの意味がわかる。
おのおのにとってのイタカの意味がな。

 「イタカ」は土地の固有名詞というよりも「故郷」の総称である。「おのおのにとって」ということばがあるように、それは各自のもの、各自別の土地。「団結」はなく、ばらばら。それが庶民。それぞれが、どうしようもない「体験」、仕方なく体験してしまったことを背負って、故郷にもどる。自分だけにしか通じない「意味」を抱えて、もどる。それを受け入れてくれるのが庶民の「故郷」というものでもある。
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