詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「はるのしかこさん」

2014-04-18 11:37:23 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「はるのしかこさん」(自主製作短編映画シナリオ)(「白黒目」46、2014年04月発行)

 豊原清明「はるのしかこさん」は「自主製作短編映画シナリオ」と書かれているが、詩として読むとおもしろい。と、書くと豊原に申し訳ないが。

○ タイトル「はるのしかこさん」

○ 3・11

 「東日本大震災の黙祷として、同じ時刻の時計を映す僕。」
声「時代がぶっ壊された時刻と同じ時刻に三年後、再び見つめる。」

○ 震災時刻の時計。
  光りが黄色い。とても黄色い。自然の色であろう。とても、黄色い。
  つぶやく僕の声。荒れた僕の声。
  強い風の唸り声。

 映画ではなく詩と感じたのは「僕」が見つめる時計の描写のなかにことばが反復されるからである。影像や音(声)は持続するものだが、ことばは持続と同時に断絶する。断絶を接続に変えるのは、ふたつある。ひとつは運動の「主語」が一貫する。このとき変化を統一するものとして「肉体」が強調され、そこに持続が生まれる。もうひとつは、反復である。何かが反復されたとき、そこに持続が生まれる。
 光りが黄色い。その黄色いが反復されるとき、黄色が持続になる。状態になる。
 ここに、この持続に豊原は「自然の色であろう。」ということばを挿入している。「自然」ということばで、いったん「黄色」を切断し、そのあとでより強力な接続(連続)に換えている。
 私は、ここで、唸った。
 うーん。
 唸った、と書いて、また唸っている。
 「自然」が「黄色」のなかに飛びこんできて、一瞬黄色を見失う。でも、その「自然」というのは何だろう。私は何を見たのだろう。
 何も見なかった。ただ「広がり」を感じた。野原にほうりだされたような感じ。それをこえて、宇宙にほうりだされたような感じ。何もない。その何もない、ということがすぐに「黄色い」に変わる。「黄色」という定まった色ではなく、「黄色い」。
 私のことばで言いなおすと、「黄色くなる」の「なる」。「黄色である」ではなく「黄色になる」の「なる」が「黄色い」の「い」なのだ。形容詞の語尾、みたい。「黄色」が活用して、用言になっている。
 これが、「自然」なのだ。「自然」というのは「静止した状態」ではなく、動いている運動だ。その動きが「黄色い」のなかに、突然、まじりこんできた。
 3・11、東日本大震災は、まだ、動いている。過去のできごとではないということが、ふいに、わかったのである。東日本大震災の現場に引き戻されるような感じがしたのである。

 このあと、もう一回、不思議なことばが出てくる。

○ 公園の森
声「僕は此処に中学時代、よく来ていた。此処には天然の自然があった。
 今は分からない。」

 「天然の自然」。ここでも、私は、衝撃を受けて唸った。「天然の自然」とは「天の自然」ということだろうか。もしそうなら、さっき引用した「自然」はどういう「自然」なのか。
 区別はない。
 ほんとうは、最初も「天然の自然の色」と書いたつもりなのだろう。そう書かなかったから、あとになって「天然の自然」と補足している。
 「自然」は豊原にとって「天」のものである。
 豊原は「天」と向き合っている。宇宙と向き合っている。ある瞬間、豊原の感覚は完全に開放されて「天」そのものになる。そのとき豊原の目の前にあるものが「自然」なのだ。
 これは私のことばでは、説明しきれない。

 この「天」の感覚は、俳句のあちこちにある。豊原の俳句は、現実をたたきこわし、その破壊の一瞬に「天」を感じさせる。「天」の直撃が現実をまっぷたつにし、その断面に一瞬、何かを感じさせる。「天」が「もの」のなかにはいり込み、内部から炸裂する感じだ。

雪達磨万年布団の上に置く

 ことばはほかに動きようがない。
 何も説明できない。説明が不要であるということだ。「天」が、ここにある。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(27)

2014-04-18 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(27)          

 「テュアナの彫刻家」は4人のローマの軍人を彫っている。その4人とギリシャの関係はローマとヘレニズムを融和しようとしたのだが、それができなかった--と中井久夫は注で書いている。
 彫刻家はそういう歴史とは少し違うところにいる。彼は自分の仕事に自信をもっている。その仕事が大好きだ。その「大好き」な感じが口調のなかに出ている。

今打ちこんでいるのはポセイドン。
とりわけ海神の馬に凝っている。
ぴったりの形を捜している。
胴体も脚もかろやかじゃなきゃ。
地面を蹴るんじゃなくて
海上をギャロップで駈けるんだものな。

 彫刻家には彫る馬の形が見えている。それが楽しい。ないものが見えるということが楽しい。「じゃなきゃ」「だんもな」という親しい友達に語るような口調の中に、喜びがあふれている。
 芸術家とはいつでもそこにあらわすべき形を先に見てしまう人間のことかもしれない。その理想にあわせて自分を動かしていくことが楽しい人間なのだ。そして、その理想は逸脱していく。軍人をつくる、馬をつくる、ということを越えて、もっと別なものを見てしまう。つくりたくなる。それは自分自身ではなくなるということでもある。

けれどもお気に入りはこれだ。
いちばん気を入れ手を尽くして作った。
暑い夏の日、私の心が高まって
理想が開いて見えたのだ。
これだ。幻が訪れたのだよ、この青年のヘルメス像が--。

 頼まれてしはじめた仕事だが、仕事をしているうちに、彫刻家の技量が依頼された作品だけでは物足りなくなって、その技量が手に入れることができる最高のものを求めてしまう。
 「大好き」というのは、こういうことかもしれない。何かを好きになるとは、こんな具合に余分なことをしてしまうことを言うのだろう。
 この最後の連の「私の心が高まって」という表現は非常におもしろいと思う。こころが高揚しないことには「理想」は見えない。また「理想が開いて」というのも、非常に強いことばだ。「理想」はそこに存在するのではない。「理想」そのものが扉を開いて、その扉の向こうにあるものを見せる。「心が高まって」と自覚しているのが、また楽しい。言わずにいられないのだ。その喜びを。

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