陶山エリ「なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ」、吉本洋子「春は垣根のそばで」(現代詩講座@リードカフェ、2014年04月16日)
陶山エリ「なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ」も楽しい作品だった。
受講生の感想は「ことばの響きがいい。解放されている」「ぐるぐるまわっている感じ。無意味をめざそうとしている」「にょくまむにょくまむぎょしょーのなんぷらーしょっつる、というのはお経みたい」「呪文みたい」「早口ことばみたい。内容がつかめない」「パクチーきらいなのかなあ……」
議論が沸騰(?)したのは、「いぬ」。「いぬって何?」
何でもいいのだが、動物の「犬」、それから「行く、去る」という声が多かったのだが、「死ぬことをいぬ、って言わない?」。これはなかなか同意してもらえず、一人が辞書を引いて「死ぬ、という意味もある」と言ってくれたのだが……。
私はすけべなせいなのか、セックスののときの「行く」「死ぬ」は、この「いぬ」の「現代語」だと思っているので、「犬」と「行く」だけでは物足りない。
「なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ」という「な・ぬ」「る」というほの暗い音、「ま」「は」の明るいけれど「な行/は行/ま行」のいう五十音図では隣接した音の交錯、「き/い」の割り込んで来る輝きの美しさをセックスと切り離してしまうのは惜しい感じがする。
「ため息」ということば、「ほんのり」「たわむれ」「ふるえ」「からだ」「花びら」「細胞壁」「こわれる」……とセックスと通い合うことばは、あちこちに動いているのに、と私は思う。
講座での話題は、そういうところへは踏み込まず、いつものように、陶山独特の「文法」が話題になった。「夜は無心にからだを擦りつけた花びらの細胞壁も壊れたあとのことは知らないことを知っている庭は」という行で交錯する「知らない/知っている」という動詞。それを次の行で、また「知っている」と繰り返すのだけれど、知っているのか、知らないのか、どちらかわからないのに、わからないまま、ことばの世界に誘い込まれていく感じがおもしろい。
この動詞の動かし方は、きのう取り上げた田島安江「ビルジ」が、動詞を横につないで広げていく、あるいは積み重ねていく運動と比較すると、方向性がまったく違う。どちらかというと「積み上げ」タイプだけれど、積み上げ方がある動詞を下にして、その上に別の動詞を積み上げるという感じではない。ある動詞を、その動詞の底から天井へ向けて突き破り、その突き破った上に、同じ動詞を積み上げて立体感を出す。「知る」という動詞を「知らない」という形で活用させて上で、内部から破壊し「知っている」と言いなおす感じ。単純に「知っている」と書いたときよりも「動詞」の強さが違ってくる。ねじれ、撓んだ感じが、あいまいな何かを誘う。
とばは「意味」だけを求めて動くのではなく、動くとき、そのことばだけでは言い切れないものをひきずりながら動き、それが溜まると、ねじれて思わぬ方向へ暴走する。その瞬間が楽しい。
意味は特定しては詩にならないのだ。
は、
と「意味」を整理してしまうとつまらない。痒い-毟りたいの動きは肉体を刺戟するけれど、あまりにも意味になりすぎて、ことばに触れたときの、何かすり抜けていくような感じが消えてしまう。
こういう感じで読むと、ことばが最初の意味を突き破って、別なものがあふれてくる感じがつたわるかな?
「意味」を考えずに、遊ぶと、詩はおもしろい。
*
二連目の「小さなこども」は小鳥(鳥の雛)のことだろうけれど、一連目の「異人さんにつれられて行っちゃった」からの連想として、赤い靴を履いている小さな少女と読み替えてみるのはどうだろう。さらわれたこども恋しさのあまり、鳥の雛を我が子と思い込む。そうして自分は雛の親(親鳥)になってしまう。そういう錯乱のなかに、「まだ尾羽も生え揃わない」とか「川にでも落ちているのではなかろうか」とか「ちちんちちんと鳴きながら飛びながら」が具体的事実として挿入されるとき、現実世界よりも錯乱こそが「事実」となって浮かび上がって来ないだろうか。
吉本との意図とは違ってしまうだろうが、私は、そんなふうに読み、これはおもしろくなると期待した。
この詩は、実はもう一連あって、その三連目の評価をめぐって受講生の間でもいろいろな意見が出た。私はその連をあえて引用していない。
陶山エリ「なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ」も楽しい作品だった。
なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ 陶山エリ
なまはるまきぱくちーぬきほんのり首を傾げる地球儀とたわむれ
沈丁花は夜に震え
夜は無心にからだを擦りつけた花びらの細胞壁も壊れたあとのことは知らないことを知っている庭は
ため息は犬の鼻孔からため息は消え去りながら知っている
かゆいのかしりたいのかむしりたいのか夜いぬなまはるまきぱくちーぬき
世界はちきゅうぎの底はいまのところできているわるいわるい
ぱくちー透けるぱくちーわかりやすい夜いぬぬき
にょくまむにょくまむぎょしょーのなんぷらーしょっつるに泳がせるいぬはるまきはるまきいぬぱくちーぬき
春こじ開ける気道をふり返るかしげる夜はるぬき
受講生の感想は「ことばの響きがいい。解放されている」「ぐるぐるまわっている感じ。無意味をめざそうとしている」「にょくまむにょくまむぎょしょーのなんぷらーしょっつる、というのはお経みたい」「呪文みたい」「早口ことばみたい。内容がつかめない」「パクチーきらいなのかなあ……」
議論が沸騰(?)したのは、「いぬ」。「いぬって何?」
何でもいいのだが、動物の「犬」、それから「行く、去る」という声が多かったのだが、「死ぬことをいぬ、って言わない?」。これはなかなか同意してもらえず、一人が辞書を引いて「死ぬ、という意味もある」と言ってくれたのだが……。
私はすけべなせいなのか、セックスののときの「行く」「死ぬ」は、この「いぬ」の「現代語」だと思っているので、「犬」と「行く」だけでは物足りない。
「なまはるまきぱくちーぬき夜いぬ」という「な・ぬ」「る」というほの暗い音、「ま」「は」の明るいけれど「な行/は行/ま行」のいう五十音図では隣接した音の交錯、「き/い」の割り込んで来る輝きの美しさをセックスと切り離してしまうのは惜しい感じがする。
「ため息」ということば、「ほんのり」「たわむれ」「ふるえ」「からだ」「花びら」「細胞壁」「こわれる」……とセックスと通い合うことばは、あちこちに動いているのに、と私は思う。
講座での話題は、そういうところへは踏み込まず、いつものように、陶山独特の「文法」が話題になった。「夜は無心にからだを擦りつけた花びらの細胞壁も壊れたあとのことは知らないことを知っている庭は」という行で交錯する「知らない/知っている」という動詞。それを次の行で、また「知っている」と繰り返すのだけれど、知っているのか、知らないのか、どちらかわからないのに、わからないまま、ことばの世界に誘い込まれていく感じがおもしろい。
この動詞の動かし方は、きのう取り上げた田島安江「ビルジ」が、動詞を横につないで広げていく、あるいは積み重ねていく運動と比較すると、方向性がまったく違う。どちらかというと「積み上げ」タイプだけれど、積み上げ方がある動詞を下にして、その上に別の動詞を積み上げるという感じではない。ある動詞を、その動詞の底から天井へ向けて突き破り、その突き破った上に、同じ動詞を積み上げて立体感を出す。「知る」という動詞を「知らない」という形で活用させて上で、内部から破壊し「知っている」と言いなおす感じ。単純に「知っている」と書いたときよりも「動詞」の強さが違ってくる。ねじれ、撓んだ感じが、あいまいな何かを誘う。
とばは「意味」だけを求めて動くのではなく、動くとき、そのことばだけでは言い切れないものをひきずりながら動き、それが溜まると、ねじれて思わぬ方向へ暴走する。その瞬間が楽しい。
意味は特定しては詩にならないのだ。
かゆいのかしりたいのかむしりたいのか
は、
痒いのか知りたいのか毟りたいのか
と「意味」を整理してしまうとつまらない。痒い-毟りたいの動きは肉体を刺戟するけれど、あまりにも意味になりすぎて、ことばに触れたときの、何かすり抜けていくような感じが消えてしまう。
痒いのか齧りたいのか知りたい、痒いのか齧りたいのか被りたいのか、知りたいのか
こういう感じで読むと、ことばが最初の意味を突き破って、別なものがあふれてくる感じがつたわるかな?
「意味」を考えずに、遊ぶと、詩はおもしろい。
*
春は垣根のそばで 吉本洋子
隣家の徒長した梅の枝に蕾がついた
異人さんにつれられて行っちゃった隣人は
まだ帰ってこない
雨戸は開けられないまま枝が伸びる
もう帰ってこられないでしょう
訳知り顔をした鳥が
ほらほらと翼を振りながら
あちらの言葉をはやく話されるといいですけどなんて
ちゅりちゅり囀る
切られない枝に花が開き
匂いにさらわれそうだ
もしもしそちらの方ちいさなこどもをしりませんか
まだ尾羽も生え揃わない小指ほどのこどもです
国産みの御二人にもお見せした
長い尻羽の石叩きのすえ
大事に産み落としたこどもです
大きな剪定ばさみを持った
見知らぬ夫婦ものに巣ごとさらわれて
行方知れずになりました
川にでも落ちているのではなかろうかと
ちちんちちんと鳴きながら飛びながら
探し続けているのです
二連目の「小さなこども」は小鳥(鳥の雛)のことだろうけれど、一連目の「異人さんにつれられて行っちゃった」からの連想として、赤い靴を履いている小さな少女と読み替えてみるのはどうだろう。さらわれたこども恋しさのあまり、鳥の雛を我が子と思い込む。そうして自分は雛の親(親鳥)になってしまう。そういう錯乱のなかに、「まだ尾羽も生え揃わない」とか「川にでも落ちているのではなかろうか」とか「ちちんちちんと鳴きながら飛びながら」が具体的事実として挿入されるとき、現実世界よりも錯乱こそが「事実」となって浮かび上がって来ないだろうか。
吉本との意図とは違ってしまうだろうが、私は、そんなふうに読み、これはおもしろくなると期待した。
この詩は、実はもう一連あって、その三連目の評価をめぐって受講生の間でもいろいろな意見が出た。私はその連をあえて引用していない。
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