詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浅井眞人『仁王と月』

2014-04-16 13:55:49 | 詩集
浅井眞人『仁王と月』(ふらんす堂、2014年04月04日発行)

 浅井眞人『仁王と月』は、

月の満ち欠けは仁王の呼吸によっている
それは交互に繰り返して
この世で一度も途切れたことがない
阿吽の像は 月の満ち欠けをあらわす
阿形が満ちる月 吽形が欠ける月

 という魅力的な詩で始まる。月と仁王の肉体の呼応、それが阿吽の像によって分かちもたれる。繰り返される「こと」のなかに宇宙がある--そういうことを想像させてくれる。
 「参」は、

仁王が 山に入り老松を抜いたとき
髷が 月にあたった
月は急停止して暗くなった しばらく止まっていたが
仁王が息を吹きかけると 熾った炭のように明度をあげて また動きだした

 「髷が 月にあたった」は一種の遠近感の「誤読」、あるいは視覚の混乱(錯覚)というものだろうが、なかなかおもしろい。「誤読」のなかに「物語」が侵入していく感じがする。しかし、動いているのは仁王だけで月は「動きだした」と書いてあるにもかかわらず、私の印象では動く感じがしない。たぶん「仁王が息を吹きかけると」という動きに対する反応としでしかないからだろう。
 月は、何かからの反応を受けて動くだけというのは、この詩の基本のようでもある。それはそれでもいいのかもしれないが、なんとなくおもしろくない。どんなことにも「反作用」のようなものがあって、何かを変化させると自分も変化してしまうということがおきるからおもしろいのに、浅井の描く仁王は絶対権力のように他者から作用を受けないというのが何かおもしろくない。月が一方的に仁王の影響を受けつづけているだけというのは物足りない。
 読み進むとだんだん違和感が強くなる。月の満ち欠けが見えず、そのまわりで動く「物語」の方がことばで「満ち欠け」と言っているだけのような印象が残る。
 それに仁王のそばにいる阿吽が、阿吽といっしょに動かないのも、どうにも納得がゆかない。
 「呼吸」が聞こえてこない。
 で、「仁王と月」の感想は中止。

 私がおもしろいと思ったのは「石」の「弐」。この石も仁王と関係がないわけではないのだが、「弐」には仁王は直接登場しない。石だけが動く。

ひとつの逃げる石と
追いかけるいくつかの石のために
庭は塀で囲んである
どこからも石が入ってこないように

庭を 石はまわっている
石は 塀のなかをぐるぐるまわり
庭は 黙考している

大きな石を 四つ目垣が囲んでいる
垣を結うことで石は鎮まり
鎮めた石の智恵が 砂の中に輪となってあらわれる
輪は 垣をくぐり 塀にあたって きえてゆく

 「石庭」を描いている。そこでは何も動いていないように見えるが、ほんとうは動いている。その「ほんとう」を浅井は書いている。石、庭、塀、垣、輪がしり取りのように互いを追いかけ、追い抜き、あらわれては消えてゆく。その激しい運動、繰り返される運動が「呼吸」である。繰り返されて「呼吸」は深まり、それが宇宙になっていく。
 私は無教養な人間なので石庭をあまり見たことがない。また、石庭を見ながら自分を見つめたことがない。つまり考えたことがない。黙考した経験がない。
 それでも、この浅井のことばに触れると、石庭を見たことを思い出す。「肉体」のなかに石庭が浮かび上がってくる。
 あ、私が見たのは、こういうことだったのか、と「わかる」。私が「わかろうとしてわからなかったこと」が浅井のことばを追いかけて「わかる」にかわる。

輪は 垣をくぐり 塀にあたって きえてゆく

 この「きえてゆく」が特に印象的だ。消えることによって、姿(形)がより深く見える。意識に刻み込まれる。肉眼に見えている「輪(波?)」はまぼろしである。塀にあたって消える「輪」は、塀のむこうに広がりつづけている。塀があるために見えないだけで、それはほんとうは消えてはいない。「こころの目(心眼)」がそれを見ている。
 この「心眼」をこそ、私は「肉眼」と呼ぶのだが、詳しく説明するとめんどうなので端折って書くと……。
 塀にあたった消えていく輪(波)の前に、あいかわらず塀にあたる輪(波)が見える。その「輪(波)」を見る肉眼の力が、塀の向こうのに永遠に広がる「輪(波)」を見る。もし、手前の「輪(波)」が見えなけれど、塀の向こう(塀が隠している)「輪(波)」は見えない。小石の(砂の)輪を正確に見る力の延長線にしか「幻」は存在しない。

 ことばに置き換えると--正確に動くことばの向こうにしか、「事実」はあらわれない。ことばが正確に動くとき、その動きそのもののなかに「事実」があらわれる。それは「固定したもの」ではなく、「動きつづけること」。
 「呼吸」のように「無意識」に動く「ほんとう(本能)」である。

 仁王と月が、この「きえてゆく」にどう関係しているのかわからないが、ここで動いている「本能」は「ほんとう」である。
 そう思う。




仁王と月―浅井眞人詩集
浅井眞人
ふらんす堂
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(25)

2014-04-16 06:00:00 | カヴァフィスを読む

 「三月十五日」はカエサルが暗殺された日。アルテミドロスが危険を察知して進言したが、カエサルは無視した、という史実が踏まえられている。

わが魂よ、用心だ、栄耀栄華にゃな。
野心を押さえこめないなら
せめて慎重に ためつすがめつ進んでくれ。
上にゆくほど
よっく調べて気をつけにゃあ。

 この詩でも口語(俗語)が効果的だ。口語によって、この詩の主人公がどんな状況を生きてきたかがわかる。周囲にいる人間がわかる。格式張った人間だけではなく、もっと欲望がむきだしのままぶつかりあう場で生きてきたことがわかる。
 しかも、彼は単に俗語だけを生きているわけではなく「栄耀栄華」という熟語を知っている。そういう知識もある。
 ことばには、そのひとのすべてがあらわれるが、詩の主人公は振幅の大きい場で生きていることが、俗語と熟語(文語)によって浮き彫りになる。
 「にゃな」「にゃあ」の使い分けは中井久夫の工夫だが、この声の変化はとてもおもしろい。中井は、単に俗語を詩に取り込むだけではなく、それを「声」そのものとして再現している。「声」とは「肉体」そのものである。「にゃな」と自分自身に念を押したときの肉体のこわばった感じ、「にゃあ」と声をのばしたときの肉体の少し緊張のゆるんだ感じ--そのひとの姿まで見えるようだ。
 実際、中井は、「声」によって「肉体」の描写をし、カヴァフィする詩を補強しているのだと思う。

もしアルテミドロスのたぐいが
書簡をたずさえ群衆から歩みでて
早口で「今すぐお読みを、閣下、
閣下にかかわる重大事項で--」と言ったならば、
絶対やめろ、延期しろ、
演説も業務も。追い払え、みんな。

 後半、「にゃ」というような口語は消える。厳しい口調に変わっていくが、この口調の変化が、とてもおもしろい。
 前半の俗語の口調は主人公の過去(来歴)を感じさせるという意味でドラマだが、前半部分から後半への変化の激しさもまたドラマである。「絶対にやめろ、(略)みんな。」の倒置法も、ドラマの「急」を象徴する。
 ドラマは複数の人物で演じられるものだが、カヴァフィスはひとりの人間のなかで、「声」を変えることよってドラマを作り上げている。
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