河原修吾「のれん」ほか(「コオサテン」5、2014年04月06日発行)
河原修吾「のれん」は、どうということのない作品である。「現代詩」とは、いわないかもしれない。でも、そのどうということのないことばについて書いてみたい。
どうということのない作品--どころか、いろいろ不備(?)も目立つ詩であるとさえ言えるかもしれない。「無上の喜び」と簡単に言いきってしまうところなんか、それじゃあ詩にならないだろう。「無情の喜び」を「無上の喜び」ということばをつかわずに書くのが詩だろう、と叩いてやりたい気持ちにもなるのだけれど。
いやあ、でも、これがおもしろいんだなあ。
このうどん屋、「のれん」が語っているように高級店ではない。街角にある、ありきたりのうどん屋である。で、そういううどん屋というのは、言い方がわるいかもしれないが、おうおうにして少し汚い。
その汚い感じが1連目の「ぬるっとした」ということばにあふれている。テーブル(カウンター?)も何かぬるっとしている。べたべたしている。まあ、湯気がたちこめるから乾いた清潔さは望めないのかもしれないけれど。そのぬるっとした感じに、うどんの匂い、鰹節の香りが混ざる。この「匂い」と「香り」の絶妙なつかいわけがいいなあ。うどんの香り、鰹節の匂いではないのだ。匂いをぱっと変えるように香りが動く。うどん屋に入った瞬間の感じがするなあ。(3連目に「柚子の香り」というのも出てくるが。)
2連目の「貼りつき」というのも、ちょっと汚いうどん屋の感じにぴったり。「つるつるつるつる」というのはうどんをするる(のみこむ)ときの感触なのだが、その「つるつる」と店全体の「ぬるっ」が通い合うなあ。うどんだって、ほら「ぬるっ」としている。それが、喉をとおるとき、まるで店全体が喉になったような感じ。店のテーブルとか湯気とか匂いだけではなく、そこにいるひと全部が「ひとつの肉体」になってうどんを食べるという「こと」になる。--まじりあって、区別がなくなる。肉体がうどんを食べるのだけれど、なんだかうどんそのものになって肉体のなかへ入って行く感じもする。
これが「無上の喜び」。
無上としか、言いようがない。「空まで届く」喜びの一瞬。何も考えていない「常套句」(流通言語)なのだけれど、この何も考えていないということがいい。「無意味」がいい。うどんを食べる喜びに「意味」なんか、いらない。「意味」は別なときに考えればいい。うどんを食べて、うどんのようにあたたかくなれば、それでいい。
この喜びは、3連目の「満ち足りた体から/柚子の香りが/するりと抜けるように」、次の瞬間には消えてしまうものかもしれないけれど、それでいいじゃないか。
こういう詩が、あっちこっちにあふれるようになると楽しいなあ。
こういう詩の隣では永島卓「ひとりひとり」は、かなりつらいなあ。
「わたし」と「わたしたち」の関係が書かれている。「わたし」と括弧でくくっているのは「わたしたち」と対比させるためなのだが、「わたし」と「わたしたち」をつくりだしてしまう何事かの「意味」をつきつめていこうとすると、どうしても「部分」「末節」という抽象的な流通言語がことばのなかに侵入してきてしまう。河原の「無上の喜び」ではないけれど、こういう言語こそ、別のことばで書かないと詩にならない。河原のように、「何も考えない」ということを逆手にとって動くことばなら、それもいいけれど……。
「未部分」が「新しい」のかもしれない。でも、それを「新しい」というには、ことばを内部で動かしている何かがよくわからない。
河原修吾「のれん」は、どうということのない作品である。「現代詩」とは、いわないかもしれない。でも、そのどうということのないことばについて書いてみたい。
外から
かき分けて
足を踏み入れると
ぬるっとした内の
湿気が肌にまとわりつき
うどんの匂いと
鰹節の香りに
入り交る声が
天井や鴨居や
艶柱に貼りつき
つるつるつるつると
細く太く
絞まる喉を通るや
長いものが永く
重なって合わさる
無上の喜びが
空まで届くひととき
満ち足りた体から
柚子の香りが
するりと抜けるように
かき分けられたのれんは
ゆらゆらゆらゆら
揺れてそよぐ
どうということのない作品--どころか、いろいろ不備(?)も目立つ詩であるとさえ言えるかもしれない。「無上の喜び」と簡単に言いきってしまうところなんか、それじゃあ詩にならないだろう。「無情の喜び」を「無上の喜び」ということばをつかわずに書くのが詩だろう、と叩いてやりたい気持ちにもなるのだけれど。
いやあ、でも、これがおもしろいんだなあ。
このうどん屋、「のれん」が語っているように高級店ではない。街角にある、ありきたりのうどん屋である。で、そういううどん屋というのは、言い方がわるいかもしれないが、おうおうにして少し汚い。
その汚い感じが1連目の「ぬるっとした」ということばにあふれている。テーブル(カウンター?)も何かぬるっとしている。べたべたしている。まあ、湯気がたちこめるから乾いた清潔さは望めないのかもしれないけれど。そのぬるっとした感じに、うどんの匂い、鰹節の香りが混ざる。この「匂い」と「香り」の絶妙なつかいわけがいいなあ。うどんの香り、鰹節の匂いではないのだ。匂いをぱっと変えるように香りが動く。うどん屋に入った瞬間の感じがするなあ。(3連目に「柚子の香り」というのも出てくるが。)
2連目の「貼りつき」というのも、ちょっと汚いうどん屋の感じにぴったり。「つるつるつるつる」というのはうどんをするる(のみこむ)ときの感触なのだが、その「つるつる」と店全体の「ぬるっ」が通い合うなあ。うどんだって、ほら「ぬるっ」としている。それが、喉をとおるとき、まるで店全体が喉になったような感じ。店のテーブルとか湯気とか匂いだけではなく、そこにいるひと全部が「ひとつの肉体」になってうどんを食べるという「こと」になる。--まじりあって、区別がなくなる。肉体がうどんを食べるのだけれど、なんだかうどんそのものになって肉体のなかへ入って行く感じもする。
これが「無上の喜び」。
無上としか、言いようがない。「空まで届く」喜びの一瞬。何も考えていない「常套句」(流通言語)なのだけれど、この何も考えていないということがいい。「無意味」がいい。うどんを食べる喜びに「意味」なんか、いらない。「意味」は別なときに考えればいい。うどんを食べて、うどんのようにあたたかくなれば、それでいい。
この喜びは、3連目の「満ち足りた体から/柚子の香りが/するりと抜けるように」、次の瞬間には消えてしまうものかもしれないけれど、それでいいじゃないか。
こういう詩が、あっちこっちにあふれるようになると楽しいなあ。
こういう詩の隣では永島卓「ひとりひとり」は、かなりつらいなあ。
どうしてもここでの細長い地であった
長い間「わたし」と言ってしまい
ついに倒れていたのだ
わたしは部分だ
末節だ
「わたし」と「わたしたち」の関係が書かれている。「わたし」と括弧でくくっているのは「わたしたち」と対比させるためなのだが、「わたし」と「わたしたち」をつくりだしてしまう何事かの「意味」をつきつめていこうとすると、どうしても「部分」「末節」という抽象的な流通言語がことばのなかに侵入してきてしまう。河原の「無上の喜び」ではないけれど、こういう言語こそ、別のことばで書かないと詩にならない。河原のように、「何も考えない」ということを逆手にとって動くことばなら、それもいいけれど……。
またひとりになって
「わたしたち」と叫んでみたはずなのに
きみやわたしは倒れたまま
部分だ未部分だ嘘だ嘘だと叫びつつ
引きもどされて……
「未部分」が「新しい」のかもしれない。でも、それを「新しい」というには、ことばを内部で動かしている何かがよくわからない。
ふとんととうふ―詩集 | |
河原修吾 | |
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