詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河原修吾「のれん」、永島卓「ひとりひとり」

2014-04-10 12:16:36 | 詩(雑誌・同人誌)
河原修吾「のれん」ほか(「コオサテン」5、2014年04月06日発行)

 河原修吾「のれん」は、どうということのない作品である。「現代詩」とは、いわないかもしれない。でも、そのどうということのないことばについて書いてみたい。

外から
かき分けて
足を踏み入れると
ぬるっとした内の
湿気が肌にまとわりつき
うどんの匂いと
鰹節の香りに

入り交る声が
天井や鴨居や
艶柱に貼りつき
つるつるつるつると
細く太く
絞まる喉を通るや
長いものが永く
重なって合わさる
無上の喜びが
空まで届くひととき

満ち足りた体から
柚子の香りが
するりと抜けるように
かき分けられたのれんは
ゆらゆらゆらゆら
揺れてそよぐ

 どうということのない作品--どころか、いろいろ不備(?)も目立つ詩であるとさえ言えるかもしれない。「無上の喜び」と簡単に言いきってしまうところなんか、それじゃあ詩にならないだろう。「無情の喜び」を「無上の喜び」ということばをつかわずに書くのが詩だろう、と叩いてやりたい気持ちにもなるのだけれど。
 いやあ、でも、これがおもしろいんだなあ。
 このうどん屋、「のれん」が語っているように高級店ではない。街角にある、ありきたりのうどん屋である。で、そういううどん屋というのは、言い方がわるいかもしれないが、おうおうにして少し汚い。
 その汚い感じが1連目の「ぬるっとした」ということばにあふれている。テーブル(カウンター?)も何かぬるっとしている。べたべたしている。まあ、湯気がたちこめるから乾いた清潔さは望めないのかもしれないけれど。そのぬるっとした感じに、うどんの匂い、鰹節の香りが混ざる。この「匂い」と「香り」の絶妙なつかいわけがいいなあ。うどんの香り、鰹節の匂いではないのだ。匂いをぱっと変えるように香りが動く。うどん屋に入った瞬間の感じがするなあ。(3連目に「柚子の香り」というのも出てくるが。)
 2連目の「貼りつき」というのも、ちょっと汚いうどん屋の感じにぴったり。「つるつるつるつる」というのはうどんをするる(のみこむ)ときの感触なのだが、その「つるつる」と店全体の「ぬるっ」が通い合うなあ。うどんだって、ほら「ぬるっ」としている。それが、喉をとおるとき、まるで店全体が喉になったような感じ。店のテーブルとか湯気とか匂いだけではなく、そこにいるひと全部が「ひとつの肉体」になってうどんを食べるという「こと」になる。--まじりあって、区別がなくなる。肉体がうどんを食べるのだけれど、なんだかうどんそのものになって肉体のなかへ入って行く感じもする。
 これが「無上の喜び」。
 無上としか、言いようがない。「空まで届く」喜びの一瞬。何も考えていない「常套句」(流通言語)なのだけれど、この何も考えていないということがいい。「無意味」がいい。うどんを食べる喜びに「意味」なんか、いらない。「意味」は別なときに考えればいい。うどんを食べて、うどんのようにあたたかくなれば、それでいい。
 この喜びは、3連目の「満ち足りた体から/柚子の香りが/するりと抜けるように」、次の瞬間には消えてしまうものかもしれないけれど、それでいいじゃないか。
 こういう詩が、あっちこっちにあふれるようになると楽しいなあ。

 こういう詩の隣では永島卓「ひとりひとり」は、かなりつらいなあ。

どうしてもここでの細長い地であった
長い間「わたし」と言ってしまい
ついに倒れていたのだ
わたしは部分だ
末節だ

 「わたし」と「わたしたち」の関係が書かれている。「わたし」と括弧でくくっているのは「わたしたち」と対比させるためなのだが、「わたし」と「わたしたち」をつくりだしてしまう何事かの「意味」をつきつめていこうとすると、どうしても「部分」「末節」という抽象的な流通言語がことばのなかに侵入してきてしまう。河原の「無上の喜び」ではないけれど、こういう言語こそ、別のことばで書かないと詩にならない。河原のように、「何も考えない」ということを逆手にとって動くことばなら、それもいいけれど……。

またひとりになって
「わたしたち」と叫んでみたはずなのに
きみやわたしは倒れたまま
部分だ未部分だ嘘だ嘘だと叫びつつ
引きもどされて……

 「未部分」が「新しい」のかもしれない。でも、それを「新しい」というには、ことばを内部で動かしている何かがよくわからない。

ふとんととうふ―詩集
河原修吾
土曜美術社出版販売
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スティーブン・フリアーズ監督「あなたを抱きしめる日まで」(★★★★★)

2014-04-10 10:46:38 | 映画
監督 スティーブン・フリアーズ 出演 ジュディ・デンチ、スティーブ・クーガン

 息子の消息を探す母親。息子はアメリカに養子として引き取られた。母親はアイルランドからアメリカまで息子を探しに行く。で、アメリカに着いたとたんに、息子はすでに死んでいるとわかる。
 あ、これではストーリーの展開のしようがない。
 と、思ったらそうでもない。まるで森鴎外の「渋江抽斎」である。「渋江抽斎」は、鴎外の評伝のなかでは、あっと言う間に死んでしまう。このあと、どう書くのか。何を書くのか。
 ほんとうのおもしろさは、ここから。
 ひとの人生は死んだらおしまいではない。死ぬまでは、視線はそのひとに集中してしまうが、死んでしまうと彼のまわりの人間に目が広がる。そして、他人のなかにいる彼が、なんといえばいいのか、非常に豊かである。ひととひととの関係において、ひとはいろいろな表情をみせる。ちがった姿をみせる。それは、そのひとだけに視線が向いているときには見落としてしまう何かである。どうしても、自分とそのひとという関係でしかみることができないからね。
 で、同時に、それはその息子を探していた母親についてもいえる。
 息子を探しているときは、息子を探す母でしかないのだが、息子が死んでしまうと、探すということが微妙にかわってくる。息子を探すというよりも、「時代」を探す、「社会」を探す--からさらに進んで、「生きる」を探すという具合に。
 ジュディ・デンチはいっしょに養子に引き取られた少女(妹)を尋ねて息子の様子を聞く。息子の恋人(ゲイ)を尋ねて息子の様子を聞く。そこで、息子がしっかり自分の幸せをつかんでいたことを知る。笑顔と誇らしげな顔、愛されている悦びの顔。さらにはアイルランドのことを忘れず、つまり母親のことを忘れずに、母親を探していたことを知る。アイルランドの修道院まで尋ねてきていたことを知る。母親が息子を愛しているように、息子はずーっと母親を愛していたということを知る。遺体(遺骨)はアイルランドに埋葬されているということも知る。
 生きているあいだは、遠かった「愛情」が、死んでからなまなましく動きはじめる。息子は死んでいないのに、こころは今を生きて動いている。で、その生きているこころのために、ジュディ・デンチは修道院の嘘を突きつめに行く。何が親子の愛情を引き裂き、その対面を邪魔したのかを問いつめる。このとき、ジュディ・デンチはひとりではない。息子といっしょに生きている。息子といっしょに行動している。
 いやあ、すごいですねえ。ジュディ・デンチの最高の演技。引き込まれていく。
 クライマックス。息子は養子に引き取られ(無理やり養子として里親のもとに引き取られ)、親子のあいだが引き裂かれた--というのではなく、なんと、養子引き取りがビジネスとして存在していた。修道院が未婚の母とこどもを世話するするとみせかけて、養子斡旋で金を稼いでいた、こどもを売っていたということがわかる。そして、それを母親には秘密にしていた。息子にも、母親の情報を与えず、秘密にしていた。そういうことがわかったあとで。
 ジュディ・デンチは、修道院の責任者(?)に対し、「私はあなたを赦す」と言う。「なぜ怒らないんだ」と問いただすジャーナリストに「許しには苦しみがともなう。(私は苦しみを背負っている。その苦しみによって相手を赦す)」と言う。これはまるで十字架を背負うキリストみたいだが--そこには苦しみと同時に不思議な安らぎのようなものがある。赦すということをとおして、ジュディ・デンチは「自由」になっている。息子との関係を引き裂かれた悲しみから解放されている。解放されていると言ってしまうと、ちょっと違うのかもしれないけれど……。
 彼女は、いま、息子といっしょにいる。死んでしまったけれど、息子はいままでよりもさらに鮮明にジュディ・デンチのなかに生きている。その「生」そのものを共有できたから、共有することで愛し合ったから、ジュディ・デンチは修道院のしたことを赦すのである。ジュディ・デンチはいっしょに息子の消息を追ってくれたジャーナリストに「書かないで」と一度は言うのだが、最後には「やっぱり書いて」と言う。ことばのなかで、もういちど母と息子の愛は生きる。生きるだけではなく、永遠に生き続ける。そう気がつくからである。その愛が生きるとき、修道院の犯した罪は死ぬ--と書くと、うーん、なんだか宗教の教科書みたいでいやだが。

 しかし、これは、すばらしい作品だなあ。地味だけれど2014年のベストワンと言ってしまいたいなあ。
 ジュディ・デンチの愛の赦しが声高でないように、すべての影像が実に静かだ。その静かさのなかに、すべてが隠れている。息子がアイルランドを忘れていないということをギネスのマークから探っていくところなんか、とてもいいなあ。ジャーナリストは一度その息子に会っているが、よくおぼえていなというのもいいなあ。何よりも、ジュディ・デンチをただ崇高なひとという感じで映画にするのではなく、あまり教養もないふつうのおばさん(おばあさん)として描いているのもいい。好きな小説は、恋愛大衆小説。読んだストーリーを的確に要約できる。それを楽しく語っているのもいい。さらに、そのおばさんの大衆恋愛小説好みをジャーナリストが「そんな本なんか」とばかにしているのもいい。ジュディ・デンチのことを立派な女性というふうに見ていないことが、逆にジュディ・デンチの演じた女性の美しさを引き立てている。ジュディ・デンチとは対照的なスティーブ・クーガンの演技もいい。
 何も新しいことはない。新しい影像、肉眼では見ることのできない不思議な影像はない。感覚を切り開くような音楽もない。そういう「新奇な何か」がまったくない、ということろがとてもすばらしい。新しい影像も音楽もないのだけれど、ここに描かれた愛の形はけっして古びない。そういう強さがすばらしい。この愛には力がある。
 この映画は、力を与えてくれる。力を実感させてくれるのである。

                        (中州大洋4、2014年04月09日)



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(19)

2014-04-10 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(19)          

 「ディオニュソスの取り巻き」はダモンという石工を描いている。大理石を彫る。ディオニュソスを取り巻きを彫っている。群像には「泥酔」「酩酊」「歌」「甘さ」「楽しさ」などの名前がついている。仕事が終われば……。

三タラントン。巨額の報酬
溜まった分にこの足し前。
ゆうゆう暮らせる。マル金だ。

 「マル金」について中井久夫は「一九八〇代前記の本邦俗語。「成り金」ほど非難がましくなく、「リッチ」と同じ軽みがあるが都会らしさに劣るか」と注釈で書いている。この訳語の選択がおもしろい。
 ギリシャの古代に日本の俗語。その組み合わせ。
 中井久夫は、詩を「こと」として翻訳しているが、そこで起きている物理的な「こと」を描くだけではなく、そこに登場する人間のこころの「こと」、こころで起きている「こと」がはっきり見えるようにことばを選んでいる。
 「足し前」ということばと「マル金」ということばが、とてもよく響きあう。不足を補う金--それは、ある意味では半分あきらめていたものかもしれない。それが入ってくる。少しだが、にわかに、手持ちの金が増える。こういうときの悦びは、どうしたって俗語(口語)でなくてはならない。それも流行っている俗語でないとだめ。流行っていることばというのは、「感覚」が共有されていることばということ。共有されていることばをとおして、悦びが広がっていく。
 この金の出所が「美(芸術)」と関係しているのもおもしろい。美的なものと俗の組み合わせ、そこから陶酔が生まれてくるというのはカヴァフィスのことばの運動の特徴だが、それを中井久夫は卑俗な流行語でしっかりとつなぎとめている。

政治に手をだそう。
考えるだけで胸が鳴る。

 金と政治。それは古代のギリシャからの固い結びつきらしい。だれもが知っている「こと」なのだ。卑俗な関係である。そういうものに酔って「考えるだけで胸が鳴る」というこの常套句が、不思議にいきいきしている。
 詩人が自分の個性で磨き上げたことばではなく、そこに流通していることばを、常套句と感じさせずに、口語の奥にある「欲望」そのものをつかみ取る形で動かす。このことばの運動がおもしろい。
 またここには、間接的な政治批判がある。卑近な欲望をさらけだすことで、政治が卑近な欲望を満足させるために動いているに過ぎないという批判が。これは正面切った批判よりも生き生きとしている。カヴァフィスの姿勢があらわれている。

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