監督 呉美保 出演 綾野剛、池脇千鶴、菅田将暉
呉美保監督初めての恋愛映画だそうである。池脇千鶴ががんばって迫力のあるセックスシーンを演じているという話である。
ふーん。
私は呉美保は「酒井家のしあわせ」にとても感心した。新しい才能だと思った。「オカンの嫁入り」は、うーん、役者に遠慮しているなあ、役者に演技させていないじゃないかとちょっと不満に思った。
2本とも「家族映画」である。「オカンの嫁入り」は「オカン」の恋愛映画とも言えるかもしれないけれど……。
で、
「そこのみにて光輝く」なのだけれど、なーんだ、やっぱり「家族映画」じゃないか。恋愛よりも「家族(家庭)」がテーマの映画じゃないか。恋愛というのはたしかに新しい「家庭」をつくるという意味では「家族」映画でもあるのだけれど、こういう言い方って、なんだかうさんくさいよね。
やっぱり、家族を壊してでも一人の人間を選ぶというのが恋愛。「ロミオとジュリエット」でって、家族を放り出して相手に夢中になっている。
まあ、小説が、そういうストーリーの展開ということかもしれないけれど、私はぜんぜんおもしろくなかった。池脇千鶴の弟が傷害容疑(だったかな?)で服役していたことがある--というような伏線は、もう伏線とは言えず、結末の先取り。弟の経歴が明かされた段階で、私はもう半分以上見る気力を削がれてしまっていたのだが、池脇千鶴の迫真のセックスシーンというのが見たくて、がんばって椅子に座っていた。
私は、問題のセックスシーンよりも、二人が泳いでいてキスをし、それからからみあうシーンの方がいいと思った。キスシーンはカメラは水の上。もつれ合った体は水の下で何をしてるんだ? 気になるでしょ? カメラはちゃんと水中も映す。立ち泳ぎしているから、足がばたばたしてるだけなんだけれどね。それから、そのカメラが水面へ上がっていくとき、水面の裏側(?)と、その向こうの二人の肉体の形、シルエット、空の色が見える。いやあ、水のなかへ潜ってセックスシーンを覗き見した気分。うれしいなあ。
それに比べると、そのあとの男の部屋でのセックスシーンは、何一つ思い出せるものがない。セックスはだいたいやることが同じ。愛が燃え上がる感じがないと、美しくもなんともない。海の最初のキスで、もう愛は終わっている。愛言うのははじまりが終わり。あとは持続。
途中、男が池脇千鶴にプロポーズするシーンがあって、このときの池脇千鶴のうれしそうな顔がとてもいいのだけれど。
それやこれやは端折って、ラストシーン。海辺。池脇千鶴が家から逃げ出すように海辺へ来た。男が追いつく。二人は見つめ合う。池脇千鶴の顔のアップ。
そこで終わってしまうと「酒井家のしあわせ」と同じになってしまうと考えたのかどうかわからないが、そのあとふたりはさらに近づき抱き合う。(抱き合ったと思う。忘れてしまった。)
あ、これがおもしろくない。興ざめ。
せっかく池脇千鶴が顔で演技しているのに、それがなくなってしまうことになる。抱き合うなら顔なんかアップにせずに、がむしゃらに抱いておしまいにすればすっきりするのに。
分かりやすくしようとして映画が汚くなっている。
最悪なのが、池脇千鶴が介護疲れの果てに父親を絞殺しようとするシーン。長すぎる。首に手をかけているシーンそのものが必要かどうかもわからないが、スクリーンに映すのは1秒でも長すぎる。首を絞めているシーンではなく、首を絞めている池脇千鶴を男がつきはばすシーンこそ、激しさがつたわるようにしないと。その瞬間の暴力(?)が激しければ激しいほど、それが男の愛の強さを証明することになる。突き飛ばされて、衝撃で我にかえり、そのとき男の顔が見え、池脇千鶴の顔つきがかわる--そのアップで終わるというくらいの激しさがないと、映画がだらだらしてしまう。
呉美保の映画は3本しか見ていないが、彼女の場合、自分で脚本を書いた撮った方が作品のすみずみに「肉体」の感覚が出ると思う。(「酒井家のしあわせ」は監督が脚本を書いていたと思う。--記憶まちがいかもしれないが……)他人のことばだと、肉体が余分に動く。正確につたえないといけないという思いがあるのかもしれない。
(2014年04月23日、KBCシネマ2)
呉美保監督初めての恋愛映画だそうである。池脇千鶴ががんばって迫力のあるセックスシーンを演じているという話である。
ふーん。
私は呉美保は「酒井家のしあわせ」にとても感心した。新しい才能だと思った。「オカンの嫁入り」は、うーん、役者に遠慮しているなあ、役者に演技させていないじゃないかとちょっと不満に思った。
2本とも「家族映画」である。「オカンの嫁入り」は「オカン」の恋愛映画とも言えるかもしれないけれど……。
で、
「そこのみにて光輝く」なのだけれど、なーんだ、やっぱり「家族映画」じゃないか。恋愛よりも「家族(家庭)」がテーマの映画じゃないか。恋愛というのはたしかに新しい「家庭」をつくるという意味では「家族」映画でもあるのだけれど、こういう言い方って、なんだかうさんくさいよね。
やっぱり、家族を壊してでも一人の人間を選ぶというのが恋愛。「ロミオとジュリエット」でって、家族を放り出して相手に夢中になっている。
まあ、小説が、そういうストーリーの展開ということかもしれないけれど、私はぜんぜんおもしろくなかった。池脇千鶴の弟が傷害容疑(だったかな?)で服役していたことがある--というような伏線は、もう伏線とは言えず、結末の先取り。弟の経歴が明かされた段階で、私はもう半分以上見る気力を削がれてしまっていたのだが、池脇千鶴の迫真のセックスシーンというのが見たくて、がんばって椅子に座っていた。
私は、問題のセックスシーンよりも、二人が泳いでいてキスをし、それからからみあうシーンの方がいいと思った。キスシーンはカメラは水の上。もつれ合った体は水の下で何をしてるんだ? 気になるでしょ? カメラはちゃんと水中も映す。立ち泳ぎしているから、足がばたばたしてるだけなんだけれどね。それから、そのカメラが水面へ上がっていくとき、水面の裏側(?)と、その向こうの二人の肉体の形、シルエット、空の色が見える。いやあ、水のなかへ潜ってセックスシーンを覗き見した気分。うれしいなあ。
それに比べると、そのあとの男の部屋でのセックスシーンは、何一つ思い出せるものがない。セックスはだいたいやることが同じ。愛が燃え上がる感じがないと、美しくもなんともない。海の最初のキスで、もう愛は終わっている。愛言うのははじまりが終わり。あとは持続。
途中、男が池脇千鶴にプロポーズするシーンがあって、このときの池脇千鶴のうれしそうな顔がとてもいいのだけれど。
それやこれやは端折って、ラストシーン。海辺。池脇千鶴が家から逃げ出すように海辺へ来た。男が追いつく。二人は見つめ合う。池脇千鶴の顔のアップ。
そこで終わってしまうと「酒井家のしあわせ」と同じになってしまうと考えたのかどうかわからないが、そのあとふたりはさらに近づき抱き合う。(抱き合ったと思う。忘れてしまった。)
あ、これがおもしろくない。興ざめ。
せっかく池脇千鶴が顔で演技しているのに、それがなくなってしまうことになる。抱き合うなら顔なんかアップにせずに、がむしゃらに抱いておしまいにすればすっきりするのに。
分かりやすくしようとして映画が汚くなっている。
最悪なのが、池脇千鶴が介護疲れの果てに父親を絞殺しようとするシーン。長すぎる。首に手をかけているシーンそのものが必要かどうかもわからないが、スクリーンに映すのは1秒でも長すぎる。首を絞めているシーンではなく、首を絞めている池脇千鶴を男がつきはばすシーンこそ、激しさがつたわるようにしないと。その瞬間の暴力(?)が激しければ激しいほど、それが男の愛の強さを証明することになる。突き飛ばされて、衝撃で我にかえり、そのとき男の顔が見え、池脇千鶴の顔つきがかわる--そのアップで終わるというくらいの激しさがないと、映画がだらだらしてしまう。
呉美保の映画は3本しか見ていないが、彼女の場合、自分で脚本を書いた撮った方が作品のすみずみに「肉体」の感覚が出ると思う。(「酒井家のしあわせ」は監督が脚本を書いていたと思う。--記憶まちがいかもしれないが……)他人のことばだと、肉体が余分に動く。正確につたえないといけないという思いがあるのかもしれない。
(2014年04月23日、KBCシネマ2)
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