詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

呉美保監督「そこのみにて光輝く」(★★★)

2014-04-27 22:10:35 | 映画
監督 呉美保 出演 綾野剛、池脇千鶴、菅田将暉


 呉美保監督初めての恋愛映画だそうである。池脇千鶴ががんばって迫力のあるセックスシーンを演じているという話である。
 ふーん。
 私は呉美保は「酒井家のしあわせ」にとても感心した。新しい才能だと思った。「オカンの嫁入り」は、うーん、役者に遠慮しているなあ、役者に演技させていないじゃないかとちょっと不満に思った。
 2本とも「家族映画」である。「オカンの嫁入り」は「オカン」の恋愛映画とも言えるかもしれないけれど……。
 で、
 「そこのみにて光輝く」なのだけれど、なーんだ、やっぱり「家族映画」じゃないか。恋愛よりも「家族(家庭)」がテーマの映画じゃないか。恋愛というのはたしかに新しい「家庭」をつくるという意味では「家族」映画でもあるのだけれど、こういう言い方って、なんだかうさんくさいよね。
 やっぱり、家族を壊してでも一人の人間を選ぶというのが恋愛。「ロミオとジュリエット」でって、家族を放り出して相手に夢中になっている。
 まあ、小説が、そういうストーリーの展開ということかもしれないけれど、私はぜんぜんおもしろくなかった。池脇千鶴の弟が傷害容疑(だったかな?)で服役していたことがある--というような伏線は、もう伏線とは言えず、結末の先取り。弟の経歴が明かされた段階で、私はもう半分以上見る気力を削がれてしまっていたのだが、池脇千鶴の迫真のセックスシーンというのが見たくて、がんばって椅子に座っていた。
 私は、問題のセックスシーンよりも、二人が泳いでいてキスをし、それからからみあうシーンの方がいいと思った。キスシーンはカメラは水の上。もつれ合った体は水の下で何をしてるんだ? 気になるでしょ? カメラはちゃんと水中も映す。立ち泳ぎしているから、足がばたばたしてるだけなんだけれどね。それから、そのカメラが水面へ上がっていくとき、水面の裏側(?)と、その向こうの二人の肉体の形、シルエット、空の色が見える。いやあ、水のなかへ潜ってセックスシーンを覗き見した気分。うれしいなあ。
 それに比べると、そのあとの男の部屋でのセックスシーンは、何一つ思い出せるものがない。セックスはだいたいやることが同じ。愛が燃え上がる感じがないと、美しくもなんともない。海の最初のキスで、もう愛は終わっている。愛言うのははじまりが終わり。あとは持続。
 途中、男が池脇千鶴にプロポーズするシーンがあって、このときの池脇千鶴のうれしそうな顔がとてもいいのだけれど。
 それやこれやは端折って、ラストシーン。海辺。池脇千鶴が家から逃げ出すように海辺へ来た。男が追いつく。二人は見つめ合う。池脇千鶴の顔のアップ。
 そこで終わってしまうと「酒井家のしあわせ」と同じになってしまうと考えたのかどうかわからないが、そのあとふたりはさらに近づき抱き合う。(抱き合ったと思う。忘れてしまった。)
 あ、これがおもしろくない。興ざめ。
 せっかく池脇千鶴が顔で演技しているのに、それがなくなってしまうことになる。抱き合うなら顔なんかアップにせずに、がむしゃらに抱いておしまいにすればすっきりするのに。
 分かりやすくしようとして映画が汚くなっている。
 最悪なのが、池脇千鶴が介護疲れの果てに父親を絞殺しようとするシーン。長すぎる。首に手をかけているシーンそのものが必要かどうかもわからないが、スクリーンに映すのは1秒でも長すぎる。首を絞めているシーンではなく、首を絞めている池脇千鶴を男がつきはばすシーンこそ、激しさがつたわるようにしないと。その瞬間の暴力(?)が激しければ激しいほど、それが男の愛の強さを証明することになる。突き飛ばされて、衝撃で我にかえり、そのとき男の顔が見え、池脇千鶴の顔つきがかわる--そのアップで終わるというくらいの激しさがないと、映画がだらだらしてしまう。

 呉美保の映画は3本しか見ていないが、彼女の場合、自分で脚本を書いた撮った方が作品のすみずみに「肉体」の感覚が出ると思う。(「酒井家のしあわせ」は監督が脚本を書いていたと思う。--記憶まちがいかもしれないが……)他人のことばだと、肉体が余分に動く。正確につたえないといけないという思いがあるのかもしれない。
                     (2014年04月23日、KBCシネマ2)



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クリエーター情報なし
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荻野央「なみだ」

2014-04-27 11:42:00 | 詩(雑誌・同人誌)
荻野央「なみだ」(「木偶」93、2014年04月30日発行)

 荻野央「なみだ」について、どう書こうか迷っている。

別れにあふれるもの
願いがかなって めぐり会え 滲みでてしまったもの
なみだ

 書き出しのこの3行は平凡だ。悲しい涙とうれしい涙。でも、そのあとが少し変わっている。

わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった日から
眼の皮膚は ずっと乾いたままだが
なみだはいつも わたしのなかにある

 「アカの他人」という言い方が、私には何かこわいものがある。近づきがたいものがある。「アカの他人」というよりも、そのあとの「たいして変わらないと知ってしまった」かな? いや、「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」が怖いんだなあ。
 他人と変わっていないといけないの? 同じだったら問題があるの?
 荻野は、何か自分は特別な人間であると考えているのかもしれない。そういう視点が、たぶん私には、こわい。近づきたくないなあ、という感じ。
 自分が特別な存在であるとわかったら、また涙を流すだろう。それまでは、涙は「わたしのなかにある」。
 そのちょっとこわい荻野が2連目で、こんなふうにことばを動かす。

いま わたしの眼の砂漠に 地平線が存在しないのは
向こうからやって来た人びとのために描いた砂の絵が
彼らに踏みにじられて 悲しくなったから
乾いた眼から砂が噴き出て
しょっぱくて温かい その液体のことを
しまいこんだままでいる

 「砂漠」は1連目の「乾いたままだ」ということばを源にして動いている。そこまでは自然なことばの展開だが、そのあと「文法」が激しく乱れる。「……のは」ということばは次に「理由(原因)」を述べるときにつかわれる。2連目にその「原因(理由)」を探してみると、「悲しくなったから」という部分に「から」が出てくる。「……したから」という原因/理由をあらわすことばがでてくる。
 しかし、この「悲しくなったから」は次の「乾いた眼から砂が吹き出て」の原因/理由にも読むことができる。
 どっちなの?
 どうも、よくわからない。そして、よくわからないのは、もしかすると「地平線が存在しないのは」の「のは」に原因があるのではないかな、という気がする。「……のは」と、いま起きていることに対して「原因/理由」を求める気持ちが強くて、そのために荻野のことばが捻じれているのではないのかなあ、と思ってしまう。
(1)わたしの眼の砂漠に 地平線が存在しない
(2)人びと向こうからやって来た
(3)その人びとのために(わたしは)砂の絵を描いた
(4)その人びとは砂の絵を踏みにじった
(5)絵を踏みにじられて悲しくなった
 ひとつの文にひとつの用言(動詞/形容詞)を組み合わせる形に書き直してみると、荻野の書いているのは、そんな具合になる。
 で、ひとつの用言の文章と別の文章を接続させるとき。
 荻野はそのときに、「……のは」という原因/理由を誘い出す「論理的」なことばを利用する。「論理」で全体を統合する意思がそこには働いている。これは、ある意味では「論理」の強要、押しつけかもしれない。
 あらゆることに原因と結果があるわけではない。ものごとの「接続」には原因/理由があるとは限らない。風が吹けば桶屋がもうかるわけではないし、桶屋がもうかるには風が吹かなければならないわけではない。原因/理由というのは、ひとの勝手で、どうにでも都合がつくものなのだ。
 でも、そのどうにでも都合がつく部分に荻野はこだわっているということだろう。
 何と言えばいいのか……論理への意識の粘着力が強い。

向こうからやって来た人びとのために描いた砂の絵

 の「ために」も、非常に粘着力が強い。なぜ、向こうからやって来た人びと「のために」絵を描かないといけない? その「ために」はどこからやって来た? つまり、描くことを依頼された? あるい自分から描こうと思った? もし自分から描こうと思ったのなら、それは「わたし(荻野)」の勝手であり、やって来たひとには無関係。
 無関係であるものに対しても、荻野は粘着力を発揮する。強引に接続する。接続して、その瞬間に自分の意図したものとは違った反応が返ってくると、自分が傷つけられたと感じる。
 何か、そういう「感じ方」をしている人間に見えてくる。
 これは1連目の「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」というのに、何か、非常に緊密な形でつながっている。深いところでつながっているように思える。
 アカの他人に「わたし(荻野)」を接続させなければ、変わっているか変わっていないかを判断する必要はない。アカの他人と接続した「ために」、荻野は「知ってしまった」のである。そういうことが起きたのである。そして、その起きたことに対して、アカの他人は何の関係もない。

 もし、アカの他人が、わたしはあなたの「ために」これこれのことをしました。それなのにあなたはわたしの好意を踏みにじりました、と言ったとしたら、こわいでしょ?

 で、それじゃあ、ほんとうに荻野はそんなふうにこわい人なのかというと、まあ、わからないのだけれど。
 私の推測で言うと。
 1連目の「アカの他人」はアカの他人ではないのだ。ほんとうは知っているひと、熟知しているひとである。そのひととは親密な関係にある。ところが何かが原因で「アカの他人」になってしまった。「アカの他人」になってしまったら、特別なものは何もない。「わたし」にとってそのひとは「ほかの他人」とは変わらない。「わたし」が「アカの他人」と変わらないのではなく、それまで大切だったひとが「アカの他人」と変わらず、そのために「わたし」もそのひとから見れば「アカの他人」と変わらない存在になってしまったということなのだ。
 別ないい方で言うと、特別なひとといっしょにいるとき「わたし」は特別なひとだった。特別なひとと別れてしまえば、「わたし」は特別なひとではなくなった。
 「わたしがアカの他人とたいして変わらないことを知ってしまった」というのは、その意味内容だけをなぞると「客観的」に見える。意地悪な言い方をすれば、あなたはそんなに特別なひとだと思っていたんですか? 人間なんて、みんな同じようなものですよ、知らないんですか?ということになるが、荻野はそういう「客観」を書いているのではない。あくまでも「主観」を書いている。それも「わたしは特別なひとと別れてしまって、もう特別なひとであると言えなくなってしまった」と、別れたひとにだけ向けて、悲しみを語っている。
 そして、そういうことを語るときに「……のは」「……のために」「……から」という粘着力のある「論理」を偽装してしまうことばをつかうために、何かが捻じれていくんだなあ。「悲しい」が「悲しい」ということろに結晶せずに、捻じれていく。
 捻じれつづけていけばそれはそれでとてもおもしろいのだが。
 捩れを放り出してしまう。
 3連目。

別れに浮かべるもの
めぐり会えて 嬉しくてほとばしるもの
ふたつの眼から なみだのように落ちる 過去はふたつ

 あ、抽象的だねえ。
 書いている荻野は抽象的と思わないだろうけれど(具体的な事実を思い浮かべられるだろうけれど)、「過去」ということばでわかる「過去」なんてない。「過去」ということばからは「いま」ではないということ以外はわからない。
 こんな抽象的なことばで、他人(読者)が「わたし(荻野)」と「特別なひと」との間の「特別」がどういうものか、わかるはずがない。
 「過去」ということばをつかわずに、ふたりの関係のなかへことばでわけいっていかないことには、どうしようもない。
 荻野の粘着力のある文体はおもしろいものを含んでいるのに、おもしろくなりきれていない。粘着するというのは他人と私を分離できなくなって、何かしようとすると突然化学変化のようなものが起きてしまうものだが、そこまでいくにはもっともっと丁寧に、ガムテープのねばねばが手からとれなくなるくらいに粘着しないといけないのに、「過去」とか「別れ」とか、なみだが枯れた(乾いた)と書かれても……。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(36)   

2014-04-27 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(36)          

 「帰ってくれ」は、私には少し奇妙な日本語のように感じられる。「もう、きみは帰ってくれ」というようにだれかを追い返すときに「帰ってくれ」と私はつかう。けれど、この詩のなかでは違うつかい方をしている。

しばしば帰って、私を捉えてくれ、
帰って来て私を捉えてほしい感覚よ。
身体の記憶が蘇る時、
昔の憧れが再び血管を貫き流れる時、
唇と肌が思い出し、
手に また触れあうかの感覚が走る時、

 二行目に「帰って来て」と言いなおされているが、タイトルの「帰ってくれ」、一行目も「しばしば帰って」は、ともに「帰って来てくれ」という意味である。「来て」(来る)が省略されている。
 カヴァフィスが書いている「感覚」は、帰って「来る」ものではないのかもしれない。「蘇る」ということばがあるが、「帰ってくれ」は「蘇ってくれ」なのだ。それは、どこか遠くへ行ってしまったものではなく、自分のなかにあるものなのだ。
 おそらく男色の官能、愉悦のことだろう。
 去っていった恋人に帰って来てくれと望んでいるのではない。恋人に帰って来てくれと言っているのかもしれないけれど、それは恋人を愛しているからではない。自分の官能を愛しているからだ。自分をつきやぶって動く官能、それこそ自分から出て行ってしまう愉悦(エクスタシー)を愛しているからだ。欲しているからだ。
 恋人が帰ってくれば、そして愛し合えばその官能は再び燃え上がるのだろうけれど、それは恋人が与えてくれるものであるよりも、カヴァフィスの肉体のなかから蘇るものなのである。自分の肉体のなかに、もともと存在する。だから帰って「来て」くれとは言わない。「蘇れ」と言いなおすしかない。
 この詩の六行目に、中井久夫はおもしろい注釈をつけている。「『また触れあうのか』はその後に『ごとき』を補うとわかりやすい。」わかりやすいのなら、なぜ「手に また触れあうかのごとき感覚が走る時、」と訳出しなかったのだろう。帰って「来て」くれの「来て(来る)」と同様、そのことばがあると何かまだるっこしい感じになるからだ。「直接性」のようなものが消える。「比喩」になってしまう。外から認識できる「客観」になってしまう。
 カヴァフィスがここで書きたいのは、肉体の直接性、自分の肉体の内部にあってうごめくものの「手触り」だ。「来て」や「ごとき」を補うと「わかりやすく」はなるけれど、それは「わかった」ことにはならない。直接性を「わかった」ことにはならない。だから、あえて、わかりにくく書いているのだ。「直接」にむかって読者の意識が動くように。カヴァフィスが読者に「わかってほしい」のは「直接性」なのである。
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