詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新保啓「秋の日の道」

2014-04-05 10:59:25 | 詩(雑誌・同人誌)
新保啓「秋の日の道」(「詩的現代(第二次)」8、2014年03月発行)

 同じひとの詩の感想をつづけて書いても……と思い、きのう田中勲の詩の感想を書いたのだが、どうも気持ちよくなれない。批判というのは、書いているとなぜこんなことを書かなければいけないのかという気持ちがわいてきて、いやになる。で、03日にまで、もう一度戻ろう。
 新保啓「秋の日の道」は、小学生の「日記」みたいな感じでことばが動いていく。朝起きて、ご飯を食べて、歯を磨いて、学校へ行きました……という類の。

病院へお見舞に行ってきた
一人は食事をせずに点滴のみ
もう一人は外泊で不在だった
すこし肩の荷が降りたような気がして
サツマ芋掘りに向かった
今は稲刈りのまっ盛りである
陣中見舞のビールを届け
若い娘が一人手伝っているのを
見届けて帰ってきた
とう菜もそろそろ植えなければならない
人さし指で穴をあけ
根を入れて土を押さえる
冬は雪の下になり
折れたり凍ったりしたあと
やがてとうが伸びてくる

 どこまでもどこまでも、ただ引用したい感じになる。ここのところをちょっと書きたいのだけれど、もう少し先の部分の方がおもしろく書けそうかな……という感じでなかなか区切りがつかない。
 で、この区切りつかない感じ。
 これが小学生の日記(仕方なく書かされている日記)のリズムに似ている。こどもではなく、おとななのだから区切りがないといっても、なんとなく小学生以上のものがはいってくる。自然に「気持ち」を書いてしまう。
 「もう一人は外泊で不在だった/すこし肩の荷が降りたような気がして」の「すこし肩の荷が降りたような気がして」というのは子供には書けないね。少し、ふっと、思った気持ち--これが書けない。言えない。お腹がすいた、ごはん、ごはんと言うことはできても、少しすいているというようなことは自分からはなかなか言えない。おとなになるというのは、こういう微妙なことを自分のことばで言えるようになることだ。というようなことはどうでもいいのだが。「少し……気がして」が静かでいいなあ。そうか、病気は外泊できるくらいには回復したのだな、と自分に言い聞かせる感じ。
 明確な区切りはないのだけれど、自分で区切りをつけている。ただ、なんとなく、の区切りだけれど。そして、その区切りというのは、あくまで気持ち。
 だから。
 「今は稲刈りのまっ盛りである」というのも、単なる「事実」ではなく「気持ち」なのだ。「まっ盛りである」と自分に言い聞かせている。言い聞かせながら、自分は何をしなければならないかというところへ肉体を動かしていく。
 「若い娘が一人手伝っているのを/見届けて帰ってきた」も気持ち。「見届ける」必要なんかない。「若い娘」に気づく必要なんかもない。誰が手伝っていてもいいのに「若い娘」を「見届け」てしまうのが、気持ち。「少し」気持ちになっている。真剣じゃないよ。若い娘を好きになったというような真剣さはなくて、若い娘だったなあという、うらやしいような何か。
 「とう菜もそろそろ植えなければならない」も気持ち。自分を動かしている。
 で、そのあとが傑作だなあ。

人さし指で穴をあけ
根を入れて土を押さえる

 具体的に肉体の動きを描写している。誰のために? その仕事は新保にはわかりきったことだから、これは詩を読んでいるひとのために「わざと」書かれたことばなのだ。ただし、「わざと」と言っても、きのう読んだ田中の「わざと」とはまったく違う。ここに書かれているのは新保の「肉体」そのもの。いつもは「無意識」でやっていることを、ふとことばにしてみただけなのだ。思い出しているのだ。いつでも思い出せる、肉体にしみついている運動、--これは思想なのだ。思想というようなものは、ふつうはひとは語らない。だまって実行する。それを「気持ち」を書いてきたので、ついつい書いてしまう。ついついなのだけれど「わざと」。
 そのあとの、

冬は雪の下になり
折れたり凍ったりしたあと
やがてとうが伸びてくる

 これもいいなあ。この「わざと」も自然で、とてもあたたかい。新保の「肉体」が知っていることがことばになっている。とう菜がどんなふうにして育ってくるかというようなことは、とう菜の勝手(?)なのだが、その動きを新保は自分の肉体の動きのように「わかっている」。知っているではなく「わかっている」。
 「わかっている」ことのいちばんの不思議さは、そういうことばに出会うと、単に野菜のことが「わかる」のではなく、それを育てている人、新保そのものが「わかる」という感じになること。いや、野菜を通り越して、新保の肉体が見えるように感じること。「わかる」というのは、話された「内容」ではなく、話している人がどういう人なのか「わかる」ということなのだ。
 その人がどういう人か、というのは「思想」と同義である。私は、ここで新保の思想、新保という思想にであっている。
 知っていることは知識にすぎないが、わかっていることは思想なのである。

 新保は朝起きて、顔を洗って……というようなこどもの「日記」のスタイルを借りながら、こどもには書けない思想、繰り返し繰り返し、肉体を動かして肉体でおぼえて、わかったことを、きちんとことばにしている。
 この「きちんと」が「わざと」と私が呼んだもの。
 なぜ「きちんと」が「わざと」かというと、ふつうは、そういうことは「きちんと」言わない。言う必要がない。言わなくても肉体がおぼえているから、肉体は無意識にそれをしてしまう。だから「きちんと」書かなくてもいい。新保が書かなくても、とう菜は「やがて」伸びてくる。でも、それを「書ける」というのが新保の思想の具体的な形なのである。
 詩はこのあとも、だらだらだらっとつづいていく。一日がつづいていくようにつづいていく。そして、そのだらだらのあいだに、やはり「気持ち」が切断しながら接続していく。区切りがないまま、いや、区切りをのみこみながらつづいていく。「肉体」に区切りがないから、区切りをのみこんでしまう。
丸ちゃん
新保啓
詩学社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(14)

2014-04-05 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(14)          2014年04月05日(土曜日)

 「野蛮人を待つ」には古代ローマ人の、一種の矛盾が書かれている。腐敗する政治。野蛮人に侵入されるのはいやだが、野蛮人なら腐敗した政治家を一掃してくれるのではないか。そういう思いがある。こういう矛盾が、詩に対話形式をとらせている。

「なぜ両執政官、行政監察官らが
 今日 刺繍した緋色の長衣で来たのか?
 なぜ紫水晶をちりばめた腕輪なんぞを着け、輝く緑玉の指輪をはめ、
 見事な金銀細工の杖を握っているのか?」

   「今日 野蛮人が来るからだ。
    連中はそういう品に目がくらむんだ」

 長い質問、状態のこまかい描写と、短い回答の対比が、全体を緊迫させる。「そんなこともわからないのか」という回答者のいらいらを浮かび上がらせる。そして、その回答者の口調のなかに「口語」がまじり込むことが中井久夫の訳の、声の的確さをあらわしている。「連中」と呼び捨てにし、「目がくらむんだ」と軽蔑した調子が、多くの市民によって共有されている(常識になっている)という感じを与える。

   「今日 野蛮人が来るからだ。
    奴等は雄弁、演説 お嫌いなんだ」

 この「お嫌いなんだ」という言い方も一種の侮蔑がある。「お嫌い」と丁寧な表現を装いながら、主語は「奴等」と切り捨てている。「連中」よりももっと距離感のあることばである。
 中井久夫は「意味」ではなく、声の調子、肉声がもっている感情、感情のあらわれることばを詩のなかで動かす。そうすることで、そこに人間のドラマを再現する。野蛮人がやってくるのを待つ、という「こと」だけではなく、その「こと」といっしょに動いているこころをも再現する。

「さあ野蛮人抜きでわしらはどうなる?
 連中はせっかく解決策だったのに」  

 落胆は「わしら」という口語で語られる。このつかいわけも中井の訳語のおもしろいところだ。



カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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