リッツォス拾遺(中井久夫訳)(1)(作品は「現代ギリシャ詩選」からの)
「彼」は誰なのか。リッツォスはいつものようにどんな情報も提供しない。季節は秋の終わりなのか、あるいは春のはじまりなのか、それもわからない。「木の葉が一枚」というのは秋の終わりを感じさせる。「彼」も人生の晩年にいるのだろうか。
「木の葉が一枚。その微かなそよぎ。もうそこからおれは入れる。」は俳句を思わせる。「おれ」は、どこに「入れる」のか。つづく行を読むと「廊下」になるが、私は「世界」というもののなかに「入る」ことを想像した。
一枚の葉っぱと自分が一体になる。一枚の葉っぱの「そよぎ」となって、世界を見つめる。どんな存在も、それぞれに個として世界に向き合っている。その向き合い方に同化したとき、「彼」は新しい世界に入る。
その世界は「ものが寄り集まって溶け合って」っている。溶け合いながら、瞬間瞬間に、必要な「もの」になる。次々に生まれ変わる。「これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。きちんと見分けがつく。」というのは、その生まれ変わる姿のように感じられる。
*
ここにはリッツォスの「詩の理想」が描かれている。単純な「事物」として、出会いたい。「仕事を果たす」の「木の葉」、あるいは「そよぎ」は、「単純な事物」のひとつである。
人のものの見方(世界の見方)は様々である。だからことばも複雑になるのだけれど、その複雑なものにこだわると、なかなかひとは出会えない。違いばかりが目立ってしまう。違いが気になって、共通のものが見えなくなる。
「私を見つけなくとも、ものを見つけてくれるでしょう。」は美しいことばだ。リッツォスを見つけられなくても、リッツォスが見たものを見つける。その「事物」をとおして、一瞬、リッツォスと読者が重なる。
どんなことば(どの一語)からでも、私たちはリッツォスに出会える。どのことばを通ってリッツォスに出会うか、それは読者に任されている。出会いは、リッツォスだけの仕事ではない。読者の仕事でもある。読者が自分のことばを「真実」のものとして動かすとき、リッツォスのことばの「真実」に出会える。
リッツォスはそういうことを夢みている。
*
「二本の柱」とは涙だろう。両目からこぼれる涙の二本の線。最終行は、少し不思議である。二本の柱が涙だとして、その涙に違いはあるのか。涙が流れるとき、右のひとみから流れる涙と左のひとみから流れる涙は種類が違うのか。
「どちらの水」というは、右目左目の違いではないのだろう。
一行目にもどってみよう。「明るく澄んだ顔」。これは泣き終わったあとのさっぱりした顔ともとれるが、うれしい顔かもしれない。ひとはうれしいときにも涙を流す。そして孤独でさびしいときも(悲しいときも)、もちろん涙を流す。
きみは、どちらに感動するだろうか。うれし涙だろうか。悲しい涙だろうか。
答えをだす必要はない。どちらの涙にも寄り添うのが愛であるのだから。
*
リッツォスにはめずらしく明るく孤独のにおいがしない詩。真夏の明るい陽射しのなかでののびやかな恋が輝いている。
「海と空が韻を踏んで部屋の中に吊るされている。」と書かれているが、部屋の中という感じがしない。壁がとりはらわれている。世界中が安心できる部屋になっているということだろうか。
「正午を告げる時計だ。」も、完全ということの象徴かもしれない。
中井久夫の訳のすばらしさは、この「正午を告げる時計だ。」の「だ」にあらわれている。直前の「腕時計」には「だ」がなく、「時計」には「だ」がある。「だ」があってもなくても「意味」は同じだが、受ける印象が違う。ことばの「強さ」がちがってくる。「だ」がある方が強い。そして、このとき「だ」は「である」ではだめだ。間延びする。
短い「だ」という音の中に、喜びが炸裂する。短いからこそ、そこに集まってくる喜びがぶつかりあい炸裂する。
*
「現代ギリシャ詩選」に収録されているリッツォスの作品は愛の詩が多い。この詩では男と女がうまくかみあわない。けれど、うまくかみあっているよりも深く愛を感じているのがわかる。愛しあっているのに、うまく関係が結べない。その切ない愛。
男(彼)は深夜のバラ色の雲を女(きみ)に見せたい。それはもちろん存在しない。けれど眼で見て、それが「見える」と言ってもらいたい。これは「こころの眼で見て」ということである。
「きみが見なければ、私が見なかったのと同じだもの。」同じものを見ることによって、「ひとつ」に「なる」。そういうことを男は感じている。「こころの眼」が同じひとつのものを見るとき、こころは「一つ」に「なる」。男と女のこころは別なものだが、それが「見る」ことを通して「一つ」に「なる」。二つのこころが「一つ」になるとき、「孤独から救われる」。孤独ではなくなる。これが男の願いだ。
一方、女は「あなたは眼で見ないで」と訴える。これも「こころの眼」で「見ないで」ということ。女は男がこころを優先させていると感じている。「こころの眼」とは、「ことば」のことかもしれない。「ことば」で何かを見ないで、ことばで、そこにないものをあるかのように語らないで。そこにないものを、ことばで出現させないで。そういうことをすれば、ことばに邪魔されて出会えなくなる。ことばをつかわず、「こころの眼」をつかわず、「肉眼」で世界を見つめて。そうすれば私たちは出会える。
これは表現を変えて言えば、「ありのままの私(女)」を見てという訴えだ。ことばをつかわずに、つまりことばで美化せずに、いま/ここにいる私をそのまま受け入れて、あなたの感性にあう女にしようとしないで、と訴えている。
これは詩人には、かなり厳しい要求かもしれない。ことばなしで、どうやって世界と向き合えるのか、詩人は知らない。
*
女の思い出。昔、若い将校に紅茶を出した。レモンの薄切りをそえて。それは馬車の車輪のように見えた。それは最後の別れになった。最後の別れになること、戦争で死んでしまうことがわかっていたから、若い将校は女を見つめようとはしなかった。
それは一瞬のことだけれど。
その一瞬が、女は忘れられない。思い出している。あのレモンがいけなかったのだろうか。レモンを馬車の車輪と思い、その馬車に乗って将校がやってきたと、おとぎ話の出会いのように思ったのがいけなかったのか。馬車は人を連れてくると同時に、人を連れ去る。ひとは馬車に乗って去って行ってしまう。帰られない人になってしまう。
いまはもう何もない。レモンの思い出だけが残っている。
そう思って読むと、最初の二行は現実で、三行目からは記憶になる。一行目の「寂しい」は、いまの孤独をあらわしていることになる。過去を思いながら、寂しくひとりで紅茶を飲む。
記憶のなか(こころのなか)では、時制の区別がない。遠い過去も一秒前を思い出すのと同じように、隔たりがないままにやってくる。一秒前よりももっと接近してあらわれてしまう過去というものもある。そういう時間の入り乱れ、入り乱れる時間のなまなましさが「一瞬、時計が止まる。」からはじまる。実際、思い出のなかで時間は止まる。思い出のなかでは、いつでも「いま」なのだ。
それにしてもレモンの薄切りの車輪は美しい。目にとてもあざやかだ。その繊細な目がとらえるマッチの明かり、マッチが照らすオトガイ、それらから「紅茶茶碗の把手」。この「把手」をつかみ取る視線がリアルだ。リッツォスは視覚の鋭い詩人だ。
仕事を果たす
今は色に乏しい。でもいい。そう言う彼。
野のほんの僅かな緑。おれにはこれで充分だ。
歳とともに何もかもが小さくなる。
ものが寄り集まって溶け合って行くんじゃないか。
木の葉が一枚。その微かなそよぎ。もうそこからおれは入れる。
おれは廊下に入る。向こうの端に向かって歩く。
窓と彫像が両側に並ぶ間を。
窓は白。彫像は赤。
これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。きちんと見分けがつく。
「彼」は誰なのか。リッツォスはいつものようにどんな情報も提供しない。季節は秋の終わりなのか、あるいは春のはじまりなのか、それもわからない。「木の葉が一枚」というのは秋の終わりを感じさせる。「彼」も人生の晩年にいるのだろうか。
「木の葉が一枚。その微かなそよぎ。もうそこからおれは入れる。」は俳句を思わせる。「おれ」は、どこに「入れる」のか。つづく行を読むと「廊下」になるが、私は「世界」というもののなかに「入る」ことを想像した。
一枚の葉っぱと自分が一体になる。一枚の葉っぱの「そよぎ」となって、世界を見つめる。どんな存在も、それぞれに個として世界に向き合っている。その向き合い方に同化したとき、「彼」は新しい世界に入る。
その世界は「ものが寄り集まって溶け合って」っている。溶け合いながら、瞬間瞬間に、必要な「もの」になる。次々に生まれ変わる。「これはフクロウ。これはヘビ。これはシカ。きちんと見分けがつく。」というのは、その生まれ変わる姿のように感じられる。
*
単純性の意味
私が単純な事物の背後に隠れるのは、きみが私をみつけるようにです。
私を見つけなくとも、ものを見つけてくれるでしょう。
私の手が触れたものに触れて下さるでしょう。
私たちの指紋が重なって一つになるでしょう。
八月の月が錫のポットのように台所できらめいています。
(きみに語るためにこういう言い方になるのです)
月が人の住まない家に灯をともします。家にはじっと膝まずいている静けさが。
静けさとは、いつも膝まずいているものです。
一語一語が入り口、
出会いへの入り口です。でも出会いはよく邪魔されます。
ことばが信実な時です。ことばが信実な時とは出会いを求める時ですが--。
ここにはリッツォスの「詩の理想」が描かれている。単純な「事物」として、出会いたい。「仕事を果たす」の「木の葉」、あるいは「そよぎ」は、「単純な事物」のひとつである。
人のものの見方(世界の見方)は様々である。だからことばも複雑になるのだけれど、その複雑なものにこだわると、なかなかひとは出会えない。違いばかりが目立ってしまう。違いが気になって、共通のものが見えなくなる。
「私を見つけなくとも、ものを見つけてくれるでしょう。」は美しいことばだ。リッツォスを見つけられなくても、リッツォスが見たものを見つける。その「事物」をとおして、一瞬、リッツォスと読者が重なる。
どんなことば(どの一語)からでも、私たちはリッツォスに出会える。どのことばを通ってリッツォスに出会うか、それは読者に任されている。出会いは、リッツォスだけの仕事ではない。読者の仕事でもある。読者が自分のことばを「真実」のものとして動かすとき、リッツォスのことばの「真実」に出会える。
リッツォスはそういうことを夢みている。
*
顔
明るく澄んだ顔。沈黙してまったく独り。
まったき孤独のごとく、あるいは孤独の完全なる克服のごとく。
あの顔がきみを見つめる、静かな水の二本の柱の間から。
そして、きみは知らない。どちらの水がきみの心をいちばん動かそうとしているのかを。
「二本の柱」とは涙だろう。両目からこぼれる涙の二本の線。最終行は、少し不思議である。二本の柱が涙だとして、その涙に違いはあるのか。涙が流れるとき、右のひとみから流れる涙と左のひとみから流れる涙は種類が違うのか。
「どちらの水」というは、右目左目の違いではないのだろう。
一行目にもどってみよう。「明るく澄んだ顔」。これは泣き終わったあとのさっぱりした顔ともとれるが、うれしい顔かもしれない。ひとはうれしいときにも涙を流す。そして孤独でさびしいときも(悲しいときも)、もちろん涙を流す。
きみは、どちらに感動するだろうか。うれし涙だろうか。悲しい涙だろうか。
答えをだす必要はない。どちらの涙にも寄り添うのが愛であるのだから。
*
夏
四つの窓は韻を踏んだ四行詩。
海と空が韻を踏んで部屋の中に吊るされている。
ヒナゲシは夏の手首にはまった腕時計。
正午を告げる時計だ。
太陽はきみを追って髪をつかみ、
きみを光と風の中に宙吊りにする。
リッツォスにはめずらしく明るく孤独のにおいがしない詩。真夏の明るい陽射しのなかでののびやかな恋が輝いている。
「海と空が韻を踏んで部屋の中に吊るされている。」と書かれているが、部屋の中という感じがしない。壁がとりはらわれている。世界中が安心できる部屋になっているということだろうか。
「正午を告げる時計だ。」も、完全ということの象徴かもしれない。
中井久夫の訳のすばらしさは、この「正午を告げる時計だ。」の「だ」にあらわれている。直前の「腕時計」には「だ」がなく、「時計」には「だ」がある。「だ」があってもなくても「意味」は同じだが、受ける印象が違う。ことばの「強さ」がちがってくる。「だ」がある方が強い。そして、このとき「だ」は「である」ではだめだ。間延びする。
短い「だ」という音の中に、喜びが炸裂する。短いからこそ、そこに集まってくる喜びがぶつかりあい炸裂する。
*
いつの日か、おそらく
きみに見せたい、あの深夜のバラ色の雲。
だが、きみは見ない。夜ですもの、どうして見える?
でも、きみの眼でみてもらうより仕方ない--と彼は言った。
きみと私とが孤独から救われるために--。
私の指さすあそこほんとうは何もないのだけれど。
夜に集まるのは星ばかり。疲れた星たちは
遠出から帰るトラックのようだ。
落胆と空腹と。歌もなく、
汗ばんだ掌にしおれた花を握った人々。
でも、これからもきみを見たい、きみに見せたい--と彼は言った。
きみが見なければ、私が見なかったと同じだもの。
せめてあなたは眼で見ないで、と私は言いたいの。
そうすれば、私たちはいつか会えるでしょう、それも思いがけない方角で。
「現代ギリシャ詩選」に収録されているリッツォスの作品は愛の詩が多い。この詩では男と女がうまくかみあわない。けれど、うまくかみあっているよりも深く愛を感じているのがわかる。愛しあっているのに、うまく関係が結べない。その切ない愛。
男(彼)は深夜のバラ色の雲を女(きみ)に見せたい。それはもちろん存在しない。けれど眼で見て、それが「見える」と言ってもらいたい。これは「こころの眼で見て」ということである。
「きみが見なければ、私が見なかったのと同じだもの。」同じものを見ることによって、「ひとつ」に「なる」。そういうことを男は感じている。「こころの眼」が同じひとつのものを見るとき、こころは「一つ」に「なる」。男と女のこころは別なものだが、それが「見る」ことを通して「一つ」に「なる」。二つのこころが「一つ」になるとき、「孤独から救われる」。孤独ではなくなる。これが男の願いだ。
一方、女は「あなたは眼で見ないで」と訴える。これも「こころの眼」で「見ないで」ということ。女は男がこころを優先させていると感じている。「こころの眼」とは、「ことば」のことかもしれない。「ことば」で何かを見ないで、ことばで、そこにないものをあるかのように語らないで。そこにないものを、ことばで出現させないで。そういうことをすれば、ことばに邪魔されて出会えなくなる。ことばをつかわず、「こころの眼」をつかわず、「肉眼」で世界を見つめて。そうすれば私たちは出会える。
これは表現を変えて言えば、「ありのままの私(女)」を見てという訴えだ。ことばをつかわずに、つまりことばで美化せずに、いま/ここにいる私をそのまま受け入れて、あなたの感性にあう女にしようとしないで、と訴えている。
これは詩人には、かなり厳しい要求かもしれない。ことばなしで、どうやって世界と向き合えるのか、詩人は知らない。
*
ミニチュア
女は卓子の前に立つ。寂しい手が
レモンを薄く切る。お茶のためだ。
レモンの薄い切れは黄色い車輪。
おとぎ話の小さな馬車のもの。
若い将校は卓子越しに向かい合う。
女の顔を見ず、古い肘掛け椅子に身を沈め、
煙草に火を点ける。マッチの手が震える。
マッチはそのやさしいオトガイを照らし、紅茶茶碗の把手を照らす。
一瞬、時計が止まる。だが見送られた。何を? 何かを。
瞬間は去った。今は遅い。お茶をご一緒に、ね。
こんな小さな場所に死が乗ってくるってこと、あるの?
みんな行ってしまい、去ってしまって、この小さな馬車だけが残るってこと、あるの?
残って、来る年来る年ランプを消して脇道に駐車してるってこと、あるの?
小さなレモンの黄色い車輪を付けて--?
それからひとしきりの歌、僅かな霧、そして何もなくなるの?
女の思い出。昔、若い将校に紅茶を出した。レモンの薄切りをそえて。それは馬車の車輪のように見えた。それは最後の別れになった。最後の別れになること、戦争で死んでしまうことがわかっていたから、若い将校は女を見つめようとはしなかった。
それは一瞬のことだけれど。
その一瞬が、女は忘れられない。思い出している。あのレモンがいけなかったのだろうか。レモンを馬車の車輪と思い、その馬車に乗って将校がやってきたと、おとぎ話の出会いのように思ったのがいけなかったのか。馬車は人を連れてくると同時に、人を連れ去る。ひとは馬車に乗って去って行ってしまう。帰られない人になってしまう。
いまはもう何もない。レモンの思い出だけが残っている。
そう思って読むと、最初の二行は現実で、三行目からは記憶になる。一行目の「寂しい」は、いまの孤独をあらわしていることになる。過去を思いながら、寂しくひとりで紅茶を飲む。
記憶のなか(こころのなか)では、時制の区別がない。遠い過去も一秒前を思い出すのと同じように、隔たりがないままにやってくる。一秒前よりももっと接近してあらわれてしまう過去というものもある。そういう時間の入り乱れ、入り乱れる時間のなまなましさが「一瞬、時計が止まる。」からはじまる。実際、思い出のなかで時間は止まる。思い出のなかでは、いつでも「いま」なのだ。
それにしてもレモンの薄切りの車輪は美しい。目にとてもあざやかだ。その繊細な目がとらえるマッチの明かり、マッチが照らすオトガイ、それらから「紅茶茶碗の把手」。この「把手」をつかみ取る視線がリアルだ。リッツォスは視覚の鋭い詩人だ。
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