井野口慧子「兆しのように」(「アルケー)」6、2014年04月01日発行)
井野口慧子「兆しのように」を読みながら感じた魅力、そのことばの静かさをどう言えばいいのだろうか。「静かなことばが胸に響いてくる」と書けば言いたいことは言い尽くしてしまったような気もするが、「静かな」がどこからやってくるのか、私は見極めたい。じっと耳を澄まし、その音が聞こえてくるところをつきとめたい。
固有名詞をきちんと書いている。井野口自身は肺炎で苦しんでいる。その肉体の苦しみのなかで、「相手」をきちんと見ている。その、自分自身へのきびしい態度(あまやかさない態度)が静かさの要員のひとつである。
で、その「きびしさ」が「観たことのある」ということばに結晶しているように、私には思える。「戦場のピアニスト」を観たことがある。その映画をテレビでやっている。その事実を事実のまま書いているのだが、「観たことのある」というひとことの挿入が、ことばの全体をぐいと落ち着かせている。他人(相手)と自分を区別するように、経験と未経験をしっかりと区別する姿勢が井野口にはある。そして経験したことは経験したと言う。経験していないことを経験したようには語らない--そういう自省する力が「静かさ」を生み出している。
映画ではあるけれど「戦場のピアニスト」を観た。そのとき、いろいろなことを感じ、考えた。そのなかで忘れられないものが「アウシュビッツへ向かう人々の眼」。それを井野口の「肉体」はおぼえている。そのおぼえているものと、別の影像、ニュージーランドの地震、リビアのデモへの襲撃が重なると、ふたつのニュースの影像にはなかった「ひとの眼」が見えてくる。何かを経験することは、それが影像体験であっても、肉体を刺戟し、見えないものを見えるようにする。井野口は、自分の肉体が、その現場で目撃したものではないけれど、とことわった上で、きちんとことばを動かしている。経験の種類を区別して、ことばを動かしている。想像を想像とことわったうえで、ことばを動かしている。
この「抑制」は、あまりにも静かに、簡単に書かれているので見すごしてしまいそうだが、私のように、思ったことを見境もなしに書き散らしている人間には、何かはっとさせられるものがある。私自身が直接体験し、肉体でわかっていること、ことばや影像をとして間接的に知っていること(わかったつもりになっていること)を、私は厳密に区別したことがない。私は、わからなくても知っていることを、わかったふりをして書いてしまう。井野口はそういう乱暴なことはしない。
「娘の折り曲げた細い背中」は井野口が肉眼で直接見た、井野口だけの「影像」である。(それまでに出てくるテレビの影像との関係を明確にするために、あえて影像と書いておく。)娘さんは、亡くなったのだろうか。具体的には書いていないが、そんなふうに私には思える。井野口が肺炎で苦しんでいるのと同じ姿勢で、苦しんだ。いま、井野口が苦しんでいる肉体のなかへ、娘の肉体がやってくる。
重なる。
重なった瞬間に、「わかる」。
それは「戦場のピアニスト」の「アウシュビッツへ向かう人々の眼」が、ニュージーランド地震の犠牲者、リビアのデモの襲撃された人々の眼と重なることで、何かが「わかる」のに似ている。
こういう「わかる」は「共感」とも呼ぶことができるのだが、井野口はそこから感情の「共有」というところへと入っていかない。入ってゆくのが「感情」というものなのだが、感情が入っていったからといって「肉体」の問題が解決するわけではないと「わかっている」から入っていかない。
重なりながら、踏み止まり、
ときっぱりと言い放つ。
これは冷たいことばだろうか。
しかし「事実」に冷たいかどうかは無関係である。「事実」から冷たいかどうかという感情論を取り除いたとき、その「事実」は「真実」になる。誰の肉体も誰かのかわりにはならない。なれない。肉体は、それぞれに「ひとつ」なのである。そのことをしっかりとみつめている。それは井野口の肉体が「ひとつ」であるということを再確認するということである。娘の身代わりにはなれなかった。その不可能性が肉体である。
「観たことのある」「重なって見える」。「観る/見る」と文字は違うのだけれど、井野口は眼によって認識し、考える詩人である。肉眼で、あれはなんだろう、と考える。自分と他者を区別しながら、そこに自分を(あるいはわかっていることを)重ね合わせながら、同時に重ならない部分をしっかりとみつめ、自分へ引き返し、そこからことばを動かしている。
そういう静かな、不思議な「決意(生き方への思い/思想)」があるから、ことばの全体が非常に落ち着く。
これから引用する詩の後半は、書きようによっては非常に甘く、センチメンタルになるものだが、井野口は、しっかりと眼を見開いてことばを動かしている。だから、とても美しい。私が何か言い出すと、その美しさを壊してしまう。ただ引用しよう。
井野口慧子「兆しのように」を読みながら感じた魅力、そのことばの静かさをどう言えばいいのだろうか。「静かなことばが胸に響いてくる」と書けば言いたいことは言い尽くしてしまったような気もするが、「静かな」がどこからやってくるのか、私は見極めたい。じっと耳を澄まし、その音が聞こえてくるところをつきとめたい。
二〇一一年二月下旬 肺炎で入院
夜の病室のテレビをつける
ニュージーランドのカンタベリー地方
クライストチャーチ地震の惨状
リビアの反政府デモへの襲撃のニュース
二日間昼夜点滴攻めだが 咳は止まらない
チャンネルを変えると 観たことのある
映画「戦場のピアニスト」
影像の中の アウシュビッツに向かう人々の眼が
今この瞬間も 瓦礫に埋まっている人
あてもなく流浪する難民の眼に
重なって見える
固有名詞をきちんと書いている。井野口自身は肺炎で苦しんでいる。その肉体の苦しみのなかで、「相手」をきちんと見ている。その、自分自身へのきびしい態度(あまやかさない態度)が静かさの要員のひとつである。
で、その「きびしさ」が「観たことのある」ということばに結晶しているように、私には思える。「戦場のピアニスト」を観たことがある。その映画をテレビでやっている。その事実を事実のまま書いているのだが、「観たことのある」というひとことの挿入が、ことばの全体をぐいと落ち着かせている。他人(相手)と自分を区別するように、経験と未経験をしっかりと区別する姿勢が井野口にはある。そして経験したことは経験したと言う。経験していないことを経験したようには語らない--そういう自省する力が「静かさ」を生み出している。
映画ではあるけれど「戦場のピアニスト」を観た。そのとき、いろいろなことを感じ、考えた。そのなかで忘れられないものが「アウシュビッツへ向かう人々の眼」。それを井野口の「肉体」はおぼえている。そのおぼえているものと、別の影像、ニュージーランドの地震、リビアのデモへの襲撃が重なると、ふたつのニュースの影像にはなかった「ひとの眼」が見えてくる。何かを経験することは、それが影像体験であっても、肉体を刺戟し、見えないものを見えるようにする。井野口は、自分の肉体が、その現場で目撃したものではないけれど、とことわった上で、きちんとことばを動かしている。経験の種類を区別して、ことばを動かしている。想像を想像とことわったうえで、ことばを動かしている。
この「抑制」は、あまりにも静かに、簡単に書かれているので見すごしてしまいそうだが、私のように、思ったことを見境もなしに書き散らしている人間には、何かはっとさせられるものがある。私自身が直接体験し、肉体でわかっていること、ことばや影像をとして間接的に知っていること(わかったつもりになっていること)を、私は厳密に区別したことがない。私は、わからなくても知っていることを、わかったふりをして書いてしまう。井野口はそういう乱暴なことはしない。
夜通し咳き込んで 息を切らしながら
娘の折り曲げた細い背中が 浮かぶ
三十年余り経って やっとあの苦しみが
私のものになる
遥かな命のうねりの途中で
幾度となく巡り逢ったとしても
誰も 誰かの身代わりにはなれない
「娘の折り曲げた細い背中」は井野口が肉眼で直接見た、井野口だけの「影像」である。(それまでに出てくるテレビの影像との関係を明確にするために、あえて影像と書いておく。)娘さんは、亡くなったのだろうか。具体的には書いていないが、そんなふうに私には思える。井野口が肺炎で苦しんでいるのと同じ姿勢で、苦しんだ。いま、井野口が苦しんでいる肉体のなかへ、娘の肉体がやってくる。
重なる。
重なった瞬間に、「わかる」。
それは「戦場のピアニスト」の「アウシュビッツへ向かう人々の眼」が、ニュージーランド地震の犠牲者、リビアのデモの襲撃された人々の眼と重なることで、何かが「わかる」のに似ている。
こういう「わかる」は「共感」とも呼ぶことができるのだが、井野口はそこから感情の「共有」というところへと入っていかない。入ってゆくのが「感情」というものなのだが、感情が入っていったからといって「肉体」の問題が解決するわけではないと「わかっている」から入っていかない。
重なりながら、踏み止まり、
誰も 誰かの身代わりにはなれない
ときっぱりと言い放つ。
これは冷たいことばだろうか。
しかし「事実」に冷たいかどうかは無関係である。「事実」から冷たいかどうかという感情論を取り除いたとき、その「事実」は「真実」になる。誰の肉体も誰かのかわりにはならない。なれない。肉体は、それぞれに「ひとつ」なのである。そのことをしっかりとみつめている。それは井野口の肉体が「ひとつ」であるということを再確認するということである。娘の身代わりにはなれなかった。その不可能性が肉体である。
「観たことのある」「重なって見える」。「観る/見る」と文字は違うのだけれど、井野口は眼によって認識し、考える詩人である。肉眼で、あれはなんだろう、と考える。自分と他者を区別しながら、そこに自分を(あるいはわかっていることを)重ね合わせながら、同時に重ならない部分をしっかりとみつめ、自分へ引き返し、そこからことばを動かしている。
そういう静かな、不思議な「決意(生き方への思い/思想)」があるから、ことばの全体が非常に落ち着く。
これから引用する詩の後半は、書きようによっては非常に甘く、センチメンタルになるものだが、井野口は、しっかりと眼を見開いてことばを動かしている。だから、とても美しい。私が何か言い出すと、その美しさを壊してしまう。ただ引用しよう。
一人の午後の ただ一つの望みにしては
小さすぎる窓から 灰青色の空
突然 白い鳥の群れが視野に入る
右に左に 斜めに数百羽はいるだろう
天上の海に 三角波を描きながら
羽の輝きが ゆっくり移動していく
光の帯になって 近くなり遠くなり
エールを送ってくる
どこからか ショパンのノクターン
<遺作>が 聴こえてくる
いつのまにか起き上がって
窓辺に 立っている
来てくれたんだね
大丈夫 私はまだこちらにいる
詩集 火の文字 | |
井野口 慧子 | |
コールサック社 |