詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

木村恭子「フォーク」ほか

2014-04-20 11:32:54 | 詩(雑誌・同人誌)
木村恭子「フォーク」ほか(「くり屋」61、2014年04月25日発行)

 木村恭子「フォーク」はさびれていく商店街のなかの洋食器店でフォークを買ったときのことを描いている。「私(木村)」はナイフが一本欲しくて閉店セールをやっている店に入ったのだが、店の白髪の老婦人が「フォークもご一緒に」と勧めるので困ってしまう。必要のないものを買いたくないので、ナイフの代金だけをおいて店を出ると、老婦人が「忘れ物でございます」と言いながら追いかけてくる。仕方なく踵を返すと……。

私にフォークを手渡して 深い一例をその人はしまし
た お代金はよろしゅうございます

時々 引出しからそのフォークを取り出して ぼんや
り眺める事があります いつもそれは祈る人の手に似
ていて あさくつぼめた白く長い指と指との透き間か
ら なにか大切な寂しいことが くれる冬の底に静か
に零れ落ちてゆきます フォークというものを 私は
美しい小説のように思います

 老婦人を描写していたことばが、突然、フォークそのものの描写に変わる瞬間がとてもいい。フォークのカーブした形は「祈る人の手に似ている」。「あさくつぼめた白く長い指」の形をしている--そう描写された瞬間、あ、木村にフォークを手渡した老婦人の手だ、と思ってしまう。店の老婦人は祈っている。木村が大切にフォークをつかってくれることを。フォークがいつまでもナイフと一組でつかわれることを。それは、誰のための祈りでもない。何の見返りも求めない、純粋な祈りだ。
 木村の描写は「祈り」で終わらずに、きちんと指の形まで描写しているのがいい。「祈り」と指の形はとても密接な関係にある。人は懸命に祈るとき掌をぴったりあわせる。日本の初期の仏像がそうである。掌がぴったりしっかりあわさっている。日光菩薩、月光菩薩のころから掌を合わせるというより指先を合わせる形に変わってきている。信仰の情熱がすこし薄らいできている。信仰が常識化してきていることが、その手の形、肉体の、どこに力を入れるかという具体的な変化となってあらわれている。
 老婦人の祈りは、祈りは祈りであるけれど、たとえば韓国で沈没した船からどうぞ自分のこどもが助かりますようにという祈りのように真剣で強いものではない。そんな強い気持ちでフォークがいつまでもつかわれますようにと祈られたのでは、それは祈りではなく怨念のようになってしまう。深くお辞儀はしても、あくまで、そっと寄り添う形の祈りである。そういうことをきちんととらえている木村のことばの動きは美しい。
 祈りが、そういうだれかに寄り添うような、いわばはかないかんじのものだからこそ、それにつづいて「指と指との透き間から なにか大切な寂しいことが」「静かに零れ落ちてゆきます」ということばにつながる。大切なことがこぼれ落ちるのは寂しいけれど、もし、何もこぼこない強い祈りだったら、先に書いた怨念になってしまって、やっぱり困る。こぼれていくかもしれないなあ、と思いながら、こぼれていくものを見ている。今は、あの老婦人のように、ナイフとフォークは一組のもの、失われないように大事にしてくださいというような気持ちはどこかへ「こぼれ落ちても」平気な時代になっている。だからこそ、「こぼれ落ちないようにしてください」と祈った老婦人の姿がなつかしく思い出される。
 老婦人を思い出す姿が、とても静かに書かれている。とても気持ちがいい。

 「手拭き」は病院でしりあった山田さんという人のことを書いている。「しかし あれですなあ--」というのが口癖である。「あれ」が何かはっきりしない。はっきりしないけれど、「あれ」で通じてしまう。「わからない」のに「わかる」。

一度だけ山田さんが皆を笑わせたことがある 食事の
前 お茶と手拭きが配られた時のこと たたまれた白
い手拭きを開くと 「これはあれですなあ 手品かま
じないのたぐいですなあ」 そう言って寝ている自分
の顔の上にひょいとかぶせてみせた それはほんの僅
かの間だったのだけど それから程なく様態を悪化さ
せた山田さんは 雨の夜 本当に消えてしまった

 死者の顔にかぶせる白い布。手拭きを見て、それを思い、自分の顔に書けてみた。それをぱっと取ると、手品のように自分が消えている--そういうことを山田さんは考えたのだろう。何を考えたのか書いてはないのだけれど、たぶん、そうだろうと思う。こういうことを思う時、「あれ」は共有されている。ことばにしないけれど、肉体の奥でわかっていることが共有されている。「あれ」は口にしないのが礼儀なのだ。「あれ」は言ってはいけないことなのだ。
 木村は、言う寸前で、そっと引き返している。それがいい。

六月のサーカス―木村恭子詩集 (エリア・ポエジア叢書)
木村 恭子
土曜美術社出版販売
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(29)

2014-04-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(29)          2014年04月20日(日曜日)

 「イオニアの」には不思議な「声」が書かれている。ギリシャ悲劇のコーラスの声をふと連想する。

われらは神々の像を破壊して
神々を神殿から追放したが、
それで神々が死んだと思ったら大まちがい。
イオニアのくによ、おお神々はなおきみを愛していなさる。

 「われわれ」はコーラス。「きみ」もコーラスの一員である。その「声」はひとりの「主観」、いわゆる主人公の「主観」とは別の、一種の「客観」である。その「場」で、いまり主人公の主観が動いている「いま」という瞬間に発せられる声ではなく、そういうことがあったあと、それを思い返して語られる声である。
 そこには一種の欲望がある。われわれは神々の像を壊したが、なお神々はわれわれを愛してくれる、神なのだから……という身勝手な欲望、ほんとうの何かがある。その身勝手が神話の主人公を育てる。主役はいつもコーラスの声をくぐりながら、あらわれては、消えていく。
 ほんとうの主役(主語)は、コーラスと主役をつなぐ「欲望」である。このあいまいな何か、固定できない何か、それは次のように書かれる。

時にエーテル的な若い姿の
さだかならぬが 迅い翼に
きみの丘々の上を天翔けりゆくではないか。

 「さだかならぬが」、定かでないものが、定かでないことが、天翔けりゆくのではない。「さだかならぬ」という「動詞」が天を翔てゆく。悲劇の主人公でも、コーラスでもなく、主人公とコーラスを結ぶことばの運動が「主語」なのだ。
 揺れ動く。特定できない。

 カヴァフィスは史実のなかの人物の「声」を独自の音楽で表現するが、その声は特定されているように見えるが、そうではない。何かを否定し、何かを肯定している。矛盾している。
 きのう読んだ「アントニウス」では否定の命令形と肯定の命令形が入り乱れていた。「いさぎよく男らしく」ということばが必要なのは、「いさぎよくなく男らしいない」からである。そういう矛盾、矛盾という形でしか存在しえない「さだかならぬ」そのものが動くので、ひとは、そこから自分の引き寄せたいものを引き寄せて考える。
 カヴァフィスは、そういう世界へ読者をつれていく。
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