詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

バディム・イェンドレイコ監督「ドストエフスキーと愛に生きる」(★★★)

2014-04-17 09:20:52 | 映画
監督 バディム・イェンドレイコ 出演 スベトラーナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット

 ドストエフスキーの翻訳をしているスベトラーナ・ガイヤーのドキュメンタリー。ロシア人だが、ナチスがロシアに侵攻したときナチスの通訳をしたことがきっかけでナチスとともにドイツに移り、そこで生きてきた。複雑な背景があるのだが、それはそれできちんと触れなければならないのだろうけれど、省略。
 翻訳する作業と同時に日常が描かれる。そのシーンが美しい。家族が集まってくる。そのとき料理を作る。孫たちといっしょに野菜を刻む。どれくらいの大きさに刻むか孫たちに教える。切り刻んだ野菜をボウルに入れて手でかき混ぜる。そこに、私はちょっと驚いた。日本だと手ではかき混ぜないかもしれない。木のへら(?)か何かをつかってかき混ぜると思う。手が汚いというのではない。手が汚れるのを嫌うのだ。彼女は手が汚れることを気にしていない。手は洗えばきれいになる。もとにもどる。手は、いつでも何にでもつかえる。彼女は「肉体」をつかっているだけではなく、「道具」をつかわないのだ。
 これは別な料理のシーンでも感じたことである。息子が事故で入院する。その病院へ料理をつくってもっていく。このとき「道具」とはできあいの食品を意味する。彼女は、そういうものを利用しない。自分の「肉体」をつかって何かをつくる。トマトをつかうときもトマトの缶詰などはつかわない。自分で皮をむくところからつくりはじめる。パンか何かも粉をこねるところからつくりはじめる。
 「肉体」でできることは「肉体」でしてしまう。
 翻訳とは関係がないようにみえて、そうではない。「ことば」は「肉体」でつかわないと、ことばにならない。
 すこし肉体ともことばとも関係ないように見えるが、途中で出てくるレースと刺繍の織物が美しい。それは彼女の母がつくったもの。手仕事である。その織物にアイロンをかけながら彼女が言う。布は洗濯をすると織っている糸の向きがばらばらになる。アイロンをかけることで、それをもとの位置にもどすのだという。織物にも肉体があり、それを整え、保てばそれはいままでも美しい。ことばも本来の位置にもどせば美しい。美しく動く、ということと織物を結びつけて語る。小説はことばの織物(テキスト)である。
 自分の「肉体」と、あらゆる「もの」の肉体を正しく向き合わせようとしている。ことばも「肉体」だから、それと人間の「肉体」を正しく向き合わせようとする。
 ことばを正しく動かすためには、肉体を正しく動かさなければならない。そう確信している。それが彼女の思想になっている。
 翻訳の実際も、とても興味深い。彼女は自分では書かない。人をやとってタイプを打たせている。声で翻訳している。相手が聞きとれずに聞き返すこともある。そのときもう一度同じことばを声にする。そして、タイプ原稿ができあがると、今度は別の人に読んでもらう。読むのは音楽家だ。耳がいい。読みながら、彼は翻訳に対して、「ここは変だ」と言う。読みにくい、あるいは聞きとりにくいということを指摘する。ことばは頭の中で意味になるだけではなく、肉体をとおして声になり、その音が耳に入ってきて、ほんとうにことばになる。
 私は音読をしない。自分の書いたものももちろん声を出して読むことはない。目と手だけでことばを書いている。これはたしかにおかしなことだ。私は、昔からカタカナが読めない。何度か聞いて、それが耳に馴染んだものなら、なんとか読むことができるが、初めて見るカタカナは読むことができない。そういう欠点があるくせに、ことばを音として確かめながら書くということをしていない。あ、いかん、と思った。読んで、音を確かめて、それではじめて他人に向けたことばにしないといけないのだと気がついた。(とはいっても、きっと声に出して読むということは、しないだろうなあ。もう声に出さないことが癖になってしまっている。)
 ことばと肉体とに関係することでは、もう一つとても印象的なシーンがある。スベトラーナ・ガイヤーがキエフを訪問する。その列車のなかで、ロシアの車掌がパスポートの点検に来る。彼女はその車掌に言う。「あなたに感謝したいことがある。あなたは私たちが話しているのを聞いて、その話が終わるまで話しかけなかった。これはとても礼儀正しいことである」云々。ことばをさえぎるのは、動いている肉体を邪魔するのと同じ。ことばの中へ別のことばで侵入するのは、他者の肉体をないがしろにすることである。私たちは、ことばが肉体であるとは気がつかない。だから、話の途中でも「ちょっといいですか」と別の用事で割り込んだりする。待てない緊急の場合でもないのに、私たちはしばしばそういうことをする。それはたとえば道を歩いている人を手で押し退けて「邪魔だ、おれを通せ」というようなことと同じだ。声、ことばが割り込むのではなく、肉体が割り込んで、そこで動いていたことばを外へ押し退けてしまう。それはたしかに礼儀違反だろう。
 スベトラーナ・ガイヤーは何度もそういうことを体験しているのだろう。だからこそ車掌の態度に感激し、それをことばにする。ことばにして感謝する。それは、ことばの握手、ことばの抱擁に似ている。とてもあたたかく、とても美しい。握手や喜びの抱擁は何度しても美しい。あたたかい。それはすればするほど、新しい喜びになる。
 同じように、ことばはしっかりと動かせば日々新しい動きをする。正しい動きをするようになる、とスベトラーナ・ガイヤーは信じている。だからドストエフスキーを翻訳しなおす。もっと正しいことばの動かし方はないか、どれがドストエフスキーの肉体を正確につたえることばなのか、と探しつづける。
 ことばに関係する人には、ぜひ見てもらいたい映画である。
                      (KBCシネマ2、2014年04月16日)

詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(26)

2014-04-17 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(26)

 「今は詮なし」は戦争で急襲にあったときの様子を描いたものだろうか。カヴァフィスの詩には固有名詞が多いが、この詩にはその固有名詞がない。ただ状況が書かれているだけである。

だがこれはしまった。前から来ない。
誤報であった。
(それとも聞かずか、聞き間違いか)

 この部分の「声」の書き分け方がおもしろい。括弧に入れずに、そのまま書いても、詩の主人公が思ったことだとわかる。突然のことで、思いが乱れ、状況判断がうまくいかずに困惑していることがわかる。
 括弧に入れたのは、「声」が幾種類もあるということを明確にしたかったためだろう。自分自身を問いただしている。「か」という疑問形の「声」をカヴァフィスは強調している。

天から降ったか地から湧いたか。
こちらに用意がないのを見抜き--暇あらせず--
われらを一掃し去った。

 この最後の部分の単柱(--)ではさんだ暇あらせずもまた別の「声」である。前半の「疑念(自省)」の声とは違い、あとから、あれはこうだったなあと思い返している声である。記号によっても、カヴァフィスは声の違いを書き分けている。
 これはカヴァフィスが書いている詩の主役が「声」であることの証拠になるかもしれない。
 カヴァフィスは美しいイメージとか、新しい思想というものを詩にしたいのではない。人間の声そのものを詩にしたい。声のなかにある人間のドラマ、声のなかで起きている「こと」を書きたいという欲望をもっている。人間のなかにあるいくつもの声が瞬間瞬間にあふれ出て、それがかさなり和音になる。声に違いがあるからこそ、斉唱ではなく、合唱になる。カヴァフィスは、そういう声のおもしろさを書いている。

 中井久夫のカヴァフィスの翻訳は、声とドラマの関係をカヴァフィスが狙っている以上にくっきりと浮かび上がらせているかもしれない。中井は精神科の臨床医だが、その臨床の体験、何人もの患者の声に耳を傾けた体験が反映しているのだろう。中井の耳は複数の声を聞き取り、再現できる耳である。
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