詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川田果弧「新月」

2014-04-02 11:44:44 | 詩(雑誌・同人誌)
川田果弧「新月」(「現代詩手帖」2014年04月号)

 川田果弧「新月」は新人作品。福間健二が入選作に選んでいる。1連目のことば、その最初の部分が丁寧だ。

よく熟れた月をうすく剥ぎとり皿に並べる
満ち欠けの連続写真みたいに
きみはむじゃきにテーブルに駆けより
うす切りの月を端から口へと運ぶ
あかくしなやかな舌の上で
透ける月が溶けいくのを見ていると

 「うすく」ということばが少しずつ変容していく。「うすく」は「うすい」という形容詞の連用形になるのだろう。連用形、つまり用言につくことばなので、その働きは「形容詞」というよりも「副詞」に近い感じがする。(私は文法はよくわからなので、適当に書いておく。)この「うすく」は4行目で「うす切り」という形でもう一度出てくる。「うす切り」は「うすく切り」という「形容詞+動詞」が「名詞」に変化したものであり、それは「名詞」でありながら「動詞」を含んでいる。「用言」の要素を含んでいる。動詞派生の名詞、と簡単に言ってしまえばいいのかもしれないけれど、くだくだと書いているのは……。
 この6行で私が感じているのは「動詞」の繊細な動きだからである。動詞について書きたいと思っているからだ。しかも、それが「うすく」という形容詞の連用形とつながって、動詞を繊細にさせていると感じるからだ。形容詞のつかい方に気を配っていて、その気配りがことばを統一していると感じるからだ。
 「うすく剥ぎとる」は「うすい+剥ぐ+とる」ということばから成り立っているが、その行為を繊細に見せているのは「うすい(うすく)」ということばである。「うすい」が繊細なのである。「うすい」という状態が繊細であると同時に「うすい」ということばをつかってしまったために、ほかのことばも繊細になってしまう。
 この「うすい」の対極にあるのが「熟れた」ということばかもしれない。「熟れる」という状態は「うすく」はない。濃厚。濃い--つまり薄いの反対。でも、反対なのだけれど、たとえばよく熟れた桃の皮は非常にうすいという具合に、どこかで密着している。反対にあるものが、同時に、その反対のものを同居させる。そういうことがあるから(そういうことを肉体がおぼえているから)、ここに書かれていることを、繊細、と強く感じるのかもしれない。
 「うすく(うすい)」はさらに、「しなやか」「透ける」ということばへと変化していく。「しなやか」は少し異質なのだけれど(この「異質」については、あとでまた書く)、この「うすく」から「透ける」までの動きというのは、「見る」という動詞のなかでひとつになる。「うすく剥ぎとる」とき、その「うすい(うすさ)」を目で「見る」。「見る」という動詞の力が「写真」を呼び出し、その「うすい月」をたべるきみを「見る」とき、目は自然に「あかい」「舌」を「見る」し、それが「透け」ながら「溶ける」のも「見る」。
 「うすい」ものが「透けて」「溶ける」。
 それを「見てしまう」とどうなるか。

 川田の詩は、複雑で、「うすく(うすい)」を「見る」ことと「食べる」という動詞がぶつかりあう。川田は「食べる」を書きながら「見る」ということばを出合わせている。きみが「食べる」のを私は「見る」。
 どっちに「動詞」の主体というか、重心があるのかな?

みにくいねがいが鎖骨のおくで渦を巻く
のみこまれたらもどれないよ
渦巻くものに?きみの喉に?
どちらでも同じこと

 ここから、すこし面倒くさいことになる。「しなやか」ということばが少し前に出てくるが、動詞の方は「しなやかさ」を失ってしまう。丁寧さが少しずつ置き去りにされ、「物語」の方へとことばの動きが狭められていく。
 いやそうではなくて、「どちらも同じこと」を理由に、「食べる」「見る」の主語が「ひとつ」に収斂するという形で、詩を物語にしてしまうと言えばいいのかな?
 端折って書いてしまうと……。

あらしの晩に拾った雛鳥をポケットに隠した
きみに見つかればきっとひとのみにされる

 「私」は「隠す」、「きみ」は「見えない」、「きみ」が「見れば(見つければ)」、「きみ」が「食べる」。まあ、その「食べる」をさらに「私」が「見る」ということかもしれないし、「私」が鳥を隠すのだから、「私」はそっうやって「食べられない」「きみ」を「見る」ということかもしれないけれど。
 うーん、あの「うすい」「うすく」という形容詞か連用形を取ることでつなぎとめていた緊張のようなもの、丁寧さはどこへ消えたのか。どうなってしまったのか。

 こういうことは、まあ、突きつめてみたってしようがない。
 1連目、書き出しの6行の丁寧さが、それ以後消えてしまうのがとても残念、と書いて終わりにしよう。


現代詩手帖 2014年 04月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(11) 

2014-04-02 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(11)          

 「窓」という詩は心象風景である。心象を「こと」として描いている。

うつろな日々をこの暗黒の部屋部屋で送る私。
窓がないかとぐるぐる歩く私。

 行の最後で繰り返される「私」。それが「自意識」そのものを強調する。「私はうつろな日々をこの暗黒の部屋部屋で送る。/私は窓がないかとぐるぐる歩く。」という倒置法ではない形では、「私」の動きが見えてくる。「日々を送る」は抽象的(?)だが「歩く」は具体的/肉体的である。つまり「私は……動詞」の場合は、そのひとの「肉体」が見えてくる。倒置法「……私」の場合は、そういう「私」を意識する「私」、「私の意識」が迫ってくる。「部屋部屋」という複数形(?)がつかわれているのは、「私という意識」の複数性と重なるのかもしれない。同時に、一般的には「部屋」ということばで複数形を兼ねるのが日本語だが、それを「部屋部屋」と重ねることで複数意識を強調しているのも、「私」の精神のあり方を浮き彫りにしている。「肉体」はひとつだが、「意識」は複数に分裂しながら生きている。
 意識は、複数の部屋に分裂し、入り組んだ「牢獄」なのだろう。そのなかで、「私」には「私」しか見えない。なぜなら、「窓」がないから、「光」が入って来ないから。「窓」と「光」は、この詩では同義語であり、「窓がない」は実は「光がない(光が差さない)」という状態に言い換えられる。そういう状態で、詩人は窓は見つからないからいいのかも、とも思いはじめる。

光もやはり専制君主だろうし、
新しいものは見せてくれるだろうが、
その正体はわかったものじゃない。

 この詩の終わり方は、「私」が専制君主のために窓のない「牢獄」に閉じ込められたという事実を暗示させる。この専制君主が詩人の恋人だと仮定すると、どうなるだろうか。恋人のために詩人は苦悩している。何も見えない。暗闇にいる。牢獄にいる。
 けれど、見えるようになったらそれはどういうことになるだろう。新しい恋人をみつけ、ふたたび恋にとらえられ、「私という牢獄」に閉じ込められるのではないだろうか。
 「その正体はわかったものじゃない。」という口語の響き、口調がなまなましい。いまだって恋人の正体はわからない。わからないから、私は私にぶつかるしかない。--この不透明な、真っ暗な恋しか生きる道がない、と自覚している。自分に言い聞かせているのかもしれない。
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