詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新井啓子「一分間くらい」

2016-02-07 13:56:26 | 詩(雑誌・同人誌)
新井啓子「一分間くらい」(「かねこと」9、2015年01月15日発行)

 新井啓子「一分間くらい」は、感想が書きにくい。

母は一分間くらい呼気が止まる
いよいよの時は施設で看取る
病院へ運んでも人工呼吸器でつながれるだけだから
そこまではしない
たとえば肺炎になって
回復の見込みがあれば搬送するけれど

 一行目は事実。二行目からは新井が考えていること。その考えていること、その「ことば」が奇妙に落ち着いている。いま、突然、書いたことばではなく、何度も何度もことばにしてきて、その結果(?)、無駄な動きがなくなって、「自然体」になっている、という静かな落ち着きがある。ひとりで考えたことばというよりも、家族で「こうしよう」と語り合って、そういうところに落ち着いたのだろう。
 特に、

病院へ運んでも人工呼吸器でつながれるだけだから
そこまではしない

 この二行に、「家族」のやりとり、「共有されたことば」というものを感じる。「そこまで」の「そこ」に、強く感じる。
 「そこ」って何?
 前の行との関係でいえば、「施設」へは運んでも、「病院」へは運ばない。なぜなら病院では「人工呼吸装置につながれるだけだから」ということになるけれど、そんなふうに「意味」だけを要約してしまっては、何かが違ってくる。
 そういう「意味」にたどりつくまでに、きっといろいろな話があったのだろう。
 「最後は病院へつれていかなければ」「病院で、どうなるの? 人工呼吸器でつながれるだけじゃない?」「人工呼吸器でむりやり延命するのは、生きている方もつらいかもしれない」「人工呼吸器をつけて、延命するということまではしなくてもいいんじゃない?」「でも、病院へはつれていかないと」「病院へいくのは、回復の見込みがあるときだけでいいと思う」
 そういう「やりとり」の中心は、「人工呼吸器」をつける、「延命装置」で機械の力で延命する、ということだろう。そういう「無理」はしない。そういう「共有された認識」があって、「そこまで」は言っている。
 「意味」は病院へ運ばない、だが、きっと運ぶ。そして「人工呼吸器」もきっと、つける。つけるけれど、そのとき、こういうやりとりをしたことを思い出しながら、また、あれこれ考え直す。そういうことはわかっているが、わかっているからこそ、いま、こうやって「ことば」をととのえ、「暮らし」をととのえている。「未来」をととのえている。
 その「ととのえ方」は、何度も何度も繰り返されたことなのだと思う。繰り返しながら、少しずつ修正(?)し、少しずつ納得する。納得しながらも、反論もする。「そこまではしない」と言ってすぐ、「けれど」肺炎の場合、回復の見込みがある場合は……と言い直したりする。「ゆらぎ」を含みながら、その「ゆらぎ」が次第に静かになってきた不思議さ、静かに見えるけれどやはり「ゆらぎ」を隠している緊張感がある。
 三行目の末尾の「だから」という「理由(論理)」の推しすすめと、六行目の末尾の「けれど」という「反論」が、何度も何度も繰り返されて「そこ」ということばをその度に動かしているのだと思う。そして、そのつど、それを受け入れている。
 こういう受け入れにまで、どれくらいの「時間」がかかったのかわからないが、どの連にも(どの母の描写にも)、母を見つめてきて、病気の母を受け入れると同時に、その母に対してあれこれ思う自分自身も受け入れているのだと思う。

 母のことを書いたあと、半分をすぎたところで「父」が出てくる。この部分も、とても印象的だ。

父の八十九歳の誕生日にはケーキを買う
店の名前はシャプラン
J小学校の手前
JAの倉庫の隣
JALの航路の下
ろうそくは合わせて九本
一本くらいはさして気にしない派だ
八十九歳の誕生日によりそうものは数少ない家族と
薄紙を剥がすような生

 「J」「JA」「JAL」と一文字ずつ増えていく。それはたまたまの偶然なのかもしれないが、それは繰り返し繰り返しその「場」を見つめることでととのえられた「形」である。「ととのえる」という行為の静かさがある。この「J」「JA」「JAL」の「変化(?)」に似たものが、きっと「暮らし」のなかにあるのだ。母の看病をしながら、少しずつ「増やしたきたもの」があるのだ。ただ「増やす」のではなく、一定の方向へととのえながら増やしてきたものがあるのだ。
 「J」「JA」「JAL」という「ととのえ方」をしなくても店の位置なら、もっとほかにいい方がある。「○○通り」とか、「角から○軒目」とか。少なくとも「JALの航路の下」というような場所の特定は、その場所を繰り返し繰り返し通るひとにしかわからない。一分おきに飛行機が上空を飛ぶわけではないだろうから。だいたい「航路の下」なんて「正確」ではない。「正確」ではないのだが、その「ぶれ」を受け入れて、「全体」をととのえている。そういう「美しさ」がここにある。
 それはそのまま「一本くらいはさして気にしない」という父の性格へとつながっていく。あるいは、「一本くらいはさして気にしない」は新井の性格で、それを父に押しつけているのかもしれない。父は受け入れているのかもしれないけれど。まあ、互いが、「そういうことにしておこう」と納得しているのだろう。
 でも、「一本くらいは気にしない」はどういうことかなあ。「八十八歳」「八十九歳」「九十歳」、どっちだったかなあ。「気にしない」ということか。九本のろうそくを、八十九歳の「九」からとった本数と思ったのだが、そうではなくろうそく一本が「十歳」で、九本で「九十歳」。ひとつ「さば」を読むことになるが、そんなことは「気にしない」なのかもしれないなあ。
 自分のことは「気にしない」。けれど、病気の母といっしょに暮らしているので、そのことは気にしている。気にしているけれど、誕生日だから、やっぱりお祝いをする。
 ここにも、静かな静かな「暮らし」のととのえ方がある。

 最終連。

呼吸が止まる一分間くらいは
夕日が沈むより 永遠より わずかな時間だ
一分間くらい 息を止めてみる
一分間くらい

 「一分間くらい 息を止めてみる」。それは「母になってみる」ということ。何度も何度も、繰り返して「母になった」。そして「母」から自分を、あるいは「父」を見つめたこともあっただろうと思う。
 そういう思いのなかで「一分間」と「永遠」が向き合う。

夕日が沈むより 永遠より わずかな時間だ

 しかし、ここに書かれている「永遠」は、直後に「時間」ということばが出てくるが「時間」ではないね。「長い長い時間」という「意味」ではないね。「長い長い時間」という意味なら、わざわざ「一分間」と比較しなくてもいい。わかりきっている。「数学」で比較できる「長さ」ではない。
 何だろう。
 「永遠」と書いているけれど、それは「瞬間」だ。「瞬間」とも呼べない、「計測できない短さ」。そこに「ある」としか言えない「計測不能の時間」。
 「永遠」と「瞬間」は「計測できない」ということのなかで一致する。
 そして、あらゆることは「計測できない」。
 母がこれからどうなるか、父はどうなるか、新井自身もどうなるか、--それは「計測する」ではなく「予測する」といった方がいいのかもしれないが。いずれにしろ「測る」ことができない。
 そういうとき、どうするか。
 「いま」をととのえるしかないのかもしれない。何が起きてもいいように、それがどんな長さでもいいように、「いま」をととのえる。
 そのととのえる意志と持続を、ことばの落ち着きに感じる。

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