監督 トッド・ヘインズ 出演 ケイト・ブランシェット、ルーニー・マーラ
ルーニー・マーラにつきる。
写真で見ると美人ではない。だが映画で見ると引き込まれる。特に目がいい。いちずにケイト・ブランシェットを見ているのだが、そのとき見えているものが何かわからない感じがいい。
「わかる」というのは、相手になること。
ルーニー・マーラはデパートのおもちゃ売り場の店員。ケイト・ブランシェットは裕福な家庭の妻。ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットの豪華な美しさに目を奪われる。ことのときは、まだ豪華な美人と感じているだけで、「わかる」というところまでは行っていない。つまりケイト・ブランシェットになっていない。むしろ「なれない」ということが「わかる」。言い換えると、「違い」が「わかる」。「違い」を自覚する。
これが、どうやって、ケイト・ブランシェットを「わかる」ようになるか。
「恋愛」なのだから、どうやってというようなことをいちいち説明するのは面倒だし、説明してしまえば「うそ」になってしまいそうだが……。
おもしろいなあ、と感じるのは、ストーリーが忘れ物の「手袋」を自分で郵送するところからはじまること。「遺失物係」にまかせる、会社にまかせるというのではなく、ルーニー・マーラが「自分」で郵送する。「自分」を押し出している。
これは、「私はあなたの名前、住所を知っている。あなたにも私の名前を知ってほしい」という一種の「ラブレター」である。手袋をとどけるだけならデパートの名前、売り場の名前で十分なのに、自分の名前を書いている。
それがきっかけで、ケイト・ブランシェットから売り場に電話がかかってきて、いっしょにランチをすることにてるのだが、このシーンが、とてもおもしろい。
ケイト・ブランシェットは手慣れた感じで注文し、マティーニーも頼む。ルーニー・マーラは「同じものを」と注文する。これは自分でランチの注文もできないという控えめなことばでとらえるとき「自画像」になるのだが、そうではなくて、この瞬間ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットをなぞることで、ケイト・ブランシェットになってみようとしているのだ。ランチタイムにマティーニーを飲む。そうなると、どんなことが起きるのか。知らない、わからないことを、「わかる」、わかろうとしている。だが、何も「わからない」。一方、ケイト・ブランシェットは、ルーニー・マーラが「わかる」。ルーニー・マーラにとって、こういうことは初めてなのだと「わかる」。
ケイト・ブランシェットが「わかっている」ことを、ルーニー・マーラは「わかっていない」。その「わかっていない/知らない」ことを「わかる」にかえたがっていることが「わかる」。
ケイト・ブランシェットにすすめられ、ルーニー・マーラがたばこを吸うシーンがある。それまで、ルーニー・マーラがたばこを吸ったことがあるかどうかはっきりしないが、その吸い方から「はじめて」が感じられる。目がたばこを吸うという「行為」からはなれて、ケイト・ブランシェットの方を見ている。どう見られているかを気にしている。「わかられる」のが、怖い。「わかってもらいたい」のに「わかられる」のは怖い。あるいは「わかられしてまった」ことが、怖い。けれど、「わかられてしまった」のだから、もう平気だ、という感じもある。
この視線の動きを、ルーニー・マーラがボーイフレンドといるときの目と比較してみるとはっきりする。ボーイフレンドといるとき、ルーニー・マーラは「わかる/わからない」をゆらがない。ルーニー・マーラがボーイフレンドになることもないし、ボーイフレンドがルーニー・マーラになることもない。ルーニー・マーラは「あなたは私のことをわからない」と拒絶した目で相手を見ている。ルーニー・マーラは「私はあなたになりたい」という気持ちを、ボーイフレンドに対して持つことはない。ルーニー・マーラはボーイフレンドといるときは自分というものがゆらがない。
ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットといると、自分自身のなかにある「わかる/わからない」がゆらぐ。そのぎに重なるように、ルーニー・マーラーはケイト・ブランシェットの、知らなかった家庭の事情(ケイト・ブランシェットが押し隠しているゆらぎ)を知る。そして、ケイト・ブランシェットが不幸であることも「わかる」。わかってしまう。わかる必要のないものを、「わかる」。悲しみが「わかる」。悲しみが「わかる」ということは、ケイト・ブランシェットになって「悲しむ」ということでもある。
で、二人でクリスマスの旅に出るのだが。
最初は別々の部屋を取っていたが、「リーズナブルなスイートルームがある」とホテルのひとが言ったとき、ルーニー・マーラーは「スイートルームにしたら」と言う。それはルーニー・マーラの「声」であるけれど、ケイト・ブランシェットの「声」でもある。ケイト・ブランシェットはほんとうはいっしょの部屋がいいと思っているが、それを口に出せないでいるということが「わかる」から、ルーニー・マーラーは、そう言うのである。ケイト・ブランシェットが拒まないと「わかる」から、そう言う。このとき、ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットになっている。
はじめてベッドに誘うのもルーニー・マーラの方である。何も知らない(初めてであるはずの)、ルーニー・マーラがケイト・ブランシェットを誘う。そのとき、ルーニー・マーラがケイト・ブランシェットに「なっている」。ケイト・ブランシェット以上にケイト・ブランシェットに「なっている」。
この、相手以上に相手になる。その「以上」が「恋愛」ということなのだなあ。いままで知っていた人間「以上」のものになって、自分を愛する。これは、いままで知っていた人間「以上」のものに、自分を愛させるということでもある。自分を愛させることで、自分自身もまた自分「以上」のものになる。区別がなくなる。自己と他者の区別がなくなる。
ただ、「いま以上」という動きがある。
恋愛をとおして、二人は「いま以上」のルーニー・マーラとケイト・ブランシェットに「なる」。
うーん。
これは、なかなか大変な映画だなあ。
同性愛が異端視されていた時代、抑制し隠そうとしていた時代。その時代のなかで、愛に目覚めていく過程を描いているのだが。
恋愛というものが、人間を「いま以上」のものに育てるという部分に本質があるのだとしたら、どんな愛も、きっと「社会の暗黙の了解」を突き破って動いてしまうだろう。「いま以上」というのは、すべてを否定するからである。すべてを超越していくからである。
でも、こんなことは、けっして「わからない」ことなのだ。
「わからない」まま、そこに何か自分を壊し、超えていく力があると「わかり」、そこに向かっていく。ラストシーンは、ルーニー・マーラとケイト・ブランシェットが違いに「あなたはそこにいたのか」という目で見つめる。そこにいるのは「ほんとうのあなた」か、そうではなくて「ほんとうの私」なのか。ことばにしようとすると「わからない」が、ことばにしなければ「わかる」。
わからないもの、自分以上のものになる、というその目の輝きは、すこしオードリー・ヘップバーンに似ているとも感じた。
(天神東宝8、2016年02月07日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ルーニー・マーラにつきる。
写真で見ると美人ではない。だが映画で見ると引き込まれる。特に目がいい。いちずにケイト・ブランシェットを見ているのだが、そのとき見えているものが何かわからない感じがいい。
「わかる」というのは、相手になること。
ルーニー・マーラはデパートのおもちゃ売り場の店員。ケイト・ブランシェットは裕福な家庭の妻。ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットの豪華な美しさに目を奪われる。ことのときは、まだ豪華な美人と感じているだけで、「わかる」というところまでは行っていない。つまりケイト・ブランシェットになっていない。むしろ「なれない」ということが「わかる」。言い換えると、「違い」が「わかる」。「違い」を自覚する。
これが、どうやって、ケイト・ブランシェットを「わかる」ようになるか。
「恋愛」なのだから、どうやってというようなことをいちいち説明するのは面倒だし、説明してしまえば「うそ」になってしまいそうだが……。
おもしろいなあ、と感じるのは、ストーリーが忘れ物の「手袋」を自分で郵送するところからはじまること。「遺失物係」にまかせる、会社にまかせるというのではなく、ルーニー・マーラが「自分」で郵送する。「自分」を押し出している。
これは、「私はあなたの名前、住所を知っている。あなたにも私の名前を知ってほしい」という一種の「ラブレター」である。手袋をとどけるだけならデパートの名前、売り場の名前で十分なのに、自分の名前を書いている。
それがきっかけで、ケイト・ブランシェットから売り場に電話がかかってきて、いっしょにランチをすることにてるのだが、このシーンが、とてもおもしろい。
ケイト・ブランシェットは手慣れた感じで注文し、マティーニーも頼む。ルーニー・マーラは「同じものを」と注文する。これは自分でランチの注文もできないという控えめなことばでとらえるとき「自画像」になるのだが、そうではなくて、この瞬間ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットをなぞることで、ケイト・ブランシェットになってみようとしているのだ。ランチタイムにマティーニーを飲む。そうなると、どんなことが起きるのか。知らない、わからないことを、「わかる」、わかろうとしている。だが、何も「わからない」。一方、ケイト・ブランシェットは、ルーニー・マーラが「わかる」。ルーニー・マーラにとって、こういうことは初めてなのだと「わかる」。
ケイト・ブランシェットが「わかっている」ことを、ルーニー・マーラは「わかっていない」。その「わかっていない/知らない」ことを「わかる」にかえたがっていることが「わかる」。
ケイト・ブランシェットにすすめられ、ルーニー・マーラがたばこを吸うシーンがある。それまで、ルーニー・マーラがたばこを吸ったことがあるかどうかはっきりしないが、その吸い方から「はじめて」が感じられる。目がたばこを吸うという「行為」からはなれて、ケイト・ブランシェットの方を見ている。どう見られているかを気にしている。「わかられる」のが、怖い。「わかってもらいたい」のに「わかられる」のは怖い。あるいは「わかられしてまった」ことが、怖い。けれど、「わかられてしまった」のだから、もう平気だ、という感じもある。
この視線の動きを、ルーニー・マーラがボーイフレンドといるときの目と比較してみるとはっきりする。ボーイフレンドといるとき、ルーニー・マーラは「わかる/わからない」をゆらがない。ルーニー・マーラがボーイフレンドになることもないし、ボーイフレンドがルーニー・マーラになることもない。ルーニー・マーラは「あなたは私のことをわからない」と拒絶した目で相手を見ている。ルーニー・マーラは「私はあなたになりたい」という気持ちを、ボーイフレンドに対して持つことはない。ルーニー・マーラはボーイフレンドといるときは自分というものがゆらがない。
ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットといると、自分自身のなかにある「わかる/わからない」がゆらぐ。そのぎに重なるように、ルーニー・マーラーはケイト・ブランシェットの、知らなかった家庭の事情(ケイト・ブランシェットが押し隠しているゆらぎ)を知る。そして、ケイト・ブランシェットが不幸であることも「わかる」。わかってしまう。わかる必要のないものを、「わかる」。悲しみが「わかる」。悲しみが「わかる」ということは、ケイト・ブランシェットになって「悲しむ」ということでもある。
で、二人でクリスマスの旅に出るのだが。
最初は別々の部屋を取っていたが、「リーズナブルなスイートルームがある」とホテルのひとが言ったとき、ルーニー・マーラーは「スイートルームにしたら」と言う。それはルーニー・マーラの「声」であるけれど、ケイト・ブランシェットの「声」でもある。ケイト・ブランシェットはほんとうはいっしょの部屋がいいと思っているが、それを口に出せないでいるということが「わかる」から、ルーニー・マーラーは、そう言うのである。ケイト・ブランシェットが拒まないと「わかる」から、そう言う。このとき、ルーニー・マーラはケイト・ブランシェットになっている。
はじめてベッドに誘うのもルーニー・マーラの方である。何も知らない(初めてであるはずの)、ルーニー・マーラがケイト・ブランシェットを誘う。そのとき、ルーニー・マーラがケイト・ブランシェットに「なっている」。ケイト・ブランシェット以上にケイト・ブランシェットに「なっている」。
この、相手以上に相手になる。その「以上」が「恋愛」ということなのだなあ。いままで知っていた人間「以上」のものになって、自分を愛する。これは、いままで知っていた人間「以上」のものに、自分を愛させるということでもある。自分を愛させることで、自分自身もまた自分「以上」のものになる。区別がなくなる。自己と他者の区別がなくなる。
ただ、「いま以上」という動きがある。
恋愛をとおして、二人は「いま以上」のルーニー・マーラとケイト・ブランシェットに「なる」。
うーん。
これは、なかなか大変な映画だなあ。
同性愛が異端視されていた時代、抑制し隠そうとしていた時代。その時代のなかで、愛に目覚めていく過程を描いているのだが。
恋愛というものが、人間を「いま以上」のものに育てるという部分に本質があるのだとしたら、どんな愛も、きっと「社会の暗黙の了解」を突き破って動いてしまうだろう。「いま以上」というのは、すべてを否定するからである。すべてを超越していくからである。
でも、こんなことは、けっして「わからない」ことなのだ。
「わからない」まま、そこに何か自分を壊し、超えていく力があると「わかり」、そこに向かっていく。ラストシーンは、ルーニー・マーラとケイト・ブランシェットが違いに「あなたはそこにいたのか」という目で見つめる。そこにいるのは「ほんとうのあなた」か、そうではなくて「ほんとうの私」なのか。ことばにしようとすると「わからない」が、ことばにしなければ「わかる」。
わからないもの、自分以上のものになる、というその目の輝きは、すこしオードリー・ヘップバーンに似ているとも感じた。
(天神東宝8、2016年02月07日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
アイム・ノット・ゼア [DVD] | |
クリエーター情報なし | |
Happinet(SB)(D) |