詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松本秀文『環境』

2016-02-23 10:30:36 | 詩集
松本秀文『環境』(思潮社、2015年11月30日発行)

 松本秀文『環境』には複数のスタイルの詩が収録されている。どの詩の感想を書けばいいのか、迷う。「環境」という「くくり」のなかの「環境」ということばを含む「(劣悪な環境がいやらしく紙を靡かせるエリア」という作品について書いてみる。
 原文は行末がそろっていて、書き始めがばらばら。大地に木が生えているように、ことばが立っているスタイルである。そのままの形では引用がむずかしいので行頭を揃えた形で引用する。原文は詩集で確かめてほしい。

鮫たちがtrigger の橋付近で集会を行っている
「君を歓迎する」
老いたロバ(芸術)が辿る過去のデータの蓄積
狂ったフルート吹きの部屋
天才の出現と消滅
さようならデモクラシー

 書き出しの5行。
 読みながら、ことばが「きちんとしている」ことに驚く。この「きちんとしている」という印象をどう語りなおしていいのかよくわからないのだが、たとえばきのう読んだ小笠原鳥類のことばは松本のことばのように「きちんとしている」とは私には感じられない。また一昨日読んだ金澤一志も「きちんとしている」という印象ではない。松本のことばと比較すると、小笠原や金澤のことばは句読点が独特であり、呼吸があわせにくい。
 一方、松本のこの作品には句読点がないが、しかし、句読点があるように感じてしまう。それぞれの一行が句点「。」をもっている。それが「きちんとしている」という印象になる。
 松本は句読点を書いていないが、私は句点「。」を補って読んでしまうのである。
 行末が揃ったこの詩の形式では、特に、その印象が強い。どの行末にも句点「。」があって、それが「きちんと」整列している。そういう「美しさ」私は感じる。
 金澤はかっこ( )の内と外を入れ替えながら句読点をさらにあいまいにしていたし、小笠原は辞書からの引用と記憶からの引用をかきまぜることで句読点(意識の区切り)をあいまいにしていたのに対し、松本は、まず一行の独立、一行の句点「。」を大切にしているという違いがあるように思える。
 私は古い人間なので、句読点のはっきりしていることばの方を読みやすく感じてしまう。ことばが「きちんとしている」なあ、と感じる。
 でも、こういう「きちんとしている」という「感覚」は「錯覚」かもしれないとも思っている。ことばはいつでも、そのことばを発した瞬間から、ほかのことばと向き合って動きはじめるので、「きちんとしている」としたら、それはどこかに「無理」があるかもしれない。強制的に「ととのえている」ものがあるかもしれない。
 そうであるなら、そこに「書かれていることば」(発せられたことば)よりも、その「ととのえる力」の方が、ことばの「本質/本能」であるかもしれない。
 で。
 松本のことばを読みながら、私は、その「ととのえる力」を、感覚の意見のまま書いてしまえば「音楽」だと思った。ことばのなかに「音楽」がある。「リズム」と「音階」があって、それがことばを自然に美しくととのえている。
 「リズム」は大きく言ってしまうと、行末の書かれていない句点「。」によってつくられているが、小さく言えば助詞(てにをは)がつくっているように感じられる。助詞(てにをは)のあとには読点「、」が隠れていて、それが「リズム」をつくっている。

鮫たち「が」trigger 「の」橋付近「で」集会「を」行っている

 ほんとうは離れているかもしれないものを助詞が結びつけている。そのときの、あ、結びついたという感じ、同時にその結合から離れていこうとする感じ。接続と切断が、助詞といっしょにそこに存在している。読点「、」が奥深いところに隠れている印象が「リズム」をつくっている。
 助詞のかわりに、動詞が連体形をとって名詞と密着する形をとるときもある。「老いた/ロバ」「辿る/過去」というようなことばの「/」の部分は「てにをは」と同じようにことばを接続詞ながら切断している。
 そして、これは何と言えばいいのか……。
 私には、とても「文学」っぽく感じられもする。
 松本がつくりだしていることば、「音楽」なのだけれど、「文学」の「歴史」を感じる。「古典」は、こういう「音楽」でできていたなあ、と感じてしまう。それこそ「データ(文学)の蓄積」を感じ、その「蓄積」をとても「自然」に感じてしまう。
 「文学」になってしまった「ことばの肉体」というものを感じる。きっと大変な読書家なのだ。「ことば」が「ひとつの肉体」となって動いていて、無駄がない。そして、その「ひとつの肉体」が動くたびに成長していくという印象がある。
 小笠原や金澤もまた読書家だろうけれど、彼らの「ことば」は「ひとつの肉体」になっていない。「統一」されていない。何か、余剰を含みながら、これから「一つになっていく」という感じがする「肉体」である。細胞分裂している過程といえばいいのだろうか。(逆の言い方をすると、「未分節」へ向かって解体していく「ことばの肉体」ということになるかもしれない。「ひとつ」を目指すにしても、方向性が松本とは反対という感じがする。)

 「音階」について言えば。
 「ロバ」と「芸術」というかけ離れた存在の「比喩」。「比喩」による相互入れ替え。「過去/データ/蓄積」という「和音」的な調和。「出現/消滅」という「衝突」がつくりだす瞬間的な輝きと「天才」への結晶、あるいは逆に「天才」が「出現/消滅」という瞬間に解体される錯乱のようなもの。
 「ストーリー」をつくるのではなく、ストーリーを「ビッグバン」として破裂させてしまうイメージの「和音」。
 そういう感じ……。

 こんなことはいくら書いても「印象」の領域を出ない。
 しかし、「印象」しか書けない。私は「文学」というものをほとんど読んでいないからだ。松本が読んでいる「文学」の量が圧倒的に多くて、「文学の肉体」というものが、私には「別次元」に見えてしまう。だから「印象」になってしまう。
 古い「比喩」をつかって言い直すと、たとえば、私がスピッツの泳ぎを見て「美しい」と言ったり、ルイスの走りを見て「美しい」と言ったりしても、それは「印象」であって、絶対に「批評」にはなりえないのに似ている。私が「美しい」なんて言っても、スピッツもルイスも、「こいつ、何を言ってるんだ」と思うだけだろう。同じように、松本は、私が「松本のことばは美しい」とは書いたのを読めば、「こいつ、何を言ってるんだ」と思うだけだろう。

 視点をかえて……。
 私は松本の熱心な読者ではないので知らなかったのだが、この詩集には、えっ、松本はこういう作品も書いていたのか、というものがある。ひらがなとカタカナだけで書かれた「まいごのひろば」という章(?)。そのなかから、「まいごのひろば」。

あをぞら
きょうもぼくはまいごだった
うまくママとはぐれて
うそなきをしながら
やさしくて
きれいなおねえさんがいる
まいごのひろばに
やってきた

ぼくのほかにも
たくさんのまいごがいた
なかには
せかいとほんきではぐれたがっている
おんなのこもいたりして
ぼくはただおねえさんに
あいたいだけだったので
じぶんのあさはかさを
すこしにくんだ

 この作品でも句読点が明確である。不自然な改行などはない。
 そのなかにあって、注目したいのは、二連目の「おんなのこもいたりして」という一行である。この行だけ、あいまいな感じが残る。「おんなのこもいたりして……」と「……」を補って読みたいような感じがある。断定できない。句点「。」を直接つけてしまうと、「文章」が叩ききられた感じになる。
 で、ここに注目するのは。
 実は、このあと、この作品のことばが少し「変質」するからである。「変化」するからである。「あさはか」ということばが出てくる。「あさはか」ということばをつかう「まいご(幼い子)」は、たぶんいない。
 そして、いないといえば「せかいとほんきではぐれたがっている」というこどももいない。だから、詩の「変質/変化」は「せかいと……」という一行からはじまっていると言えるかもしれないのだが、「ほんき」「はぐれる」「……したがる」は、まだこどもにも「つうじる」ことばである。
 少しずつ「変質/変化」してきたことばが、「おんなのこもいたりして」という中途半端な終わり方をして、その「あいまいさ」を跳び越えて、「あさはか」につながる。「飛躍」がある。その「飛躍」の「跳躍台」として、その一行がある。
 句点「。」で完全に切断してしまうのではなく、一行のなかにエネルギーを残しておいて、それを「飛躍」につかっている、という感じがする。
 こういうことができるのは、句読点の意識が強いからである。句読点の意識が「ことばの肉体」そのものになっているからである。
 そうやって「飛躍」したあと、その「飛躍」を利用して、さらにもう一段「飛躍」する。それが最終行の「にくんだ」。「にくむ」という動詞。この「にくむ」は「おねえさんにあいたい」というような単純な「欲望」ではない。「曲折」がある。その「曲折」の感覚を詩と呼んだりする。あるいは「抒情」とかね。で、その「曲折」に「すこし」というような修飾語がついていると、「うーん、このすこし、がいいんだよなあ。感じることができるひとだけが感じればいい、というのが詩の本質なんだよなあ」などと言って、自分の「感受性」に酔ったりするんだけれどね。読者も書き手も。
 ま、そういうことは、どうでもよくて。(よくないかもしれないけれど。)
 ともかく、私は松本の句読点意識の強さに、とても感動する。こういう強い文体意識のあることばが好きなのだ。私は古くさい人間なのだ。
 最後に。
 書き出しの「あをぞら」の「を」のつかい方。この「を」によって書き出しの一行は、さらに独立する。句点がくっきりと見える。ほかの行とは違うんだぞ、という「主張」が聞こえる。
 松本は、そういうところにも気を配っている。「文学のひと」なのだ。


環境
松本 秀文
株式会社思潮社
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