粒来哲蔵「凍蝶」(「二人」313 、2016年02月05日発行)
粒来哲蔵「凍蝶(いてちょう)」の冒頭に虚子の句が掲げられている。「凍蝶が己が魂追うて飛ぶ」。魂は蝶の肉体をぬけ出してしまっている。蝶は死んでいる。しかし、その死を自覚できずに、蝶の肉体は魂を追いかけているというのだろうか。その「蝶」のはばたきを想像するとき、「魂」も形があるように「見える」。この「魂の分離」と「肉体の接続」は、「視覚」でつかみとる「幻/錯覚」といえると思う。
この虚子の「凍蝶」と粒来の「凍蝶」はずいぶん違う。
「ふと目覚めたら鼻先で香の匂いがした。」と「視覚」とは別の世界から始まる。何の香なのか。どこから匂ってくるのか。わからない。「香はただ老いさらぼうた男の鼻先にだけ留まっているようだった。」という第一段落のあと、
えっ、と私は驚く。「凍蝶」というのは「凍った蝶」なのか? 私は「冬の蝶」の「詩的」な言い方(詩の造語)だと思っていたので、びっくりしてしまった。
なぜ「凍蝶」を、わざわざ「霜を被っていて実体は定かではない」「うっすらと蝶らしい形態を透かして見せる」という「視覚(見せる/見る)」を強調しているのだろうか。
「その匂いが鼻先から消えかかる」ということが影響しているのかもしれない。「匂い/嗅覚」が消える。そのかわりに「視覚」が世界をとらえる。
しかし「視覚」にとどまらない。「視覚」は次の瞬間、「触覚」へと動く。
「触れる」ことで「凍蝶」は、「呼称(?)/イメージ」ではなく、「実体」になる。「触覚」にも「錯覚」はあるだろうが、「視覚」よりも「直接的」である。「肉体」に結びついている。「視覚」はなんといっても対象と「離れる」ことが条件である。対象に「密着」しては「見えない」。けれど「触覚」は基本的に対象に密着して感じる、「直接」触ることで動く感覚である。「触る/触覚」が「凍蝶」というイメージを「実体」に変えるのだと思う。
この「実体」としての「凍蝶」は、「凍る蝶」であると同時に「蝶の凍った存在/蝶の氷」でもある。その「蝶の氷」に息を吹きかける。「氷」が解ける。したたる。「氷」の下から「蝶」があらわれる、という、粒来と蝶の関係が書かれたあと、第三段落、
「指を外し」(触覚)、「六肢で噛む」(触覚/噛まれていると感じる感覚)「つかむ」(触覚/つかまれる感覚)から、「斑紋を見せた」(視覚/見る)へと動き、「凍蝶」を「凍った蝶/蝶の形の氷」というイメージへもどり、飛べずに落ちる蝶は「花片の閃き」という「比喩」に結晶する。
この冬の蝶から「凍蝶」へ、「凍蝶」から「蝶の氷」、さらに「花片(の閃き)」という「比喩」の変化、ことばの「次元」の変化は、このあと、さらに大きく変わる。
粒来は蝶の「意志」を「見ている」。
これは粒来が蝶になっている、ということである。蝶になって「意志」を感じている。肉体を動かす。そのとき、その肉体を動かす「意志」がある。
「比喩」を最初の比喩とは違うものに変えていく過程で、その動きに粒来の「肉体」が重なるのである。「肉体」が重なるから、そこに「肉体」を動かす「意志」を実感してしまう。
「飛ぶ意志」は「地を掻きむしる」という「飛ぶ」とは反対の動きのなかで、いっそう「強い意志」へと変わる。
ここで、再び、私は「あっ」と声をあげてしまう。
「香はただ老いさらぼうた男の鼻先にだけ留まっているようだった。」という第一段落の「男(私)の鼻先にだけ」の、「理由」が分かったからだ。
「死の到来」の「香」なのだ。しかもそれは、その「到来」にあらがい、なお生きようとする「意志」が嗅ぎ取る「香」なのだ。「肉体の嗅覚」ではなく「意思の嗅覚」だけがつかみとった「事実/真実」なのだ。
「蝶は地上でもがきつつもなおも飛翔の形をとり続け、羽ばたいては落ち羽ばたいては落ちを繰り返した。」は蝶の「意志」がそのまま「肉体の行動」になったもの。そして、その「意志」を感じるからこそ、「その羽ばたきの度毎に香の匂いは更に激しく私の鼻をう」つのである。「意志」が「匂う」。「鼻先」と粒来は書いているが、その「鼻先」は「鼻の内部」である。他人には嗅ぎ取ることはできない、強い匂いである。
死を強く意識しながら、その死に向き合う強い意志で、ことばを書いている。詩を書いている粒来の「肉体」そのものを感じた。虚子の句よりも、何か、「肉体」をぞくっとさせるものがあると感じだ。
ここから先は、詩への感想になるのかどうか、わからないが……。
人間の感覚のなかで「嗅覚」はもっとも「原始的」な感覚だと聞いたことがある。原始的というのは根源的ということかもしれない。だから、あらゆる感覚のなかで「嗅覚」だけが最後まで死なない。視覚/聴覚/触覚などが動かなくなっても嗅覚だけは生きている、と聞いたことがある。
粒来のこの詩のなかには視覚、触覚、嗅覚が出てくる。(聴覚は出てこない。)そして、その嗅覚が、この詩のなかでいちばん重要な働きをしている。また、それは「意志」といっしょになって動いている。
そこに、私は「まだまだ死なないぞ、詩を書いてやるぞ」という粒来の「強い意志」を感じる。「新しいもの」を書いてやるぞ、と「嗅覚(いのちの根源)」を生きている粒来の「肉体」を感じる。
*
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粒来哲蔵「凍蝶(いてちょう)」の冒頭に虚子の句が掲げられている。「凍蝶が己が魂追うて飛ぶ」。魂は蝶の肉体をぬけ出してしまっている。蝶は死んでいる。しかし、その死を自覚できずに、蝶の肉体は魂を追いかけているというのだろうか。その「蝶」のはばたきを想像するとき、「魂」も形があるように「見える」。この「魂の分離」と「肉体の接続」は、「視覚」でつかみとる「幻/錯覚」といえると思う。
この虚子の「凍蝶」と粒来の「凍蝶」はずいぶん違う。
「ふと目覚めたら鼻先で香の匂いがした。」と「視覚」とは別の世界から始まる。何の香なのか。どこから匂ってくるのか。わからない。「香はただ老いさらぼうた男の鼻先にだけ留まっているようだった。」という第一段落のあと、
香の源を探しあぐねて漸くその匂いが鼻先から消えかかる頃、霜柱
を踏んで歩いていると、霜を被っていて実体は定かではないがうっす
らと蝶らしい形態を透かして見せる凍蝶を見た。
えっ、と私は驚く。「凍蝶」というのは「凍った蝶」なのか? 私は「冬の蝶」の「詩的」な言い方(詩の造語)だと思っていたので、びっくりしてしまった。
なぜ「凍蝶」を、わざわざ「霜を被っていて実体は定かではない」「うっすらと蝶らしい形態を透かして見せる」という「視覚(見せる/見る)」を強調しているのだろうか。
「その匂いが鼻先から消えかかる」ということが影響しているのかもしれない。「匂い/嗅覚」が消える。そのかわりに「視覚」が世界をとらえる。
しかし「視覚」にとどまらない。「視覚」は次の瞬間、「触覚」へと動く。
拾ってみると私の指
の触れたところだけ解けかかり、湿った翅粉が霜の径にこぼれて吸い
込まれていくようだった。
「触れる」ことで「凍蝶」は、「呼称(?)/イメージ」ではなく、「実体」になる。「触覚」にも「錯覚」はあるだろうが、「視覚」よりも「直接的」である。「肉体」に結びついている。「視覚」はなんといっても対象と「離れる」ことが条件である。対象に「密着」しては「見えない」。けれど「触覚」は基本的に対象に密着して感じる、「直接」触ることで動く感覚である。「触る/触覚」が「凍蝶」というイメージを「実体」に変えるのだと思う。
この「実体」としての「凍蝶」は、「凍る蝶」であると同時に「蝶の凍った存在/蝶の氷」でもある。その「蝶の氷」に息を吹きかける。「氷」が解ける。したたる。「氷」の下から「蝶」があらわれる、という、粒来と蝶の関係が書かれたあと、第三段落、
やがて蝶が羽ばたきを始めると、私はおそるおそる指を翅から外し
てみた。と蝶は明らかに飛ぶ気配を示し、私の掌の内側を六肢で噛む
ようにしてつかんでみせた。蝶は翅の渦巻き模様の斑紋を見せた。蝶
は飛んだ、が飛び上がり際で直ちに落ちた。それはあっけないほんの
一瞬の、花片の閃(ひらめ)きにも似たものだった。
「指を外し」(触覚)、「六肢で噛む」(触覚/噛まれていると感じる感覚)「つかむ」(触覚/つかまれる感覚)から、「斑紋を見せた」(視覚/見る)へと動き、「凍蝶」を「凍った蝶/蝶の形の氷」というイメージへもどり、飛べずに落ちる蝶は「花片の閃き」という「比喩」に結晶する。
この冬の蝶から「凍蝶」へ、「凍蝶」から「蝶の氷」、さらに「花片(の閃き)」という「比喩」の変化、ことばの「次元」の変化は、このあと、さらに大きく変わる。
蝶はそれでも再び飛ぶ意志
を示しはしたが、飛べなかった。私は落ちて地を掻きむしる蝶を見
た。
粒来は蝶の「意志」を「見ている」。
これは粒来が蝶になっている、ということである。蝶になって「意志」を感じている。肉体を動かす。そのとき、その肉体を動かす「意志」がある。
「比喩」を最初の比喩とは違うものに変えていく過程で、その動きに粒来の「肉体」が重なるのである。「肉体」が重なるから、そこに「肉体」を動かす「意志」を実感してしまう。
「飛ぶ意志」は「地を掻きむしる」という「飛ぶ」とは反対の動きのなかで、いっそう「強い意志」へと変わる。
とその時、私の鼻先で香が匂った。朝の目覚めの時遂にその源を
辿り得なかったあの香りが、崩れかかった蝶の、死の到来を確実に示
すかのように、ふいに匂い立ったのだった。
ここで、再び、私は「あっ」と声をあげてしまう。
「香はただ老いさらぼうた男の鼻先にだけ留まっているようだった。」という第一段落の「男(私)の鼻先にだけ」の、「理由」が分かったからだ。
「死の到来」の「香」なのだ。しかもそれは、その「到来」にあらがい、なお生きようとする「意志」が嗅ぎ取る「香」なのだ。「肉体の嗅覚」ではなく「意思の嗅覚」だけがつかみとった「事実/真実」なのだ。
蝶の翅に触れた私の指先
も香の匂いでまぶされた。蝶は地上でもがきつつもなおも飛翔の形を
とり続け、羽ばたいては落ち羽ばたいては落ちを繰り返した。その羽
ばたきの度毎に香の匂いは更に激しく私の鼻をうった。見ているうち
に蝶は朝霜の融けかけの径を転がるようにして遠離かり、やがて湧き
上がった靄の中に消えていった。
「蝶は地上でもがきつつもなおも飛翔の形をとり続け、羽ばたいては落ち羽ばたいては落ちを繰り返した。」は蝶の「意志」がそのまま「肉体の行動」になったもの。そして、その「意志」を感じるからこそ、「その羽ばたきの度毎に香の匂いは更に激しく私の鼻をう」つのである。「意志」が「匂う」。「鼻先」と粒来は書いているが、その「鼻先」は「鼻の内部」である。他人には嗅ぎ取ることはできない、強い匂いである。
死を強く意識しながら、その死に向き合う強い意志で、ことばを書いている。詩を書いている粒来の「肉体」そのものを感じた。虚子の句よりも、何か、「肉体」をぞくっとさせるものがあると感じだ。
ここから先は、詩への感想になるのかどうか、わからないが……。
人間の感覚のなかで「嗅覚」はもっとも「原始的」な感覚だと聞いたことがある。原始的というのは根源的ということかもしれない。だから、あらゆる感覚のなかで「嗅覚」だけが最後まで死なない。視覚/聴覚/触覚などが動かなくなっても嗅覚だけは生きている、と聞いたことがある。
粒来のこの詩のなかには視覚、触覚、嗅覚が出てくる。(聴覚は出てこない。)そして、その嗅覚が、この詩のなかでいちばん重要な働きをしている。また、それは「意志」といっしょになって動いている。
そこに、私は「まだまだ死なないぞ、詩を書いてやるぞ」という粒来の「強い意志」を感じる。「新しいもの」を書いてやるぞ、と「嗅覚(いのちの根源)」を生きている粒来の「肉体」を感じる。
蛾を吐く―詩集 | |
粒来哲蔵 | |
花神社 |
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