詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金澤一志「これ、ナイアガラ」

2016-02-21 15:06:44 | 詩(雑誌・同人誌)
金澤一志「これ、ナイアガラ」(「issue」3、2016年02月01日発行)

 金澤一志「これ、ナイアガラ」はかっこ( )のつかい方がおもしろい。

(足が床につく)ひさしぶりに自分の体重を。
(まとわりつく)重い空気が渦を巻きながら。
(ふりかえる)暗がりのなかで線を。毛布のエスキースが。
(木の床は冷たい)まったく上下動を。湖面をすべる船のように。

 かっこのなかをどう読むか--私は「ぼく(あとで出てくる)」の実際の「肉体」の動き、行動と読んだ。(足が床につく)という文では、「足」が「主語」、「つく」が「述語/動詞」という形式をとっているが、現実的には「ぼく」が「主語」であり、「ぼく」が足を動かし、その足を床につける、ということだと思う。
 かっこの外の「ひさしぶりに自分の体重を。」は「足を(床に)つく」という「動詞」を別のことばで言い直したものだろう。「足」とは「自分の体重」のことであり、「足を床について」、自分の「体重」を「感じる」ということを言い直したものだろう。「肉体」の動きを、「肉体」以外のもので言い直しているのだと思って読んだ。
 かっこのなかにくくられることばというのは、一般的に、「主語」が思ったこと(ことばとして発せられなかった思い)が書かれることが多いと思うが、金澤は逆のつかい方をしている。かっこのなかが実際の行動。外から見える(?)ことがら。そして、それにつづくかっこの外の方が「感じたこと/思ったこと」のように思える。
 (まとわりつく)というのは、「現実」である。何が「ぼくに/ぼくの肉体に」まとわりつくと思ったのか、感じたのか。「重い空気が渦を巻きながら」まとわりつく。そのまとわりついてくる目に見えないもの、「感じ」。
 「重い空気が渦を巻く」というのが「現実」であり、それが「まとわりつく」というのが「感じ」というとらえ方もあると思うが、「重い空気」というのは「比喩」である。「比喩」は実際には、そこには存在しない。「意識」のなかに存在する。
 (まとわりつく)は「肉体」に対する動き。「重い空気」は「比喩」として「精神」を動かしている。「空気」なんて、「重い」はずがない。けれども、そう「感じる」。「肉体」が感じるのではなく「精神/感覚」、いわゆる「肉体」の「内部」にあって、見えないものが「感じる」。
 ここから逆に、かっこ内を「肉体が肉体にまとわりつく」という具合に「肉体」ということばを補って読み直すこともできる。「肉体」を自在に動かせないのは「重い空気」がまとわりつくからではなく、現実には「肉体の部位」に「他の肉体の部位」が「まとわりつく」のだが、それを「肉体以外のもの」、つまり「重い空気」と言い直すことで世界をととのえていると、読むことができる。
 一行目にもどって、「自分の体重を/(感じる)」のは「肉体」か「精神/感覚」か。むずかしいが「感じる」のだから「感覚」だと、私は仮定するのである。「まとわりつく肉体の部位」を「重い空気」と言い換えることで世界をととのえたように、「足」というものを「体重/重さ」ととらえなおすことで、金澤は、いま向き合っている世界ととのえなおしていると感じるのである。
 かっこの外は、「精神/感覚」が世界をととのえなおすときに動いていることばなのだ、と感じてしまう。
 三行目の(ふりかえる)は「ぼく(ぼくの肉体)」がふりかえる。そうすると「暗がりのなかで線を」感じる。その「線」とは何か。「毛布のエスキース」の「線」。毛布が乱れている。そのときの乱れの「線」を「エスキース」と呼んでるのか、よくわからないが、その「エスキース/線」とともに「比喩」である。そこには存在しない。「精神/感覚」がそこにあるものを「線/エスキース」と呼ぶときにはじめてあらわれてくるものである。
 かっこのなかに書かれているのは「現実」。かっこの外に書かれているのは、ことばにすること、「比喩」にすることによって、はじめて「あらわれてくる」存在。「気持ち/精神/感覚」であるように、私には感じられる。一行目の「体重(重さ)」、二行目の「重い空気」は、世界をととのえなおしたもの。「重さ/重い」ということばによって、世界がはじめて明確になったように感じられる。世界というものが「重さ/重い」ということばをとうして、はじめて明確にあらわれてくるように感じられる。「ことば」が世界に「輪郭」をあたえ、世界を生み出す--そういう感じ。
 特に四行目にそういうことばの動きを感じる。
 (木の床は冷たい)は「現実」。もちろん、その冷たさは「肉体」が「感じる」ものだが、「肉体」が「感じる」と「精神/感覚」が「感じる」では、少し事情が違う。「肉体」が「感じる」冷たさは、温度計で測ることができる。「精神/感覚」で「感じる」冷たさは計測できない。その「精神/感覚」がつかみ取る、計測できない「冷たさ」が「比喩」によって明確な形で存在として生み出される。
 「床」は「湖面(冷たい水)」という比喩になって動きはじめ、「湖面」が「船」という比喩を生み出し、それが「湖面をすべる船のように」「まったく上下動を」しない、という形に結晶する。「名詞」としての「比喩」ではなく「運動」を含んだ「比喩」になる。
 ここでことばの順序がいわゆる「倒置法」のようになっているのは、「感覚/精神」というものは、「肉体」のように動く順序がきまっていないからかもしれない。もしかすると、「先取り」してしまうのが「感覚/精神」というのものかもしれない。
 何かを感じるから「比喩」がうまれるのではない。「比喩」が先にやってきて「感覚/精神」を生み出す(つくりだす)のかもしれない。
 そんなことを思ってしまう。

 ちょっと省略して、二連目。

ぼくには間が持てないときに数字をかぞえるという奇妙な習慣がある。
目を覚ましたのは部屋に忍びこんできた冷気のせいだ。

 これは「現実」の「描写」のように読むことができる。いや、「現実の描写」として受け取った方がいいのかもしれないのだが。(小説などでは、ごく一般的にこういう描写をすると思う。)
 だが私は、そうは読まない。
 「習慣がある」というのは「精神」が「認定」していることである。「ぼくには間が持てないときに数字をかぞえる」というのが「事実」であるとしても、それを「習慣」と呼ぶのは「肉体」ではない。「精神」が、そう定義するのである。「精神」が存在しなければ「習慣である」という「認定/判断」はありえない。「奇妙な」という「評価」もありえない。だから、これは「精神」がとらえた世界(認識)である。
 「目を覚ましたのは部屋に忍びこんできた冷気のせいだ」という「認定/判断」も「精神/頭脳」が動かしていることばである。「現実」には「ぼくは目を覚ました」という事実と、部屋の空気が冷たいという事実があるだけである。後者の事実を「部屋に冷気が忍びこんできた」と書くとき、その「忍びこむ」もまた「比喩」である。
 で、そういう、一見「事実」を書いているように装った文章のあとに……。

(そう遠くないところから)電子音がかすかに(部屋のなか)(すぐそば)(耳の近くで)唸っている。(低温の魅力)部屋の四方から冷たい空気が這って、滑って、にじり寄ってくるのを(耳が)感じ取る。音がない。(音がする)

 ここで、私は、唸ってしまった。
 この部分で、かっこのなかと、かっこの外のことを真剣に考えはじめ、書き出しに戻ったというのが、「時系列」的には正しいのだが……。
 (低温の魅力)は、ちょっと説明がむずかしいが、「肉体」が直接感じる「冷たさ」(覚醒/目覚めを引き起こした力)ととらえればいいのかもしれない。
 そのほかの、(そう遠くないところから)(部屋のなかで)(すぐそば)(耳の近くで)(耳が)というのは、断片的で、「文章」になっていない。「状況」が漠然としている。漠然としているが、その「中心」に「肉体」がある。「耳」という「肉体」が「中心」にあって、そのまわりにことばが動いている。これが、あ、かっこのなかは「肉体」を描いているのだという印象を引き起こすのである。「事実/肉体」があるとしたら、断片として書かれているかっこのなかにしかない。それは「ことば以前」の、つまり「未分節」の「肉体」なのである。
 この「未分節の肉体」をととのえるために、電子音を「かすか」と「感じる」精神/感覚が動く。それを「唸っている」という「比喩」にしてしまう精神/感覚。それから冷たい空気が「這って」「滑って」「にじり寄る」という「比喩」にしてしまう精神/感覚。空気(冷気)は動くだろうが、その動きを「這って」「滑って」「にじり寄る」と呼ぶのは精神/感覚である。
 音がかすかに唸っている、と一方で書き、つぎに「音がない」と矛盾する「精神/感覚」。「精神/感覚」というのは、「嘘」をつくものなのである。「比喩」をつくり出してしまうものなのである。「肉体」はきちんと(音がする)と「現実」をとらえているが、「精神/比喩」はそれを裏切って動く。

 ここには説明することが不可能な何か、かなり面倒な動きがあるのだが。
 ここから、ぱっと飛躍して。(私は目が悪いので、長い間書けないので、省略/飛躍してことばを動かしてしまう。)

(窓を開ける呪文)
このときを待っていた白い、白い、つめたい、開いた窓から室内に、床に衝突した気体は大きく跳ねあがったあと、放心してゆっくり落ちていく。(これ、ナイアガラ)

 と、ここにタイトルの「これ、ナイアガラ」が出てくる。
 でも、それって「ほんとう」のナイアガラ? 違うね。「比喩」だね。
 そうすると、私が書いてきたこれまでのことは、無効になる。かっこのなかこそ「比喩」であって、かっこの外は「現実の描写」にならないか。
 そうではない、と私は思う。
 この「ナイアガラ」は「精神/感覚」がつかんだ「比喩」ではない。「肉体」がつかみとった「比喩/直接性」なのだ。このとき金澤の「肉体」は「ナイアガラ」になっている。
 で、ここで「肉体」が「ナイアガラ」になってしまったために、ここから詩は、逆になる。かっこの内と外が、ふつうの(?)作品のようになっていくのだが、この転換点までのことばの動かし方がていねいなので、うーん、おもしろい。何度も読み返してしまう。
 「比喩」が後退したあと、36ページの「19、20と数える」で終わった方が刺戟的だが、これは私の「誤読」であって、金澤は後半をこそ書きたかったのかもしれないのだが、私は「わがままな読者」なので、好き勝手なところで読むのを終えて、また最初から読み直したりするのである。

 「肉体の直接性としての比喩」というものについて考える手がかり、補助線のようなものがこの金澤の作品(ことば)のなかにあるのだが、目が痛くなったので、もう考えられない。

 もちろん私の読み方とは逆の読み方もできるし、逆にも読んでみないといけないのだ。どちらが肉体、どちらが精神/感覚と断定するのではなく、瞬間瞬間に、そのふたつのあり方を入れ替え、断定しないで読むというのが正しいのかもしれない。あらゆる断定を拒否し、「断定」を内部から解放しながら読むと、金澤のことばの世界はいきいきと動き出すに違いない。
 その「いきいきとした動き」にたどり着くために、私は、一方の読み方をしてみたということである。
 私は「精神」とか「こころ」とか呼ばれているものを存在するとは考えていない。存在するものは「肉体」だけだと考えている。その「肉体」が「床」からはじまり、「部屋」のなかを動いていたはずなのに、もし、「肉体」が何かになるとしたら、せいぜいが窓から振り込む「雨」になるくらいが「現実的」なのに、遠くかけ離れた「ナイアガラ(滝)」になってしまう、その飛躍する「肉体」の力に、ぎゃっと叫び、飛び上がって興奮する。「肉体」と「精神/感覚」と仮定した何かの運動の果て、あることを「ことば」にするという運動をくりかえしたあと、「肉体」は突然、遠く離れた「ナイアガラ」という「肉体」を呼び寄せ、同化する。その過激さに、あ、「ナイアガラになってみたい」と思うのである。


北園克衛の詩
金澤 一志
思潮社

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