佐藤裕子「何処かでお会いしませんでしたか」(「YOCOROCO」6、2016年02月18日発行)
佐藤裕子「何処かでお会いしませんでしたか」は、佐藤の定型連作。一行の文字数がそろっている。
文字数をそろえるには、どこかで無理をしないといけない。一行目。無理してととのえた部分を自然な(?)形にすると、これは、たとえば、
であり、
であり、さらに
かもしれない。
で、こうやって私が自然だと感じる形に合うように、無意識のうちにことばを補っていると、「歩き出す」の「主語」が「未開封パズル」であるにもかかわらず、ちょっと逆のことも考えるのである。無意識に別なものが動くのである。
「雨曝し日座晒し」ということばは「未開封パズル」を修飾しているが、その「未開封パズル」が雨曝し、日晒しであるということは古書店そのものが雨曝し、日晒しであるということでもあり、その全体が「殺風景」そのものにも見えてきて、もしかすると「殺風景」が「主語」? そういう感じになる。
そして、「殺風景が未開封パズルを歩き出す」と読んでみたい感じになる。
雨曝し、日晒しの「未開封パズル」は、そのまま雨曝し、日晒しの「古書店」に変わってしまうのは、封印された(?)古書店/客の来ない古書店というたたずまいを私は何処かで見ているからかもしれない。路地の古書店は、たいてい「殺風景」である。
このとき「殺風景」とは「古書店を殺風景」と感じる「ひと」と読み直してみる必要もなると思う。「殺風景」それ自体は「人間」のように動かない。つまり「歩き出す」ということはない。また、「殺風景」というのは「客観的」に存在するというよりも、ある状況を「殺風景」と感じる人間が、それを「殺風景」にするのだから。
その「殺風景」なもの(古書店を殺風景と感じるひと)が歩き出す。どこを? 「古書店」という「未開封のパズル」を歩き出す。これはもちろん「未開封のパズル」がそのものとして存在するということではない。「古書店」を「未開封のパズル」と認識するひとが、「古書店」から「未開封のパズル」へと状況を変えながら歩くということでもあだろう。
そんなふうに佐藤は書いていないのだが、私は、そんな具合に「入れ子細工」としてことばを読んでしまう。文字数をととのえるためにかかっている奇妙な圧力が、ことばの「入れ替え」(読み替え)を誘うのである。
二行目の、
の「遠ざかり」と「近付き」は正反対のことばであるにもかかわらず、結局「同じこと」、入れ替え可能、読み替え可能の反復である。入れ替わることで「入れ子細工」を複雑、そして堅牢にする。そして、それがそのまま
ということばにつながっていく。「廻る」という動詞と同時に「一」が、たぶんキーワードなのだ。そこにあるものは、結局「ひとつ」。この「ひとつ」はすぐに「同じ」ということばで言い直されている。
「一廻り」してしまえば、そこで見る風景は最初の風景だから「同じ」であるのは当然なのだが、そのことを奇妙に感じるのは「一廻り」の過程でも、すべてが「同じ/入れ替え可能/読み替え可能」だからだろう。
違うはずのものが「同じ」、違いが識別できない。それが「方角を狂わせる」、つまり方角を見失わせる。あらゆる方角が「ひとつ/同じ」になる。
あ、このとき「主語」は何? 二行目の「主語」は何? 一行目を引き継いで「殺風景」? それとも「未開封パズル」?
「目指す塔」だね。「塔」はきっと閉ざされている。「未開封」であり、未開封であるがゆえに「内部」は「殺風景」。「塔」は「未開封のパズル」の比喩であり、同時に「古書店」が「塔」の比喩かもしれない。これも、入れ替え可能なのだ。いや、入れ替え可能というよりも、積極的に入れ替えて、「主語」を固定しないということが、大事なのだ。
ちょっと飛躍してしまうが、「固定」されるのは一行の「文字数」である。それ以外は「固定」を拒んで、常に動いているのだ。
三行目は、その入れ替わりが、さらに激しくなる。
ここでは「主語」は誰だろう。何だろう。
一行目、二行目では明確にされていなかった「歩くひと」は「旅行者」という形になっているように、私には感じられる。でも、三行目の「主語」ではない。
三行目の「主語」は「住人」であり、その「住人」は「旅行者」に「道順を示す」。「古書店の店主」が「住人」であり、「客」が「旅行者」かもしれない。
そして、その「住人」を「主語」と仮定したとき、そのあとにつづく「嘔吐きを揮発させる」という動詞は誰の「述語」なのか。「住人」か「旅行者」か。どちらとも読むことができる。「未開封のパズル」としての「古書店」、「古書店」としての「未開封のパズル」の内部で方角を狂わせ、迷ってしまった「旅行者」と私は読みたいのだが、そのことばの直後の、
このことばが、すべてをひっくりかえして「主語」になろうとしているようにも思える。「診察室臭」という名詞(?)で終わっているということは、この一行はいわゆる「倒置法」になるのかもしれない。でも「倒置法」ではない一行にすると、どうなる?
うまく文章になってくれない。簡単に文章になってくれない。だいたい「揮発させる」という動詞が耳慣れなくて、肉体がぞくっと震えてしまう。嘔吐の鋭い臭いが強調され、そこに起きていることを直視できなくなる。直視すること、明確に識別すること、認識することを無意識が拒絶してしまう。
ことばが交錯し、動き回り、意味が特定されること、固定されることを拒絶する。「主語」と「修飾節」が入り乱れる。「名詞」が「動詞」になり、動き回る。たとえば「診察室臭」の「臭」は「臭い」であるだけではなく、「臭う」という「動詞」である。(「未開封パズル」は「未開封のパズル」であると同時に「パズル」を開かない/「パズル」を閉ざすであるのと同じだ。)
あらゆることばが、他のことばを刺戟し、突き動かす。その「突き動かし」のつながりが、「固定された」一行のなかで「固定」を偽装する。
「何処かでお会いしませんでしたか」というタイトルは、二連目の最後に、
という形で存在しているのだが、この「何処かで会ったかもしれない」という「過去」の感覚が「いま」に「戻る」という感じ。「過去」にもどるのではなく、「過去」が「いま」へよみがえるのを「戻る」と言い直す矛盾(?)した動き、「還流」のような動きが延々とつづき、何が書いてあるのかわからない。ただ一行の長さだけが「固定」されて世界を装っているというところに、不思議な「エネルギー」の不穏なものを感じるのである。それに引きつけられる。
*
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佐藤裕子「何処かでお会いしませんでしたか」は、佐藤の定型連作。一行の文字数がそろっている。
古書店の軒先から雨曝し日晒し未開封パズルが殺風景を歩き出す
目指す塔は遠ざかり近付き一廻りしても同じ外観で方角を狂わせ
旅行者に親切な住人が道順を示す度嘔吐きを揮発させる診察室臭
文字数をそろえるには、どこかで無理をしないといけない。一行目。無理してととのえた部分を自然な(?)形にすると、これは、たとえば、
古書店の軒先から雨曝し(になった)日晒し(になった)未開封(の)パズルが殺風景を歩き出す
であり、
古書店の軒先から雨(に)曝(され)日(に)晒(された)未開封(の)パズルが殺風景を歩き出す
であり、さらに
古書店の軒先(におかれていた)未開封(の)パズルが雨(に)曝され日(に)晒され(たあげく/たあと)殺風景を歩き出す
かもしれない。
で、こうやって私が自然だと感じる形に合うように、無意識のうちにことばを補っていると、「歩き出す」の「主語」が「未開封パズル」であるにもかかわらず、ちょっと逆のことも考えるのである。無意識に別なものが動くのである。
「雨曝し日座晒し」ということばは「未開封パズル」を修飾しているが、その「未開封パズル」が雨曝し、日晒しであるということは古書店そのものが雨曝し、日晒しであるということでもあり、その全体が「殺風景」そのものにも見えてきて、もしかすると「殺風景」が「主語」? そういう感じになる。
そして、「殺風景が未開封パズルを歩き出す」と読んでみたい感じになる。
雨曝し、日晒しの「未開封パズル」は、そのまま雨曝し、日晒しの「古書店」に変わってしまうのは、封印された(?)古書店/客の来ない古書店というたたずまいを私は何処かで見ているからかもしれない。路地の古書店は、たいてい「殺風景」である。
このとき「殺風景」とは「古書店を殺風景」と感じる「ひと」と読み直してみる必要もなると思う。「殺風景」それ自体は「人間」のように動かない。つまり「歩き出す」ということはない。また、「殺風景」というのは「客観的」に存在するというよりも、ある状況を「殺風景」と感じる人間が、それを「殺風景」にするのだから。
その「殺風景」なもの(古書店を殺風景と感じるひと)が歩き出す。どこを? 「古書店」という「未開封のパズル」を歩き出す。これはもちろん「未開封のパズル」がそのものとして存在するということではない。「古書店」を「未開封のパズル」と認識するひとが、「古書店」から「未開封のパズル」へと状況を変えながら歩くということでもあだろう。
そんなふうに佐藤は書いていないのだが、私は、そんな具合に「入れ子細工」としてことばを読んでしまう。文字数をととのえるためにかかっている奇妙な圧力が、ことばの「入れ替え」(読み替え)を誘うのである。
二行目の、
目指す塔は遠ざかり近付き
の「遠ざかり」と「近付き」は正反対のことばであるにもかかわらず、結局「同じこと」、入れ替え可能、読み替え可能の反復である。入れ替わることで「入れ子細工」を複雑、そして堅牢にする。そして、それがそのまま
一廻り
ということばにつながっていく。「廻る」という動詞と同時に「一」が、たぶんキーワードなのだ。そこにあるものは、結局「ひとつ」。この「ひとつ」はすぐに「同じ」ということばで言い直されている。
「一廻り」してしまえば、そこで見る風景は最初の風景だから「同じ」であるのは当然なのだが、そのことを奇妙に感じるのは「一廻り」の過程でも、すべてが「同じ/入れ替え可能/読み替え可能」だからだろう。
違うはずのものが「同じ」、違いが識別できない。それが「方角を狂わせる」、つまり方角を見失わせる。あらゆる方角が「ひとつ/同じ」になる。
あ、このとき「主語」は何? 二行目の「主語」は何? 一行目を引き継いで「殺風景」? それとも「未開封パズル」?
「目指す塔」だね。「塔」はきっと閉ざされている。「未開封」であり、未開封であるがゆえに「内部」は「殺風景」。「塔」は「未開封のパズル」の比喩であり、同時に「古書店」が「塔」の比喩かもしれない。これも、入れ替え可能なのだ。いや、入れ替え可能というよりも、積極的に入れ替えて、「主語」を固定しないということが、大事なのだ。
ちょっと飛躍してしまうが、「固定」されるのは一行の「文字数」である。それ以外は「固定」を拒んで、常に動いているのだ。
三行目は、その入れ替わりが、さらに激しくなる。
旅行者に親切な住人が道順を示す度嘔吐きを揮発させる診察室臭
ここでは「主語」は誰だろう。何だろう。
一行目、二行目では明確にされていなかった「歩くひと」は「旅行者」という形になっているように、私には感じられる。でも、三行目の「主語」ではない。
三行目の「主語」は「住人」であり、その「住人」は「旅行者」に「道順を示す」。「古書店の店主」が「住人」であり、「客」が「旅行者」かもしれない。
そして、その「住人」を「主語」と仮定したとき、そのあとにつづく「嘔吐きを揮発させる」という動詞は誰の「述語」なのか。「住人」か「旅行者」か。どちらとも読むことができる。「未開封のパズル」としての「古書店」、「古書店」としての「未開封のパズル」の内部で方角を狂わせ、迷ってしまった「旅行者」と私は読みたいのだが、そのことばの直後の、
診察室臭
このことばが、すべてをひっくりかえして「主語」になろうとしているようにも思える。「診察室臭」という名詞(?)で終わっているということは、この一行はいわゆる「倒置法」になるのかもしれない。でも「倒置法」ではない一行にすると、どうなる?
親切な住人が旅行者に道順を示す度に、診察室の臭いが旅行者に嘔吐きを揮発させる
うまく文章になってくれない。簡単に文章になってくれない。だいたい「揮発させる」という動詞が耳慣れなくて、肉体がぞくっと震えてしまう。嘔吐の鋭い臭いが強調され、そこに起きていることを直視できなくなる。直視すること、明確に識別すること、認識することを無意識が拒絶してしまう。
ことばが交錯し、動き回り、意味が特定されること、固定されることを拒絶する。「主語」と「修飾節」が入り乱れる。「名詞」が「動詞」になり、動き回る。たとえば「診察室臭」の「臭」は「臭い」であるだけではなく、「臭う」という「動詞」である。(「未開封パズル」は「未開封のパズル」であると同時に「パズル」を開かない/「パズル」を閉ざすであるのと同じだ。)
あらゆることばが、他のことばを刺戟し、突き動かす。その「突き動かし」のつながりが、「固定された」一行のなかで「固定」を偽装する。
「何処かでお会いしませんでしたか」というタイトルは、二連目の最後に、
陽と闇の斜線で醸す地熱が戻り何処かでお会いしませんでしたか
という形で存在しているのだが、この「何処かで会ったかもしれない」という「過去」の感覚が「いま」に「戻る」という感じ。「過去」にもどるのではなく、「過去」が「いま」へよみがえるのを「戻る」と言い直す矛盾(?)した動き、「還流」のような動きが延々とつづき、何が書いてあるのかわからない。ただ一行の長さだけが「固定」されて世界を装っているというところに、不思議な「エネルギー」の不穏なものを感じるのである。それに引きつけられる。
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