早矢仕典子「膝頭」ほか(「no-no-me」24、2016年02月10日発行)
早矢仕典子「膝頭」は、よくわからない。
その田を越えて「お堂」へ行く。読経がつづいている。
一連目の「冷気」が「ひんやりとした」ということばになって「如来/菩薩(ふたつは違うものかもしれないが、私には区別がつかない)」と通い合ったあと、菩薩の描写のあとに、突然「米」ということばが出てくる。一連目にあった「つよい米の匂いがする」の「米」である。
そして、この「米」は「力が籠もる」「ぎっしりと 詰まっている」を言い直したものである。「力が籠もる」「(力が)詰まっている」。この「動詞」の「比喩」が「米」なのだと思う。「存在(もの)」を言い換えたのではなく、「ものの内部の状態/動き」を「米」と言い換えている。
--というのは、私の「感覚の意見」、あるいは「直観」というもので、うまく説明できないのだが……。
「米」とはたしかにただの「実り」ではない。「米」には「力」がある。そして、その力は「自然」の力であると同時に、それを育ててきた「人間」の力である。「祈り」という「名詞」を「動詞」にして言い換えると「祈る」だが、この「祈る」を別の「動詞」をつかって「比喩」にして語るなら、やっぱり「力(思い)が籠もる/力(思い)を籠める」「力(思い)を(ぎっしり)詰める」ということだろうなあ。ひとは、自分の「祈り」のすべて、「力」のすべてを籠めて、「米」をつくる。「米」は百姓のいのちである。
私は貧乏百姓のこどもなので、そんなことを思った。田を耕し、種籾を蒔き、苗を植え、稲を育て、米を実らせる。刈り取る。米のなかには、時間(暮らし/思い/思想)が詰まっている。そういう「籠められた力(思い)」のようなものを、早矢仕は「菩薩」に見ている。「菩薩」の「腿」と「膝」に見ている。「肉体」に見ている。
それは、さらに言い直されている。
うーん、と私は唸る。
そうか、菩薩の「膝頭」には、これから人間を救いにいこうとするときの力が籠もっているのか、動き出そうとしているのか。
私は菩薩の「膝頭」を思い出すことができないけれど、そうだったのか、と納得してしまう。
「祈り」は豊作への感謝の祈りではなく、凶作の苦しみから救ってくださいという祈りなのかもしれない。「虫食い」とか「落ち葉」がそういうことを想像させる。
よくわからないが、わからないのだから私の読み方は「誤読」なのだろうが、「米」という「名詞」のなかに「力がこもる」「(力が)ぎっしりと 詰まっている」という「動詞」の「比喩」があると感じ、またその「比喩」のなかに農民の暮らしの時間が反映されていると感じた。それが「菩薩」の「膝頭」に結晶していると感じた。
「米」が出てくる詩が、もう一篇ある。「氾濫する」というタイトル。母が台所で泣いているのを見たときの詩である。泣いている母を「台所」に「降りしきる雨」という比喩の形で書いたあと、
「せせらぎ」は母の涙。それが「小さな」流れではなく、川になり、濁流になる。それは炊飯器のなかの「ご飯粒」まで台無しにする。
「米」のあたたかさ、美しさは、そのまま「母」の喜び、美しさなのだろう。そういうものが「詰まっている」「籠もっている」のが「ご飯」なのだ。
そういうことを感じさせる。
台所が傾き「冷蔵庫/米櫃/食料棚/瓦斯コンロ」が「一列に並び」流れていくという描写の「一列」には、母が「台所」を「統一している」という「動詞」がひそんでいる。「一つ」にする力が籠もっていて、それが「一列」になるのだろう。
「米」は「ご飯」の言い換えではなく、きっと「いのち」の言い換えである。
早矢仕典子「膝頭」は、よくわからない。
この道を行くと
田の方から 冷気が
つよい米の匂いがする
どこの田も もう刈り入れは終わっているというのに
ここだけに
その田を越えて「お堂」へ行く。読経がつづいている。
ひんやりしとした眼の 如来
その両脇には 大和坐りの菩薩像
どんな祈りが 捧げられているのか
菩薩の腰が
わずかに浮く
両の腿に 膝に 力が籠もる
ぎっしりと 詰まっている
それもまた 米 なのか
一連目の「冷気」が「ひんやりとした」ということばになって「如来/菩薩(ふたつは違うものかもしれないが、私には区別がつかない)」と通い合ったあと、菩薩の描写のあとに、突然「米」ということばが出てくる。一連目にあった「つよい米の匂いがする」の「米」である。
そして、この「米」は「力が籠もる」「ぎっしりと 詰まっている」を言い直したものである。「力が籠もる」「(力が)詰まっている」。この「動詞」の「比喩」が「米」なのだと思う。「存在(もの)」を言い換えたのではなく、「ものの内部の状態/動き」を「米」と言い換えている。
--というのは、私の「感覚の意見」、あるいは「直観」というもので、うまく説明できないのだが……。
「米」とはたしかにただの「実り」ではない。「米」には「力」がある。そして、その力は「自然」の力であると同時に、それを育ててきた「人間」の力である。「祈り」という「名詞」を「動詞」にして言い換えると「祈る」だが、この「祈る」を別の「動詞」をつかって「比喩」にして語るなら、やっぱり「力(思い)が籠もる/力(思い)を籠める」「力(思い)を(ぎっしり)詰める」ということだろうなあ。ひとは、自分の「祈り」のすべて、「力」のすべてを籠めて、「米」をつくる。「米」は百姓のいのちである。
私は貧乏百姓のこどもなので、そんなことを思った。田を耕し、種籾を蒔き、苗を植え、稲を育て、米を実らせる。刈り取る。米のなかには、時間(暮らし/思い/思想)が詰まっている。そういう「籠められた力(思い)」のようなものを、早矢仕は「菩薩」に見ている。「菩薩」の「腿」と「膝」に見ている。「肉体」に見ている。
それは、さらに言い直されている。
ここにタイトルの「膝頭」が出てくるのだが。
何時いかなるときも 速やかに
衆生の掬いに向かうための 肉付きのいい
膝頭
うーん、と私は唸る。
そうか、菩薩の「膝頭」には、これから人間を救いにいこうとするときの力が籠もっているのか、動き出そうとしているのか。
私は菩薩の「膝頭」を思い出すことができないけれど、そうだったのか、と納得してしまう。
私たちは
どんな処へふたたび 解放されていこうとしているのか
ひたすらに
祈りが捧げられている
行方知れずの風が むざんにも吹き抜けていった
段々の上に
虫食いの
落ち葉いち枚 無為にほどかれて
「祈り」は豊作への感謝の祈りではなく、凶作の苦しみから救ってくださいという祈りなのかもしれない。「虫食い」とか「落ち葉」がそういうことを想像させる。
よくわからないが、わからないのだから私の読み方は「誤読」なのだろうが、「米」という「名詞」のなかに「力がこもる」「(力が)ぎっしりと 詰まっている」という「動詞」の「比喩」があると感じ、またその「比喩」のなかに農民の暮らしの時間が反映されていると感じた。それが「菩薩」の「膝頭」に結晶していると感じた。
「米」が出てくる詩が、もう一篇ある。「氾濫する」というタイトル。母が台所で泣いているのを見たときの詩である。泣いている母を「台所」に「降りしきる雨」という比喩の形で書いたあと、
ある朝
ついに台所は はげしく傾いて
冷蔵庫
米櫃
食料棚
瓦斯コンロ
と 一列に並び
その下には 川が流れ
昨日まで
小さなせせらぎ と思っていたものが
急激に水嵩を増し 濁流となり
うねり せり上がり
手のつけられないような
氾濫をはじめ
せめて
炊飯器でも と
フタを開けたら
その中も 容赦なく泥水があふれ
そのとき手は
ご飯粒ひとつ
掬うことが出来ないのでした
「せせらぎ」は母の涙。それが「小さな」流れではなく、川になり、濁流になる。それは炊飯器のなかの「ご飯粒」まで台無しにする。
「米」のあたたかさ、美しさは、そのまま「母」の喜び、美しさなのだろう。そういうものが「詰まっている」「籠もっている」のが「ご飯」なのだ。
そういうことを感じさせる。
台所が傾き「冷蔵庫/米櫃/食料棚/瓦斯コンロ」が「一列に並び」流れていくという描写の「一列」には、母が「台所」を「統一している」という「動詞」がひそんでいる。「一つ」にする力が籠もっていて、それが「一列」になるのだろう。
「米」は「ご飯」の言い換えではなく、きっと「いのち」の言い換えである。
詩集 空、ノーシーズン―早矢仕典子詩集 | |
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