陶山エリ「無言」(現代詩講座@リードカフェ、2016年02月17日)
陶山エリ「無言」は、いつもとは少しスタイルの違った詩。一行がずるずると長く、途中でねじれることがない。ふつうの(?)詩のように行わけになっている。
いろいろな感想が出たが、一連目二行目の「だから」は必要だろうか、という意見と、ことばの動きが論理的という指摘は、重なる部分があると思う。「だから」ということばを必要ととしているのは「論理」を必要としているということだろう。
男に会えない、報われないという空しさが、何かをもとめている。「論理」のなかにたしかさをもとめているということになるかもしれない。
で。
私は、その「論理」が色濃く出た一連目が、実は好きではない。
椿が首から落ちるというのは、椿の花の描写の「定型」。それが陶山のほんとうに見た風景であっても「首から落ちる」という「定型」をつかった瞬間に、「文学」になってしまう。「歴史」に吸収されてしまい、個性が消えてしまう恐れがある。
「無言」をただ黙っているではなく「いい残して」と言い直しており、その「いい残す」という言い方が魅力的だけに、特に、そう感じる。「いい残した」ことはばを内に秘めている。それが「無言」というのは、強い表現だ。
そして、その「無言」を「肉厚に育った」と押し進めていくのも、とてもいい。「ことば/いい残し」が少しずつ多くなる感じ、大きくなって、自己を突き破る感じがする。
だからこそ、椿の「首からごろんと落ちる」の「首から」が気になる。
「首から」がなかったら、陶山が発見したものがもっと強い形で出てくるのではないかと思った。
二連目が、私はとても気に入っている。
三連構成で、それぞれの連がそれだけで一篇の詩になると思うが、特に二連目がおもしろいと感じる。これは、一連目の「椿が首から落ちる」という「定型」を読んだ反動かもしれない。「定型」を読んだあと、「定型」ではないものを読むと、それがよりあざやかに見えるということかもしれないのだが……。
コンビニのおでんの容器が軽い。これは、誰もが知っていることだ。誰もが知っていることだが、それをことばにするということは、まだ誰もしていないのではないだろうか。それがおもしろい。
誰も書いていないから、それをことばにするとき、どうしても自分の「肉体」をとおして語らないといけない。
「飲み干す」という動詞があり、「乾いた指」という陶山自身の「肉体」がある。そこに「からころん」という「音」が入り込む。
容器の軽さ(測定可能な重さ)は「からころん」という測定できない「音の重さ」にかわる。音の「響き」の軽さだけではなく、測ることができないという「軽さ」が、おもしろい。
このとき、きっと、意識のなかで、あるいは感覚のなかでというのだろうか、「肉体」のなかの、明確に区別できないところで「軽さ」と「重さ」がいれかわっている。
「軽さ」「測定不能」は「手応えのなさ」になり、その「無力感」はやがて「空っぽ」と言い直され、「空っぽ」なのに「重い」。はねのけることができない。
一連目の椿は「首」が意味を持ちすぎ、重すぎる。「首」が陶山自身の「重さ」を通り越して「文学/定型」の重さを頼りにしているのに対して、「おでんの容器」は「意味」を頼りにできない。「意味」を語ろうとするなら、自分で「意味」をつくりだしていかなければならないという切実さがある。
ここから「からころん」という「音」を頼りにするところが、陶山の「肉体」である。個性/思想である。「軽い」を表現するには「色/視覚」「におい/嗅覚」「手触り/触覚」もあるが、陶山は「聴覚」で世界をつかみなおす。
軽さを発見したあと、
とさらに、「軽さ」を定義し直している。これも、とてもいい。
ひとは大事なことは何度でも言い直す。定義しなおす。そして、その定義が深まっていく。
そのなかで、
「追いかける」「つまずく」「ひざまずく」「手を添える」という動詞が動く。「肉体」が「軽すぎる何か」をさまざまに体験しなおす。
ほんとうに「軽い」ものなら、そんなものに「つまずく」ということは、ない。足がふれた瞬間に「軽い」何かは足先から逃げていく。
いや、だからこそ「つまずく」もありうる。足が感じるはずの抵抗がそこにはなくて、その「予想を裏切る軽さ」が逆に足をまごつかせる。
あ、そうなのだ。
「おでんの容器の軽さ」は「裏切り」そのものなのだ。
重くあってほしい。重い方が、手にずしりとくる方が、持ったという実感を誘う。軽いと実感がない。「重くあってほしい」という「期待」が裏切られた感じが「軽い」という表現、その「軽い」という発見にこだわる理由でもあるのだ。
「だから」という「理由」を導く接続詞、あるいは「……とは……ということ」という「断定」。そういう「文法」の「論理」よりも、ここにはもっと重要な「論理」がある。「肉体」がつかみ取る、「文法」では表現できない「論理」がある。「定型」化されていないことばの運動がある。
一連目、「椿の首」には意味がある。「首切り」という武士の嫌った「死」のイメージがある。それは「苦痛の訴え」であり、会えない男への「非難」でもある。
でも、「おでんの容器が軽い、軽すぎる」では、「非難」にならない。言い換えると、無惨に首を切られたというときは、他人の同情を引くことができる。けれど「おでんの容器が軽い」では、誰も同情してくれない。真剣に、その訴えを聞いてくれない。
この誰も聞いてくれないことこそ、聞いてもらいたいことだねえ。
「軽さ」は「空っぽ」。そうであるなら、その「軽さ」を解消するには「空っぽ」を解消すること。つまり、「容器」を何かで満たすこと。「容器」に何かを「そそぐ」こと。ここにも「そそぐ/そそがれる」という動詞がしっかり動いていて、「肉体」を感じさせる。
二連目は、どの行、どのことばにも陶山の「肉体」がある。
この「嘘」は「嘘」ではなく「ほんとう」なのだが、誰にも通じない陶山自身の「ほんとう」なので「嘘」としか言いようがないのだ。「客観的」、つまり誰かに共有されるものではない/共有されることのないもの、「客観的事実」になれない悲しみである。
それは「書きかけ」、言い換えると「現在進行形」である。
この二連目にだけは「男に会えない」ということばがない。ないからこそ、それが切実に響く。「男に会えない」ということは、この二連目では陶山にはわかりきっていること。言わなくていいこと。つまり「肉体/思想」になってしまっている。だから書き落としてしまったのだが、こういう「書き落としてしまうことば」こそが「キーワード/思想」であって、それが詩を支える。
陶山エリ「無言」は、いつもとは少しスタイルの違った詩。一行がずるずると長く、途中でねじれることがない。ふつうの(?)詩のように行わけになっている。
無言 陶山エリ
椿は口が堅い
だから
首からごろんと落ちる
何も見なかった
誰も触れなかった
いい残して落ちる
無言とはそういうこと
アスファルトに落ちた花は
肉厚に育った無言
黒いブーツに踏まれ
押し花になれない
コサージュになれない
好きな男に会えない日が続く
書きかけの詩を持ち歩く
こころならずも
などと前置きしながらどこかに
たどり着けばいいのだけれど
コンビニでおでん買う
コンビニのおでんの容器は軽い
飲み干したとたんからころん
乾いた指から乾いた音転がし
むきだしのまま逃げてしまう
コンビニのおでん買う
おでんの容器
軽すぎる
のみほしたとたんからころん
空っぽを追いかけつまずき
ひざまずく
うやうやしく手を添える空っぽの
からころんからころん
手のひらのするするの空っぽ
もう何も注がない
そそがれないまま
書きかけの嘘を持ち歩く
報われないとはそういうこと
男に会えない日を続けながら
こっそり
まぎれ込んでしまった市立美術館
1 階ロビーは
階段が好きだ
屋内の階段にしては横幅広い
いちだんいちだん薄い浅い
ノートの余白に定規当て
ひとおもいにやぶりました
二センチ弱の幅の蛇腹
ひたすらに折りました
上るひといない
降りるひといない
記憶少ないいぬふりかえる
犬のまま吐き出す無言の
けぽっ
<受講者1>一連目は「肉厚に育った無言」という行など、すごく重みがある。
二連目は一連目とは対照的に軽い。
「空っぽを追いかけつまずき/ひざまずく」がおもしろい。
三連目のノートは男か。男を破って蛇腹にしているようでおもしろい。
最後の二行がおもしろい。
<受講者2>いつもと違いふつうの形の詩になった。
二行目の「だから」は必要だろうか。説明っぽい。
ことば遊びがおもしろい。最後の二行がおもしろい。
<受講者3>「けぽっ」はどういう意味だろう。
(擬態語、意味はない、という詩的の声)
「無言」というタイトルは日常的に出合うことば。
しかし、日常とは違った緊迫感がある。
淡々としているが強いものがある。
「男に会えない」がさらっとしている。
<受講者4>一連目、椿が首ごと落ちるは人間の首が落ちる感じ。
最後まで生々しい感じが持続する。
二連目は「おでんの容器」が軽い。
「おでんの容器」はいまの自分の反映だろうか。
<受講者5>「無言」は日常の象徴、状態をあらわしている。
「いい残して落ちる/無言とはそういうこと」など論理が出た。
「そういうこと」が繰り返されるが、そこに自己を出している。
男に会えないやるせなさ、報われなさが、おでんの軽さに出ている。
最後の二行は陶山節の真骨頂。
「記憶の少ないいぬ」を持ってくるところがいい。
<受講者6>ことばが立っている。ことばが落ち着いてきたと思って読んだ。
読んでいくと世界がひろがっていく。
三連目の階段の描写は市立美術館の情景が思い浮かぶ。
「薄い浅い」と書いているとおりの情景だ。
<受講者1>三連目「やぶりました」「折りました」の「ですます調」に意志を感じる。
いろいろな感想が出たが、一連目二行目の「だから」は必要だろうか、という意見と、ことばの動きが論理的という指摘は、重なる部分があると思う。「だから」ということばを必要ととしているのは「論理」を必要としているということだろう。
男に会えない、報われないという空しさが、何かをもとめている。「論理」のなかにたしかさをもとめているということになるかもしれない。
で。
私は、その「論理」が色濃く出た一連目が、実は好きではない。
椿が首から落ちるというのは、椿の花の描写の「定型」。それが陶山のほんとうに見た風景であっても「首から落ちる」という「定型」をつかった瞬間に、「文学」になってしまう。「歴史」に吸収されてしまい、個性が消えてしまう恐れがある。
「無言」をただ黙っているではなく「いい残して」と言い直しており、その「いい残す」という言い方が魅力的だけに、特に、そう感じる。「いい残した」ことはばを内に秘めている。それが「無言」というのは、強い表現だ。
そして、その「無言」を「肉厚に育った」と押し進めていくのも、とてもいい。「ことば/いい残し」が少しずつ多くなる感じ、大きくなって、自己を突き破る感じがする。
だからこそ、椿の「首からごろんと落ちる」の「首から」が気になる。
「首から」がなかったら、陶山が発見したものがもっと強い形で出てくるのではないかと思った。
二連目が、私はとても気に入っている。
三連構成で、それぞれの連がそれだけで一篇の詩になると思うが、特に二連目がおもしろいと感じる。これは、一連目の「椿が首から落ちる」という「定型」を読んだ反動かもしれない。「定型」を読んだあと、「定型」ではないものを読むと、それがよりあざやかに見えるということかもしれないのだが……。
コンビニのおでんの容器が軽い。これは、誰もが知っていることだ。誰もが知っていることだが、それをことばにするということは、まだ誰もしていないのではないだろうか。それがおもしろい。
誰も書いていないから、それをことばにするとき、どうしても自分の「肉体」をとおして語らないといけない。
飲み干したとたんからころん
乾いた指から乾いた音転がし
「飲み干す」という動詞があり、「乾いた指」という陶山自身の「肉体」がある。そこに「からころん」という「音」が入り込む。
容器の軽さ(測定可能な重さ)は「からころん」という測定できない「音の重さ」にかわる。音の「響き」の軽さだけではなく、測ることができないという「軽さ」が、おもしろい。
このとき、きっと、意識のなかで、あるいは感覚のなかでというのだろうか、「肉体」のなかの、明確に区別できないところで「軽さ」と「重さ」がいれかわっている。
「軽さ」「測定不能」は「手応えのなさ」になり、その「無力感」はやがて「空っぽ」と言い直され、「空っぽ」なのに「重い」。はねのけることができない。
一連目の椿は「首」が意味を持ちすぎ、重すぎる。「首」が陶山自身の「重さ」を通り越して「文学/定型」の重さを頼りにしているのに対して、「おでんの容器」は「意味」を頼りにできない。「意味」を語ろうとするなら、自分で「意味」をつくりだしていかなければならないという切実さがある。
ここから「からころん」という「音」を頼りにするところが、陶山の「肉体」である。個性/思想である。「軽い」を表現するには「色/視覚」「におい/嗅覚」「手触り/触覚」もあるが、陶山は「聴覚」で世界をつかみなおす。
軽さを発見したあと、
軽すぎる
とさらに、「軽さ」を定義し直している。これも、とてもいい。
ひとは大事なことは何度でも言い直す。定義しなおす。そして、その定義が深まっていく。
そのなかで、
のみほしたとたんからころん
空っぽを追いかけつまずき
ひざまずく
うやうやしく手を添える空っぽの
からころんからころん
「追いかける」「つまずく」「ひざまずく」「手を添える」という動詞が動く。「肉体」が「軽すぎる何か」をさまざまに体験しなおす。
ほんとうに「軽い」ものなら、そんなものに「つまずく」ということは、ない。足がふれた瞬間に「軽い」何かは足先から逃げていく。
いや、だからこそ「つまずく」もありうる。足が感じるはずの抵抗がそこにはなくて、その「予想を裏切る軽さ」が逆に足をまごつかせる。
あ、そうなのだ。
「おでんの容器の軽さ」は「裏切り」そのものなのだ。
重くあってほしい。重い方が、手にずしりとくる方が、持ったという実感を誘う。軽いと実感がない。「重くあってほしい」という「期待」が裏切られた感じが「軽い」という表現、その「軽い」という発見にこだわる理由でもあるのだ。
「だから」という「理由」を導く接続詞、あるいは「……とは……ということ」という「断定」。そういう「文法」の「論理」よりも、ここにはもっと重要な「論理」がある。「肉体」がつかみ取る、「文法」では表現できない「論理」がある。「定型」化されていないことばの運動がある。
一連目、「椿の首」には意味がある。「首切り」という武士の嫌った「死」のイメージがある。それは「苦痛の訴え」であり、会えない男への「非難」でもある。
でも、「おでんの容器が軽い、軽すぎる」では、「非難」にならない。言い換えると、無惨に首を切られたというときは、他人の同情を引くことができる。けれど「おでんの容器が軽い」では、誰も同情してくれない。真剣に、その訴えを聞いてくれない。
この誰も聞いてくれないことこそ、聞いてもらいたいことだねえ。
「軽さ」は「空っぽ」。そうであるなら、その「軽さ」を解消するには「空っぽ」を解消すること。つまり、「容器」を何かで満たすこと。「容器」に何かを「そそぐ」こと。ここにも「そそぐ/そそがれる」という動詞がしっかり動いていて、「肉体」を感じさせる。
二連目は、どの行、どのことばにも陶山の「肉体」がある。
書きかけの嘘を持ち歩く
報われないとはそういうこと
この「嘘」は「嘘」ではなく「ほんとう」なのだが、誰にも通じない陶山自身の「ほんとう」なので「嘘」としか言いようがないのだ。「客観的」、つまり誰かに共有されるものではない/共有されることのないもの、「客観的事実」になれない悲しみである。
それは「書きかけ」、言い換えると「現在進行形」である。
この二連目にだけは「男に会えない」ということばがない。ないからこそ、それが切実に響く。「男に会えない」ということは、この二連目では陶山にはわかりきっていること。言わなくていいこと。つまり「肉体/思想」になってしまっている。だから書き落としてしまったのだが、こういう「書き落としてしまうことば」こそが「キーワード/思想」であって、それが詩を支える。