監督 ダニー・ボイル 出演 マイケル・ファスベンダース、ケイト・ウィンスレット
スティーブ・ジョブズが生きていたら、この映画は完成しなかったかもしれない。スティーブ・ジョブズの代名詞である「i」のつく商品は「iMac」しか出て来ない。つまり、この映画はほんとうの流行商品を売り出すまでのスティーブ・ジョブズしか描いていない。しかもその描き方が、人間的魅力に欠ける。自分の子どもを認知せず、技術者に当たり散らす。未完成の商品を「完成品」として紹介する。一種の「ペテン師」の姿しか描いていない。
ダニー・ボイルの狙いは何なのか。コンピュータなんて、「ペテン」だということか。現代人はペテン師がつくり出したペテン商品に欲望をあおられて現実を見ていないということか。
うーん。そこまではつきつめてはいないなあ。
私がおもしろいと思ったのは、マイケル・ファスベンダースよりも、ケイト・ウィンスレット。彼女は技術者ではない。マーケティングを担当している。商品と顧客をつないでいる。そのなかで「誠実」を発揮する。そういう役どころ。
スティーブ・ジョブズも商品開発の担当者も、顧客(使用者)のことを考えていない。もっぱら、この製品を支えているのは自分のアイデアだ、自分の技術だという主張である。スティーブ・ジョブズは小沢征爾のように「コンダクター」をめざしている。技術を集結させ、個々の技術だけではなしえない「新製品」という「芸術」をつくりだす。他方、技術者たちは「新製品」が存在しうるのは自分の「技術」があるからだ。それを尊敬しろと、スティーブ・ジョブズの姿勢をいらだたしく思っている。言い換えると、両者とも「自分は天才だ、自分に従え」と主張したがっている。
この軋轢に、コンピュータなんて何とも思っていない恋人と、恋人が産んだ娘がからんでくる。恋人は浪費家だが、コンピュータは買わない。コンピュータ以外のもので浪費する。このエピソードが「薬味」のように効いている。
「大ヒット商品」というのは、この恋人のように、そんなものなんか必要ない。ほかのものがほしい、と思っているひとの関心をひきつけたとき、初めて生まれる。こういうものがほしいと熱望しているひとは、そういうものを探し出してきて買う。そうではなく、みんながつかっているから、あ、それはおもしろそう、と無関心だった人間が関心をもつようになると「大ヒット」する。
そのとき必要なのは「革新性」と同時に「信頼」である。
この「信頼」の部分を、ケイト・ウィンスレットが、地味な形で支えている。新製品のプレゼンテーションがうまくいかない。そのとき、不具合を解消するために、新製品にはつかわれていない部品(技術)を臨時につかう。「詐欺」で不具合を乗り越えようとする。これに対し、技術者ではないケイト・ウィンスレットが、「それではだめだ」と異議を唱えるシーンに、それが象徴的にあらわれている。
ケイト・ウィンスレットは、たぶん、スティーブ・ジョブズを「信頼」していた唯一の人間である。自分はスティーブ・ジョブズを信頼している。だから、ほかのひとも信頼してほしい。信頼すれば、そこから何かがかわる、と信じている。だから、スティーブ・ジョブズについていっている。
で、これが……。
この映画には、そこまでは明確には描かれていなくて、私がかってに想像しているのだが、最後に「美しい形」で結晶している。
スティーブ・ジョブズは昔の恋人とのあいだに「軋轢」をかかえているが、娘ともうまくいっていない。娘のことは好きなのだが、元の恋人が原因で、関係がぎくしゃくしている。そのぎくしゃくを、ケイト・ウィンスレットが取り持ったあと。映画のほんとうのラストのラスト。スティーブ・ジョブズが娘がつかっているウォークマンを見て、「そんな煉瓦みたいなみっともないものではなく、もっといいものをつくってやる」と言う。「iPod」のことである。このとき、スティーブ・ジョブズは娘の「欲望」に付き従っている。自分のほしいもの、というより娘がほしがるだろうなあというものを発見している。人間の「和解」が人間の欲望(本能)を解き放ち、そこから新しい何かが生まれる。(娘が最初にパソコンをつかった描いた絵をスティーブ・ジョブズは大切に持っている。娘の欲望、つまり「一般市民/無意識の市民」の欲望に導かれるようにして、スティーブ・ジョブズは新しいものをつくりだしている。)自分の欲望だけではなく、他人の欲望を発見し,それを自分のものとして洗練させていく。
その瞬間を、あ、美しいと感じる形で、とてもシンプルに描いている。
この「大ヒット」の秘密は、スティーブ・ジョブズを解雇し(会社から追い出し)、再び迎え入れるという動き、その解雇を主導した経営責任者との「和解」にも静かな形で描かれている。「和解」こそが新しいものをつくりだしていく。
ここからこの映画を見つめなおすと、ダニー・ボイルがひたすら、スティブ・ジョブズの「問題行動」、特に技術者との軋轢に焦点をあてつづけたかがわかる。新製品がなかなか完成しないのは、アイデアと技術が「和解」していないからである。技術が自然に動いていない。アイデアにひっぱりまわされている。そういうとき、技術のなかに「不満」がたまり、それが技術の進展をじゃまする。いまのままで動くのに……という不満だね。
スティーブ・ジョブズは技術(コンピュータ)との「妥協」ではなく、「和解」を願っていたのだ。コンピュータと人間の「妥協/協力」ではなく、「和解」が生み出していく新しい世界を夢見ていたのだ。
「和解」こそが、この映画のテーマである。「和解」というのは、まあ、古くさいテーマである。実際、この映画はスティーブ・ジョブズの革新性というよりも、古くさい人間の問題を描いている。
で、衝突から和解へ、人間と人間のあいだの軋轢をどう和解させていくか、どう乗り越えるか。というようなことを考えていると。
この映画のマイケル・ファスベンダースはスティーブ・ジョブズではなく、ダニー・ボイルの「自画像」かもしれない、という気がしてくる。映画というのも「総合芸術」。監督のアイデアを具体化するには、さまざなスタッフが必要である。そのひとたちがきちんと動かないと映画はできない。スタッフをどう動かせば、映画が新しい世界を開けるか……そのことに苦悩している監督の自画像をそこに感じることもできる。
でも、そんなことを感じてしまったら、もうこの映画は「スティーブ・ジョブズ」ではなくなる。だから、つまらない。
繰り返しになるが、このつまらない映画を、きちんとした形に成り立たせているのは、とてもつまらない役どころを誠実に演じているケイト・ウィンスレットがいるからだなあ。ケイト・ウィンスレットの演技に、私は、はじめて感動した。
(天神東宝3、2016年02月14日)
*
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スティーブ・ジョブズが生きていたら、この映画は完成しなかったかもしれない。スティーブ・ジョブズの代名詞である「i」のつく商品は「iMac」しか出て来ない。つまり、この映画はほんとうの流行商品を売り出すまでのスティーブ・ジョブズしか描いていない。しかもその描き方が、人間的魅力に欠ける。自分の子どもを認知せず、技術者に当たり散らす。未完成の商品を「完成品」として紹介する。一種の「ペテン師」の姿しか描いていない。
ダニー・ボイルの狙いは何なのか。コンピュータなんて、「ペテン」だということか。現代人はペテン師がつくり出したペテン商品に欲望をあおられて現実を見ていないということか。
うーん。そこまではつきつめてはいないなあ。
私がおもしろいと思ったのは、マイケル・ファスベンダースよりも、ケイト・ウィンスレット。彼女は技術者ではない。マーケティングを担当している。商品と顧客をつないでいる。そのなかで「誠実」を発揮する。そういう役どころ。
スティーブ・ジョブズも商品開発の担当者も、顧客(使用者)のことを考えていない。もっぱら、この製品を支えているのは自分のアイデアだ、自分の技術だという主張である。スティーブ・ジョブズは小沢征爾のように「コンダクター」をめざしている。技術を集結させ、個々の技術だけではなしえない「新製品」という「芸術」をつくりだす。他方、技術者たちは「新製品」が存在しうるのは自分の「技術」があるからだ。それを尊敬しろと、スティーブ・ジョブズの姿勢をいらだたしく思っている。言い換えると、両者とも「自分は天才だ、自分に従え」と主張したがっている。
この軋轢に、コンピュータなんて何とも思っていない恋人と、恋人が産んだ娘がからんでくる。恋人は浪費家だが、コンピュータは買わない。コンピュータ以外のもので浪費する。このエピソードが「薬味」のように効いている。
「大ヒット商品」というのは、この恋人のように、そんなものなんか必要ない。ほかのものがほしい、と思っているひとの関心をひきつけたとき、初めて生まれる。こういうものがほしいと熱望しているひとは、そういうものを探し出してきて買う。そうではなく、みんながつかっているから、あ、それはおもしろそう、と無関心だった人間が関心をもつようになると「大ヒット」する。
そのとき必要なのは「革新性」と同時に「信頼」である。
この「信頼」の部分を、ケイト・ウィンスレットが、地味な形で支えている。新製品のプレゼンテーションがうまくいかない。そのとき、不具合を解消するために、新製品にはつかわれていない部品(技術)を臨時につかう。「詐欺」で不具合を乗り越えようとする。これに対し、技術者ではないケイト・ウィンスレットが、「それではだめだ」と異議を唱えるシーンに、それが象徴的にあらわれている。
ケイト・ウィンスレットは、たぶん、スティーブ・ジョブズを「信頼」していた唯一の人間である。自分はスティーブ・ジョブズを信頼している。だから、ほかのひとも信頼してほしい。信頼すれば、そこから何かがかわる、と信じている。だから、スティーブ・ジョブズについていっている。
で、これが……。
この映画には、そこまでは明確には描かれていなくて、私がかってに想像しているのだが、最後に「美しい形」で結晶している。
スティーブ・ジョブズは昔の恋人とのあいだに「軋轢」をかかえているが、娘ともうまくいっていない。娘のことは好きなのだが、元の恋人が原因で、関係がぎくしゃくしている。そのぎくしゃくを、ケイト・ウィンスレットが取り持ったあと。映画のほんとうのラストのラスト。スティーブ・ジョブズが娘がつかっているウォークマンを見て、「そんな煉瓦みたいなみっともないものではなく、もっといいものをつくってやる」と言う。「iPod」のことである。このとき、スティーブ・ジョブズは娘の「欲望」に付き従っている。自分のほしいもの、というより娘がほしがるだろうなあというものを発見している。人間の「和解」が人間の欲望(本能)を解き放ち、そこから新しい何かが生まれる。(娘が最初にパソコンをつかった描いた絵をスティーブ・ジョブズは大切に持っている。娘の欲望、つまり「一般市民/無意識の市民」の欲望に導かれるようにして、スティーブ・ジョブズは新しいものをつくりだしている。)自分の欲望だけではなく、他人の欲望を発見し,それを自分のものとして洗練させていく。
その瞬間を、あ、美しいと感じる形で、とてもシンプルに描いている。
この「大ヒット」の秘密は、スティーブ・ジョブズを解雇し(会社から追い出し)、再び迎え入れるという動き、その解雇を主導した経営責任者との「和解」にも静かな形で描かれている。「和解」こそが新しいものをつくりだしていく。
ここからこの映画を見つめなおすと、ダニー・ボイルがひたすら、スティブ・ジョブズの「問題行動」、特に技術者との軋轢に焦点をあてつづけたかがわかる。新製品がなかなか完成しないのは、アイデアと技術が「和解」していないからである。技術が自然に動いていない。アイデアにひっぱりまわされている。そういうとき、技術のなかに「不満」がたまり、それが技術の進展をじゃまする。いまのままで動くのに……という不満だね。
スティーブ・ジョブズは技術(コンピュータ)との「妥協」ではなく、「和解」を願っていたのだ。コンピュータと人間の「妥協/協力」ではなく、「和解」が生み出していく新しい世界を夢見ていたのだ。
「和解」こそが、この映画のテーマである。「和解」というのは、まあ、古くさいテーマである。実際、この映画はスティーブ・ジョブズの革新性というよりも、古くさい人間の問題を描いている。
で、衝突から和解へ、人間と人間のあいだの軋轢をどう和解させていくか、どう乗り越えるか。というようなことを考えていると。
この映画のマイケル・ファスベンダースはスティーブ・ジョブズではなく、ダニー・ボイルの「自画像」かもしれない、という気がしてくる。映画というのも「総合芸術」。監督のアイデアを具体化するには、さまざなスタッフが必要である。そのひとたちがきちんと動かないと映画はできない。スタッフをどう動かせば、映画が新しい世界を開けるか……そのことに苦悩している監督の自画像をそこに感じることもできる。
でも、そんなことを感じてしまったら、もうこの映画は「スティーブ・ジョブズ」ではなくなる。だから、つまらない。
繰り返しになるが、このつまらない映画を、きちんとした形に成り立たせているのは、とてもつまらない役どころを誠実に演じているケイト・ウィンスレットがいるからだなあ。ケイト・ウィンスレットの演技に、私は、はじめて感動した。
(天神東宝3、2016年02月14日)
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