詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

古内美也子「泣きながら原」

2016-02-24 12:49:15 | 詩(雑誌・同人誌)
古内美也子「泣きながら原」(「雨期」66、2016年02月20日発行)

 古内美也子「泣きながら原」は短い作品。

湧蓋(わいた)山の麓
すすきが哀しい慰めのように
やさしく揺れ
ひとは知らないものを探す
影のかたまりが風に乗り
水分を冷やしていく
根にいのちを溜め
枯れてゆく草々
琺瑯の空がどこまでも広がり
謎は謎のままふくらんで
当てもなく
とんでゆく

 ことばのつながりに、聞き慣れたものと聞き慣れないものがある。
 一行目。「湧蓋山」いうのは固有名詞だが、私は知らない。(たぶん多くの読者も知らないと思う。こういうとき、熱心な読者は固有名詞を調べるのだが、私はずぼらなので調べない。)しかし、「湧蓋山」は知らないが、「山」は知っており、それにつづく「麓」もわかる。それで、自然と「情景」を浮かべてしまう。古内の思い描いている「情景」とは完全に一致しないだろうけれど。
 一行目は固有名詞を含んでいるので「聞き慣れた/聞き慣れない」ということばのつながりという例にしていいのかどうか少し迷うが、「聞き慣れた」つながりを手がかりに、私は山の麓、麓の原っぱという「情景」のなかへ入っていく。タイトルが「泣きながら原」なので原っぱを思うのである。
 二行目。「哀しい」と「慰め」はどちらも「聞き慣れた」ことばだが、「聞き慣れた」という印象は「哀しい」誰かを「慰める」という結びつきのときである。ところが古内は「哀しい慰め」と書いている。これは「聞き慣れない」。「聞き慣れない」のだけれど、両方とも知っていることばなので、微妙に「知っていること/わかっていること」が刺戟される。「哀しみ」そのものに、こころが落ち着くということもある。「哀しみ」に対する「共感」のようなもの。「哀しみ」に共感し、それを共有することが、自分を安心させる。「哀しむ」ひとの側に立って生きている、ということをこころの奥で自覚するのかもしれない。
 こういうことは、説明しようとするとむずかしいが、「肉体」が何かを覚えていて、その「覚えている何か」を刺戟してくる。「聞き慣れない」のに、あ、そのことは「知っている/覚えている」と感じる。
 「哀しい」は形容詞。これを「用言」として見ていくと、そこに「哀しむ」という「動詞」がある。名詞「哀しさ」よりも動詞「哀しむ」は「哀しい」を結びつけて、「哀しんだ」ことを思い出すとき、きっと「共感」は生まれる。これにさらに「慰め」という名詞に「慰める」という「動詞」になって動く。そのとき「共感」の幅がひろがる。「哀しい」や「慰め」を自分の外にある「客観」としてではなく、「哀しむ」「慰める」という「肉体」の「動詞」として自分自身の「肉体」のなかで動かしながら、私は古内の書いていることばのなかに参加していくのだ。同じことを、つまり「名詞」を「動詞」に無意識にかえながら古内もまた「肉体」を動かして詩を書いているのだと思う。そういう「動き/動詞」としての「肉体」を感じるからこそ、それに誘われ、私は古内と同じことをしてしまう。
 三行目「やさしく揺れ」は「聞き慣れた」ことばである。この「やさしく」は前の「すすき」をあらわしている。「(すすきは)やさしく揺れ」である。だが、それだけではなく同時に「慰め」とも「やさしく」は結びついている。「やさしい/慰め」「やさしく/慰める」。ここでも「慰め」を書かれていることばをそのままの形ではなく、「慰める」と「動詞」にした方が、より「聞き慣れた」感じになる。「動詞」でことばをとらえると「肉体」が動き、「肉体」のなかに「思い出」がわき上がってくる。そして「共感」が強くなる。
 「共感」というのは「こころ」の動きなのだが、きっと「こころ」というようなことばにはならない、「こころ以前」のところで動きはじめるのだろう。「こころ」となづけられる前の「肉体」のどこかで動きはじめる。だから「動詞」でことばをつかみ取る方が「共感」がつよく動くのだと思う。
 そのあと、四行目。

ひとは知らないものを探す

 あ、と声が出てしまう。
 ひとは「知っているもの」を探す。たとえば、自分の財布を。持っていたものを探す、と言ってもいい。ここれは「聞き慣れた」こと。
 でも「知らないもの」は探せない。「知らない」のだから、それに出合ってもそれが「ほんもの」かどうか、判断のしようがない。
 でも、これは「日常の論理」。
 「知らないもの」を探すということは、実は、ある。
 科学では「知らないもの」を探す。探し出したとき「発見」という。「発見」というのは「新しいもの」を見つけること。
 で、ここに書かれている「知らないもの」というのは「新しいもの」である。
 たとえば、この詩に書かれていることで「新しいもの」は何か。「聞き慣れないもの」は書かれていなかったか。
 「哀しい慰め」
 これが「新しい」、「聞き慣れない」。
 そういうものを「探す」のである。
 そして、「新しい」と言いながらも、それが「発見される/探し出される」ということは、それはすでに「存在していた」。つまり「見落としていた」ということである。
 「哀しい慰め」も「見落としていた」ものなのである。
 それは、最初から「ある」。「ある」けれど、それとは気がつかない。古内が「哀しい慰め」ということばを書いた瞬間に、目の前に「あらわれてきた」。これを「哀しい慰め」という「形容詞+名詞」(存在)としてつかみとろうとすると、なんだかつかみきれないのだが、「哀しむ+慰める」という「動詞」として思い起こすとき、「肉体」のなかで「哀しむ」と「慰める」が「ひとつ」になって動く。「哀しむひとを慰める」「哀しんでいるときだれかが慰めてくれる」。「哀しむ+慰める」は、入り乱れて「共感」になる。区別できないところで「ひとつ」になって動く。
 詩の後半は、この「知っている」けれど「知らない(見落としていた)もの」を言い直したもの。
 「影のかたまり」は「すすき」の揺れる姿だろう。すすきにも「影」ではない部分があるのだが、「哀しみ」にこころを寄せている古内は「影」に共感している。すすきが、風に揺れ、すすきが枯れている。「水分」を失って「枯れてゆく」。風が「水分」を吹き飛ばしていくのかもしれない。けれど、枯れながらもすすきは「根にいのちを溜め」ている。この「いのち」は「水(水分)」ともいえる。「水分」は「涙」であり、「哀しみ」である、と言ってしまうと「抒情」になりすぎてしまうが、ふとそういうことばが思いつくのは、「溜める」が「慰める」と深いところでつながっているからかもしれない。
 私の、こういう「うるさい」感想は、この詩には、たぶん似合わない。
 この詩に似合うのは、「琺瑯の空」という古内の書いていることばどおり、何か、「哀しみ」を拒絶するようなきっぱりとした「非情」である。非情の「美しさ」が似合うのだが、前半部分を非情の形で動かしてみるのはむずかしいね。

ひとは知らないものを探す

 は

謎は謎のままふくらんで

 と言い直されている。
 「哀しい慰め」というのは「謎」である。私はテキトウなことを書いてきた。厳密に言おうとしても、言い切れないものがどうしても残ってしまう。
 それを「抱え込む」ではなく、「とんでいく」とぱっと手放したところに、古内の、自然の「非情」に向き合ったときの生き方がある。思想がある。
 この「きっぱり」した感じに向き合うと……。
 「とんでいく」は「影のかたまり」とも「謎」とも読めるのだが、私はまた「琺瑯の空」そのものが「とんでいく」とも読みたい気持ちになる。「影のかたまり」や「謎」が「そらを飛ぶ」ということはあっても、「飛ぶ」の「場」である「空」そのものは飛ばない。「空」が飛んでしまえば、ほかのものは飛べない。--というのは「理屈」であって、すべて(世界)が「空」になって「空」から飛んでゆく、「湧蓋山の麓」だけが残っている、という感じがいいかなあ、と思ったりするのである。

黄金週間
古内 美也子
書肆山田


*

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