詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

上原和恵「せんこう」

2016-02-19 10:00:07 | 現代詩講座
上原和恵「せんこう」(現代詩講座@リードカフェ、2016年02月17日)

「せんこう」   上原和恵

呼吸を整え
足裏のひびわれを
眺めながら胡坐をかき
手を頭の上で合わせた合掌のポーズで
瞑想にふけようという瞬間
顔がぞろっとたるみ
皺が刻まれたふけた顔が
壁全面に張られた鏡に映り
その瞬間鏡が痛くなり
線香花火の白色光の
まばゆいひびわれの閃光が目に刺さる

ヒミコの鏡の光の束かと
思わず目の前に鮮紅が散らばり
目は穿孔され開かない
恐る恐る目を先行するが
その「せんこう」の行方に振り回された

閃光の先に目を這わすと
透明なガラスをつき抜けた先の
自動車の窓ガラスに
蜘蛛の巣状に張りついた
白色光のひびわれに
ヒミコの涙が光っている

青銅の鏡が振りかざされ
白色光のまばゆさに
人々がひれ伏したヒミコの遠い光は
私を呪術にかけるように
古代からの記憶の「せんこう」を呼び覚ました


<受講者1>タイトルの「せんこう」は仏壇の線香かな。ヨガのポーズから連想した。
      香が記憶のように作品化されている。
<質  問>タイトルの「せんこう」に漢字をあてるとどうなるか。
      感想のとき、いっしょに言ってみて。
<受講者2>「鮮紅」がこの詩のなかでは特殊。「白色光」から「閃光」と思った。
<受講者3>一連目から「閃光」を思い浮かべた。
      「閃光」と決めつけたくなくて「せんこう」にしたのだと思う。
      作為に富んだ詩。
      ただ、「せんこう」が多すぎる。少ない方が「せんこう」がきわだつ。
      「顔がぞろっとたるみ」が、全体とは関係なくおもしろい。
      タイトルは違う方がおもしろいと思う。「ヒミコの涙」とか。
<受講者4>とがった感覚。「せんこう」は「閃光」。
      ほかの漢字をあてられているものも、全部「閃光」と思って読んだ。
      「せんこう」にこんなに多くの漢字があることが新鮮。
      ヒミコが出てくるのもおもしろい。
<受講者5>「鮮紅」「先行」かな。
      二連目の「振り回された」ということばが印象的。
      「どのせんこう」だろうと作者が振り回されている感じがする。
<受講者6>ヒミコから時代の「先行」を思った。
      「せんこう」とあえてひらがなにして複数の意味を持たせている。
      「せんこう」ということばで遊んでいる。
      目の前の鏡からヒミコの鏡へ移行するところがおもしろい。
      瞑想にふける、顔がふけるということば遊びもある。
<受講者3>「尖光」というものあってよかったのでは。
      造語になるが、そういう遊びもあっていいと思う。
      「先生」を軽蔑して呼ぶときの「先公」というようなことばも。

 最後の指摘はおもしろいと思う。
 「せんこう」ということばでいろいろなことを書こうとしているのだが、ことばが「限定的」。おとなしい。「先公」というような乱暴なことばがあった方が、詩の広がりが豊かになる。
 そういう意味では「ヒミコ」は、私は、あまり感心しない。
 ヒミコを出すと、現代だけではなく太古がでてきて時代が豊かになるけれど、一方でイメージがどうしても縛られる。最終連の「人々がひれ伏した」「呪術」「古代」というようなことばがとうしてもでてきてしまう。そして作品を統一してしまう。予定調和になる。
 「光」に関係することば、輝きに関係することばが多いのだけれど、「潜行」というような「逆向き」のことば、もぐりこむ、見えなくなるというような動きもあってもいいのではないだろうか。

<上  原>最終行の「せんこう」は、その「潜行」の意味をこめて書いた。
      呪術でのろわれている感じを出したかった。
      パソコンで漢字に変換するとき、20くらい候補が出てきた。
      そこからことば遊びを思いついた。

 詩を全体的に見渡すと、に連目にヒミコが出てきてから、ヒミコにひっぱられすぎている。ヒミコの出て来ない一連目の方がイメージが拡散していて楽しいと思う。
 <受講者3>が指摘しているが「顔がぞろっとたるみ」が、私もおもしろいと思う。芥川賞を取った本谷有希子「異類婚姻譚」を思い出したのだけれど。
 そして、その顔の弛みが、

鏡が痛くなり

 と変化するところが特におもしろい。
 自分の老けた顔を見て衝撃を受けるのは、顔の持ち主。つまり、本人。こういうとき「痛み」は自分が感じるもの、だと思う。「顔に驚く」「顔が痛い」。
 しかし、ここでは逆転している。
 鏡という感情/感覚をもたないものが「痛くなる」と言っている。
 この瞬間、作者は「人間」ではなく「鏡」になっている。「鏡」が上原なのだ。
 上原のつかっていることばを借りながら、もっと正確(?)に言おうとすると……。
 こういうとき、「顔」と「鏡」のあいだに亀裂(ひびわれ)が起きている。「こういう顔だろう」と思っている想像(私)と、「こういう顔だ」と映し出す鏡のあいだに、一種の齟齬が起きて、それが亀裂を引き起こす。「こういう顔だろう」と思っていた想像が打ち砕かれる。想像と現実の亀裂(ひびわれ)と言ってもいい。
 想像と現実とのあいで亀裂がおきるというのは、想像と現実のあいだで混乱がおきるということでもある。
 「想像」が私か、「現実」が私か。
 「現実」というのは「ほんとう」でもある。
 「鏡」の方が「ほんとう」。「私ではない/鏡」の方が「ほんとうの私」。
 そして、その「ほんとう」の顔が「痛む」。

 あれっ、変。
 何か、ごまかされた感じがしない?

 自分で書いておきながら、こんなことを書くのは「ずるい」のだが。
 この奇妙なごまかし/ごまかされ/錯乱のなかに、詩の本質に通じるものがあるのだと思う。
 錯乱/混乱というのは、「区別」がなくなること。「ほんとう」の定義のなかで「私」と「鏡」が入れ替わり、「想像」と「現実」の区別が消えて、どちらが「痛い」という感覚を生きているのかわからない。そのわからないところから、それでも「痛い」という感覚が動き出している。
 これをはやりのことばで言い直すと、「痛い」がそこから「分節」されるということ。「錯乱/混乱」は「痛い」が「未分節」の状態。(「未分節」というのは、私がかってにつくり出した、いわば「造語」。ふつうは「無分節」というのだが、「無分節」では、説明しにくいので、私は「未分節」と書く。)
 この「未分節」にヒミコを持ち込むと、どうしてもヒミコにひっぱられる。ヒミコが作者の実際に感じたことよりも「先行」してしまい、せっかくの「現実」のなかでつかんだ「実感」が既成のストーリーになってしまう。そういう「誘惑」を振り切って、もう一度、自分自身の「肉体(未分節)」のさらに奥へと「潜行」するということが詩を深くするのだと思う。

*

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