須永紀子「きみの島に川が流れ」(「孔雀船」87、2016年01月15日発行)
知らないことばにであったとき、どうするか。私は調べない。そのうちにわかるだろう、と思う。わからなかったら、たぶんそれは私とは無縁のことばなのだ。知らないままにしておいていい。怠け者なので、そう考える。
須永紀子「きみの島に川が流れ」は、そういう知らないことばから始まっている。
そして、「知らない」を「知らない」ままにして読んだときに、何と言えばいいのだろう。ちょっと変な気持ちになった。
この詩で私がいちばん気に入ったのは「長い無音が水を呼び/時間をかけて川になった」なのだが、それをなぜ気に入ったかというと、「丘」を中心(?)に広がる土地があって、そこに「きみ」は住んでいたことがある。ふるさとだ。そこから離れて住んでいるうちに友人たちと音信がなくなり(無音になり)、そのことがふるさとと別な土地の間に「川」をつくり、ふるさとが「島」になってしまった、と読んで気に入ったのだ。
その川は小さな「川」ではなく、「アマゾン」のように広大な川。向こう岸が見えないくらいの「川」。それはどんどん拡大してゆき、ふるさとから離れた「きみ」の住む街まで水浸しになる。その水に追われて、「きみ」は「島」になってしまった「丘」へ帰って来る。そう読んで、うーん、いいなあ、と思ったのである。
このとき、冒頭の「知らないことば/レビヤタン」は「水/無音/音信なし」と、ほとんど同じものになる。「レビヤタン」は「水」の比喩、あるいは「水」は「レビヤタン」の比喩であり、それは「きみ」を傷つける、「きみ」の生存を危うくするという「動詞」となって動いている。「水」が「レビヤタン」を生み出し、それが「きみ」を襲う。その「襲う水/レビヤタン」から逃れるには、川がつくりだした向こうの土地に住むのではなく、ふるさとへ帰るしかない。なぜなら、水は増えつづけ、「向こうの土地」は浸食されつづける。そう思って読むのである。
でも、そうするとタイトルの「きみの島に川が流れ」が、どうも、論理的におかしい。タイトルはどうしても「島のなかに川が流れる」と読めてしまう。「きみの島のまわりに川が流れ」とは、読めないことはないだろうが、なんだが無理がある。
だが、「レビヤタン」無視して読んでしまう私には、どうしても「川」は「川のなかに島をつくる川」、「島」は「川のなかの島」にしか思えない。もしかすると、「丘」から流れた川の水がどんどん増えて、それが「丘」を囲むようにして、その土地を「島」にしたとも考えられるのだが。そう考えると「路燐的」になるにはなるのだが……。
こんなことを考えるのは、繰り返しになるが「長い無音が水を呼び/時間をかけて川になった」が非常に印象的だからである。「長い無音」と「水」。それをつなげる「呼ぶ」という動詞が、どうしても「呼ぶ人間/友人」との隔たり、疎遠を呼び覚ます。
「無音」が「呼ぶ」のは「水」だけではない。「危害をもたら水/レビヤタン」だけではなく、「きみ」をも「呼ぶ」。「丘(ふるさとの象徴)」が「きみ」を呼ぶ。「友人の途絶えた音信」となって、「きみ」を「呼ぶ」。「危害をもたらす水/レビヤタン」と「友人(ふるさと)/安心をもたらすもの」がどこかでかたく結びついている。反対のものが結びついている。
だからこそ、そこに「詩」があると思うのだが……。
このあと、詩は二連目へとつづく。
「きみ」は帰ってきた。しかし、「みんな(友人)」は逆に「丘(島)」を捨てて、どんどん遠ざかる「向こう(岸)」へ渡ってしまった。水が増える(渡らなければならない距離が増える/危険が増える/レビヤタンが増える)前に、「向こう(岸)」へ渡ってしまった……。
どう読んでも「海」とは感じられないのである。「向こう」が「海」の向こうなら、「島」と「向こう岸」の「距離」はかわらない。別に「みんな」で「島」を捨てる必要はないように思える。いつでしも「行き来」できるように思ってしまう。
増える水(レビヤタン)がつくり出す「島」と読むと「実のないことば」が、そのまま「増える水/レビヤタン」にもなる。
「レビヤタン」がどんなふうに「きみ」を「追う」のか、「危害を及ぼすのか」。そのことが書かれず、繰り返し書かれているのが「友人」「無音」「実のないことば」だから、そう読んでしまうのかもしれない。
人は誰でも大事なことを繰り返す。繰り返して、何が大事かを考える。
ここでは「消える」「忘れる」という動詞が、「無音」「実のないことば」と重なり合う。
ひとが、「友人」が「きみ」を「忘れる」かもしれない。「忘れ」ながら、「忘れ」たあとど「思い出す」かもしれない。その「思い出された」瞬間に、「きみ」は「生き返る」のか。あるいは「死ぬ」のか。
そんなことは気にしないでいい。
「きみ」は自分が生まれ育った土地(丘/島になってしまった場所)」で、生きる。それだけである。「忘れ」、「忘れたあとで思い出す」というような、「友人」からの「音信/つながり」こそが「レビヤタン」そのものかもしれない。ひとを傷つける、ひとを危険にするものかもしれない。
*
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支払方法は、発送の際お知らせします。
知らないことばにであったとき、どうするか。私は調べない。そのうちにわかるだろう、と思う。わからなかったら、たぶんそれは私とは無縁のことばなのだ。知らないままにしておいていい。怠け者なので、そう考える。
須永紀子「きみの島に川が流れ」は、そういう知らないことばから始まっている。
レビヤタンに追われたきみが
逃げかえる島
平坦に過ぎる丘と
疎林のような森があり
以前は友人もいたが
長い無音が水を呼び
時間をかけて川になった
そして、「知らない」を「知らない」ままにして読んだときに、何と言えばいいのだろう。ちょっと変な気持ちになった。
この詩で私がいちばん気に入ったのは「長い無音が水を呼び/時間をかけて川になった」なのだが、それをなぜ気に入ったかというと、「丘」を中心(?)に広がる土地があって、そこに「きみ」は住んでいたことがある。ふるさとだ。そこから離れて住んでいるうちに友人たちと音信がなくなり(無音になり)、そのことがふるさとと別な土地の間に「川」をつくり、ふるさとが「島」になってしまった、と読んで気に入ったのだ。
その川は小さな「川」ではなく、「アマゾン」のように広大な川。向こう岸が見えないくらいの「川」。それはどんどん拡大してゆき、ふるさとから離れた「きみ」の住む街まで水浸しになる。その水に追われて、「きみ」は「島」になってしまった「丘」へ帰って来る。そう読んで、うーん、いいなあ、と思ったのである。
このとき、冒頭の「知らないことば/レビヤタン」は「水/無音/音信なし」と、ほとんど同じものになる。「レビヤタン」は「水」の比喩、あるいは「水」は「レビヤタン」の比喩であり、それは「きみ」を傷つける、「きみ」の生存を危うくするという「動詞」となって動いている。「水」が「レビヤタン」を生み出し、それが「きみ」を襲う。その「襲う水/レビヤタン」から逃れるには、川がつくりだした向こうの土地に住むのではなく、ふるさとへ帰るしかない。なぜなら、水は増えつづけ、「向こうの土地」は浸食されつづける。そう思って読むのである。
でも、そうするとタイトルの「きみの島に川が流れ」が、どうも、論理的におかしい。タイトルはどうしても「島のなかに川が流れる」と読めてしまう。「きみの島のまわりに川が流れ」とは、読めないことはないだろうが、なんだが無理がある。
だが、「レビヤタン」無視して読んでしまう私には、どうしても「川」は「川のなかに島をつくる川」、「島」は「川のなかの島」にしか思えない。もしかすると、「丘」から流れた川の水がどんどん増えて、それが「丘」を囲むようにして、その土地を「島」にしたとも考えられるのだが。そう考えると「路燐的」になるにはなるのだが……。
こんなことを考えるのは、繰り返しになるが「長い無音が水を呼び/時間をかけて川になった」が非常に印象的だからである。「長い無音」と「水」。それをつなげる「呼ぶ」という動詞が、どうしても「呼ぶ人間/友人」との隔たり、疎遠を呼び覚ます。
「無音」が「呼ぶ」のは「水」だけではない。「危害をもたら水/レビヤタン」だけではなく、「きみ」をも「呼ぶ」。「丘(ふるさとの象徴)」が「きみ」を呼ぶ。「友人の途絶えた音信」となって、「きみ」を「呼ぶ」。「危害をもたらす水/レビヤタン」と「友人(ふるさと)/安心をもたらすもの」がどこかでかたく結びついている。反対のものが結びついている。
だからこそ、そこに「詩」があると思うのだが……。
このあと、詩は二連目へとつづく。
岸につながれたボートで
みんな向こうへ渡ってしまい
「じゃあ、またね
実のないことばが
ぱらぱらと足もとに落ちてくる
鳥たちがそれをついばみ
「aui aui
代わりに蹴ちらしてくれる
「きみ」は帰ってきた。しかし、「みんな(友人)」は逆に「丘(島)」を捨てて、どんどん遠ざかる「向こう(岸)」へ渡ってしまった。水が増える(渡らなければならない距離が増える/危険が増える/レビヤタンが増える)前に、「向こう(岸)」へ渡ってしまった……。
どう読んでも「海」とは感じられないのである。「向こう」が「海」の向こうなら、「島」と「向こう岸」の「距離」はかわらない。別に「みんな」で「島」を捨てる必要はないように思える。いつでしも「行き来」できるように思ってしまう。
増える水(レビヤタン)がつくり出す「島」と読むと「実のないことば」が、そのまま「増える水/レビヤタン」にもなる。
「レビヤタン」がどんなふうに「きみ」を「追う」のか、「危害を及ぼすのか」。そのことが書かれず、繰り返し書かれているのが「友人」「無音」「実のないことば」だから、そう読んでしまうのかもしれない。
人は誰でも大事なことを繰り返す。繰り返して、何が大事かを考える。
ひとが消えても
川は川としてあり
島全体が湿って
忘れられた映画のポスターのようだ
下方に並ぶ小さな名前
「そんなひともいたね
ようやく思い出されるタイプの
きみは一人で
生きてきたように死んでゆく
ここでは「消える」「忘れる」という動詞が、「無音」「実のないことば」と重なり合う。
ひとが、「友人」が「きみ」を「忘れる」かもしれない。「忘れ」ながら、「忘れ」たあとど「思い出す」かもしれない。その「思い出された」瞬間に、「きみ」は「生き返る」のか。あるいは「死ぬ」のか。
そんなことは気にしないでいい。
「きみ」は自分が生まれ育った土地(丘/島になってしまった場所)」で、生きる。それだけである。「忘れ」、「忘れたあとで思い出す」というような、「友人」からの「音信/つながり」こそが「レビヤタン」そのものかもしれない。ひとを傷つける、ひとを危険にするものかもしれない。
空の庭、時の径 | |
須永 紀子 | |
書肆山田 |
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谷内修三詩集「注釈」発売中
谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。
なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。