詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

須永紀子「きみの島に川が流れ」

2016-02-03 21:59:33 | 詩(雑誌・同人誌)
須永紀子「きみの島に川が流れ」(「孔雀船」87、2016年01月15日発行)

 知らないことばにであったとき、どうするか。私は調べない。そのうちにわかるだろう、と思う。わからなかったら、たぶんそれは私とは無縁のことばなのだ。知らないままにしておいていい。怠け者なので、そう考える。
 須永紀子「きみの島に川が流れ」は、そういう知らないことばから始まっている。

レビヤタンに追われたきみが
逃げかえる島
平坦に過ぎる丘と
疎林のような森があり
以前は友人もいたが
長い無音が水を呼び
時間をかけて川になった

 そして、「知らない」を「知らない」ままにして読んだときに、何と言えばいいのだろう。ちょっと変な気持ちになった。
 この詩で私がいちばん気に入ったのは「長い無音が水を呼び/時間をかけて川になった」なのだが、それをなぜ気に入ったかというと、「丘」を中心(?)に広がる土地があって、そこに「きみ」は住んでいたことがある。ふるさとだ。そこから離れて住んでいるうちに友人たちと音信がなくなり(無音になり)、そのことがふるさとと別な土地の間に「川」をつくり、ふるさとが「島」になってしまった、と読んで気に入ったのだ。
 その川は小さな「川」ではなく、「アマゾン」のように広大な川。向こう岸が見えないくらいの「川」。それはどんどん拡大してゆき、ふるさとから離れた「きみ」の住む街まで水浸しになる。その水に追われて、「きみ」は「島」になってしまった「丘」へ帰って来る。そう読んで、うーん、いいなあ、と思ったのである。
 このとき、冒頭の「知らないことば/レビヤタン」は「水/無音/音信なし」と、ほとんど同じものになる。「レビヤタン」は「水」の比喩、あるいは「水」は「レビヤタン」の比喩であり、それは「きみ」を傷つける、「きみ」の生存を危うくするという「動詞」となって動いている。「水」が「レビヤタン」を生み出し、それが「きみ」を襲う。その「襲う水/レビヤタン」から逃れるには、川がつくりだした向こうの土地に住むのではなく、ふるさとへ帰るしかない。なぜなら、水は増えつづけ、「向こうの土地」は浸食されつづける。そう思って読むのである。
 でも、そうするとタイトルの「きみの島に川が流れ」が、どうも、論理的におかしい。タイトルはどうしても「島のなかに川が流れる」と読めてしまう。「きみの島のまわりに川が流れ」とは、読めないことはないだろうが、なんだが無理がある。
 だが、「レビヤタン」無視して読んでしまう私には、どうしても「川」は「川のなかに島をつくる川」、「島」は「川のなかの島」にしか思えない。もしかすると、「丘」から流れた川の水がどんどん増えて、それが「丘」を囲むようにして、その土地を「島」にしたとも考えられるのだが。そう考えると「路燐的」になるにはなるのだが……。
 こんなことを考えるのは、繰り返しになるが「長い無音が水を呼び/時間をかけて川になった」が非常に印象的だからである。「長い無音」と「水」。それをつなげる「呼ぶ」という動詞が、どうしても「呼ぶ人間/友人」との隔たり、疎遠を呼び覚ます。
 「無音」が「呼ぶ」のは「水」だけではない。「危害をもたら水/レビヤタン」だけではなく、「きみ」をも「呼ぶ」。「丘(ふるさとの象徴)」が「きみ」を呼ぶ。「友人の途絶えた音信」となって、「きみ」を「呼ぶ」。「危害をもたらす水/レビヤタン」と「友人(ふるさと)/安心をもたらすもの」がどこかでかたく結びついている。反対のものが結びついている。
 だからこそ、そこに「詩」があると思うのだが……。

 このあと、詩は二連目へとつづく。

岸につながれたボートで
みんな向こうへ渡ってしまい
「じゃあ、またね
実のないことばが
ぱらぱらと足もとに落ちてくる
鳥たちがそれをついばみ
「aui aui
代わりに蹴ちらしてくれる

 「きみ」は帰ってきた。しかし、「みんな(友人)」は逆に「丘(島)」を捨てて、どんどん遠ざかる「向こう(岸)」へ渡ってしまった。水が増える(渡らなければならない距離が増える/危険が増える/レビヤタンが増える)前に、「向こう(岸)」へ渡ってしまった……。
 どう読んでも「海」とは感じられないのである。「向こう」が「海」の向こうなら、「島」と「向こう岸」の「距離」はかわらない。別に「みんな」で「島」を捨てる必要はないように思える。いつでしも「行き来」できるように思ってしまう。
 増える水(レビヤタン)がつくり出す「島」と読むと「実のないことば」が、そのまま「増える水/レビヤタン」にもなる。

 「レビヤタン」がどんなふうに「きみ」を「追う」のか、「危害を及ぼすのか」。そのことが書かれず、繰り返し書かれているのが「友人」「無音」「実のないことば」だから、そう読んでしまうのかもしれない。
 人は誰でも大事なことを繰り返す。繰り返して、何が大事かを考える。

ひとが消えても
川は川としてあり
島全体が湿って
忘れられた映画のポスターのようだ
下方に並ぶ小さな名前
「そんなひともいたね
ようやく思い出されるタイプの
きみは一人で
生きてきたように死んでゆく

 ここでは「消える」「忘れる」という動詞が、「無音」「実のないことば」と重なり合う。
 ひとが、「友人」が「きみ」を「忘れる」かもしれない。「忘れ」ながら、「忘れ」たあとど「思い出す」かもしれない。その「思い出された」瞬間に、「きみ」は「生き返る」のか。あるいは「死ぬ」のか。
 そんなことは気にしないでいい。
 「きみ」は自分が生まれ育った土地(丘/島になってしまった場所)」で、生きる。それだけである。「忘れ」、「忘れたあとで思い出す」というような、「友人」からの「音信/つながり」こそが「レビヤタン」そのものかもしれない。ひとを傷つける、ひとを危険にするものかもしれない。


空の庭、時の径
須永 紀子
書肆山田

*

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スコット・クーパー監督「ブラック・スキャンダル」(★★★)

2016-02-03 09:46:14 | 映画
監督 スコット・クーパー 出演 ジョニー・デップ、ジョエル・エドガートン、ベネディクト・カンバーバッチ

 ギャング映画なのか、FBIの映画なのか。どちらでもなく、アメリカの下町の「友情」物語。あるいは、アイリッシュ・アメリカンの「気質」を描いた映画というべきなのか。
 いちばん印象深いのは、最初のエピソード。ジョニー・デップの子分が、ジョニー・デップの店に入ろうとする三人組と揉める。乱闘になる。子分は彼らが店内で放尿したことを知っていて、入店を拒む。その三人組のうちのひとりは、ジョニー・デップの妻の兄弟だった。子分はそれを知らずに三人を拒み、さらに乱闘になったのだが。
 こういうとき、ありふれた映画なら、子分がジョニー・デップに叩きのめされる。しかし、この映画では逆。ジョニー・デップは子分を気に入り、店の用心棒から格上げし、自分のそばに置く。
 なぜ?
 子分は三人組のひとりが、ジョニー・デップの妻の兄弟とは「知らなかった」。彼が知っているのは彼らが店内で放尿したということだけだ。子分は自分が「知っている」ことに従って、忠実に「仕事」をした。「知らない」ことは考慮に入れない。
 この「基準」のぶれのなさを信頼したのである。
 類似したエピソードがそのあとも繰り返される。
 こどもが学校でけんかする。相手を殴る。そのことを知ってジョニー・デップは言う。「殴るのはいい(正しい)。ただし、ひとの見ているところで殴ってはだめ。見られたら、それは事実になる。けれど見られなかったら、それはなかったことになる」。
 幼なじみのFBI捜査官の家で食事する。FBIの仲間がいる。その仲間が焼いたステーキがうまい。「秘訣はなんだ」「一家の秘密のレシピだ」「言えよ」「言えない」「レシピぐらいいいじゃないか」というやりとりのあと、FBIの仲間が「醤油とニンニク」と言うのだが、そのあと「一家の秘密じゃなかったのか」と問いつめる。「言ってよかったのか」と問いつめる。
 これは一種の「からかい」なのだが、本当に「秘密」を守る人間かどうか、それをジョニー・デップは試している。人を信用できるかどうかは、いったん自分が決めた基準を守れるかどうか。そして、その基準は「知る/知らない」ということに深くかかわっている。自分は知っている、相手は知らない。そういう「知る/知らない」の線引きを明確に区別し、境界線を踏み越えないということが大事なのだ。
 さらにフロリダでのシーンもこれにつけくわえることができる。取引相手がジョニー・デップに金の入ったバッグを渡そうとする。ひとごみである。ジョニー・デップはそれを拒絶する。「ひとのいるところで金を俺に渡すな」。誰が見ているかわからない。「知られる」のは、困る。誰も見ていないければ(誰にも知られなければ)、金をもらったことは、なかったことになる。このあと、その大金をジョニー・デップはチンピラに「口止め料だ」と言ってやってしまう。これはそこにいた「みんな」が見ている。みんなに「知られる」。そして、チンピラが「口を割った」とき、彼は殺される。「裏切り」をみんなに「知られた」からである。
 この「知る/知らない」の境界線を揺さぶりながら、映画は展開する。ジョニー・デップと幼なじみのFBI捜査官は「手を組んで」、ボストンにいる「イタリアンマフィア」を壊滅することを狙っている。ジョニー・デップにとってはボストン全域を支配することができる。FBI捜査官マフィアを壊滅させたと評価され、出世する。ふたりとも、「得」をする。そのために「情報」をやりとりする。ただし、その「情報」がジョニー・デップの側で、あるいはFBIの側でどんなふうに活用されたかは、違いに「知らない」ことにする。具体的に口をはさまない。
 ここに、もうひとり、ジョニー・デップの弟が関係してくる。彼は上院議員である。弟がギャングであろうがなかろうが、それぞれに独立した人間だから無関係なのだが、無関係といえるは、互いが何をしているか「知らない」ときだけである。「知らない」ですませるはずのことなのに、ふのふたりの間をFBS捜査官が行き来し、「知っている」にしてしまう。
 だれもが何もかも「知っている」。あるいは「知ってしまう」。さて、どうするか。「知る/知らない」の境界線上に立ったとき、どう行動できる。何を基準に行動するか。
 これが、この映画のテーマである。
 映画の初めに戻る。チンピラ(店の用心棒だった男)の「証言」からはじまる。「知っている」ことを警察/検察(?)に話す。そうすることで自分の罪を軽くし、自分のいのちの安全も要求する。「友情/信義」のために「知らない」とは言い張らない。それが、まあ、ふつうの人間である。
 一方、ジョニー・デップの方はといえば「友情」のなかで「知っている」ことは、「友情」以外の場では「知らない」ことを守り通す。言い換えると「友情/信義」によって結ばれていない相手には、「友情/信義」のなかで何が起きたかは「知らせない」。外部の人間が「知る」必要のないことだからである。これを「任侠」と言い直せば、ヤクザの世界になる。ジョニー・デップは「チンピラ」ではなく、ヤクザを生きている。
 「知っている」人間に対しては、あくまでも「親切」にふるまう。「身内」として生きる。「知っている」を共有し、それを大切にする。しかし「知らない」人間に対しては、けっして「身内」の感覚では接しない。「知らなくていいこと」は「知って」も「知らない」と拒絶する。
 「共有された知っている」を外部に「知らせる」ことは、ジョニー・デップにとっては、「悪」なのである。
 IRAを支援するために武器を密輸する(与える?)エピソードが、そういうことを語っている。「秘密」のはずなのに、積み荷が何であるかを船員が言ってしまう。外部に「知らせ」てしまう。「知っている」を自分のなかに守り通せなかった。そのために処刑される。
 「知る/知らない」「知っているけれど、知らないことにする」というのは、なかなかむずかしい問題である。おおげさなアクションにしてしまうと、「知る/知らない」の緊張関係が見えにくくなる。だから、この映画は、はでなアクションを抑えている。だれかを殺すときも一瞬である。銃を乱射するのはフロリダの不動産王(?)を殺すときだけだが、そのシーンにしても周囲を極力排除して、「場」を切り取っている。
 「地味」すぎる映画だが、「地味」が好きな人にはおもしろいと思う。アイリッシュ気質とはこういうものだったのか、と考えさせられる。IRAの過激さは、こういうところに起因しているかもしれない、とさえ思う。
               (天神東宝6、2016年02月01日)



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