詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岳こう「桜姫」

2016-02-29 09:57:28 | 詩(雑誌・同人誌)
清岳こう「桜姫」(「兆」169 、2016年02月05日発行)

 清岳こう「桜姫」は変な詩である。

残念ながら どうしても好きになれない人がいるものだ
どこが嫌いと訊かれてもあそこがここがあれもとは挙げられない
透きとおった肌の完全無欠に美しい人だが

 書き出しの三行。「どうしても好きになれない人」なのに、その人をめぐって、このあとも詩がつづくのである。ことばがつづくのである。
 うーん、めんどうくさい。
 嫌いなのかなあ。否定したいのかなあ。否定したいなら、ことばをつづける「意味」はなんとなく、わかる。感情が積極的に動くのもわかる。けれど「好きになれない」という「引いた」感じのとき、ことばって動くかなあ。

自分の領分にかかわることには感情むき出しにして誰にも譲らず
自分にかかわりのないことにはうすら笑いを浮かべ知らんぷり
ひがな日音楽室にこもり 夕陽の頃まで音楽室にこもり
ただ ピアノのうねりあるいははげしい連打と
きりりと結ばれた口元たおやかな指の動きだけが想われ

 しつこくことばを動かしている。「論理的」にことばを動かしている。特に一行目を二行目で言い直すところが、「論理的」で「しつこい」。「好きになれない人」のことを、こんなふうに、わざわざ「言い換え」てまで書くということは、どういうことかなあ。
 「想われ」と書いているのだから、実際に見たこと以外も書かれているのだが、その「見ていない」ことも、何と言うか、「論理的」なのだ。あ、説明的か。
 で、その「説明/論理」なんだけれど。
 「ピアノのうねりあるいははげしい連打」「きりりと結ばれた口元たおやかな指の動き」というのは「定型」という感じがしない? 「しつこく」ことばを動かしているわりには、清岳独自の「発見」がない。「きりり→結ぶ→口元」「たおやか→指(の動き)」というのは、言い古された表現。「しつこく」感じるのは、きっと、それが「定型」になっているからだな。「聞いたことがある」という印象がある。つまり、「聞かなくたってわかる」という印象があって、それが「しつこい」や「うるさい」感じに変わるのだろう。一連目の「透きとおった肌の完全無欠に美しい人」も、同じように言えるだろうなあ。

 これが三連目で変わる。

花の中では山茶花が好き
山茶花の中でも校庭の隅に咲いているのが好き
そのひとすじを見上げれば散りいそぐ花びら
何かのひょうしに桜姫が好きといった好きになれなかった人

 「花の中では山茶花が好き/山茶花の中でも校庭の隅に咲いているのが好き」というのは、ゆっくり読めば、いや、読み返せば「好きになれなかった人」が言ったことばだとわかるのだが、最初は清岳のことばかなあ、と思って読んでしまう。
 「完全無欠の人」は「好きになれない」。けれど山茶花が好き。校庭の隅に咲いている山茶花が好き、と清岳は自分自身が好きなものを語っているのかと思った。「好きになれない人」のことを言い続けるのは、ことばの健康にとってよくないからね。
 ところが、四行目になって、あ、「好きになれない人」が言ったのだとわかる。
 この瞬間、私の「肉体」のなかで、ちょっと奇妙なことが起きる。
 「頭」では、たしかに「山茶花が好き」と言ったのは「好きになれない人」なのだが、「肉体」は清岳がそう言っているように思ってしまう。三行目の「見上げれば」ということば、「見上げる」という動詞が清岳自身の「肉体」の動きを伝えてくる。(この一か所だけ、清岳は「ことば」ではなく「肉体」を動かしている。)その「肉体」の動きが見えてしまうので、これは清岳のことばだと勘違いするのである。
 そしてそのとき、私は、清岳は「好きになれない人」そのものになっているとも感じる。単に「好きになれない人」のことばを繰り返しているのではなく、「肉体」で「好きになれない人」の「動き」も繰り返し、その人になっている。「肉体」が重なっている。
 清岳も山茶花が好きなのかもしれない。「好きになれない人」のことばのなかに、花を見上げるその人の「肉体」の動きのなかに、清岳自身がいるのかもしれない。それは意識してこなかった清岳自身なのだが。
 そういう思い出(というか、いま、思い出していること)があって四連目。

音楽室で発見された時 もはや張りつめた気性は抜けていて
床にはフレアースカートとつややかな髪が広がり
心不全だった
物理の山本先生が悲鳴をあげて泣き
巨体を揺すり床をたたきしゃくりあげ
郊外に瀟洒な一戸建て妻に三人の子持ちに
一体何があったのか

 「好きになれない人」の突然の死が書かれたあと、これまた突然に「山本先生」が闖入してくる。ことばが、突然「山本先生」に集中し、「一体何があったのか」と連が閉じられる。
 これが、不思議。
 不思議だけれど、納得してしまうなあ。変な具合に。
 たぶん「山本先生」と「好きになれない人」とのあいだには、複雑な関係があったのだろう。あるいは単純すぎると言った方がいいか。男と女の、だれもが想像してしまう関係が。
 で、そのだれもが想像してしまう単純な関係というのは、人と人が重なること。これを「セックス」ではなく、もっと抽象的にみつめなおすと……。
 ほら、三連目につながらない?
 「花の中では山茶花が好き/山茶花の中でも校庭の隅に咲いているのが好き」ということばのなかで、知らず知らずに重なってしまった清岳と「好きになれない人」の姿にならないだろうか。山茶花を見上げる二人に重ならないだろうか。
 人間は、誰でも、どこかで重なり、どこかで離れていく。「好き」になったり、「好きに」になれなかったり、「嫌い」になったり、「嫌い」なくせに気になったり。重なり方や離れ方はさまざまなのだけれど。

 「好きになれない人」と書きながら、その人のことを、ことばも「肉体(花を見上げるという動き)」も繰り返して思い出している。
 あの三連目が、とてもいいのだ。
 「好き」になる瞬間、「好き」という動きへ動きはじめる可能性のようなものがあって、それが「追悼」になっている。

校庭の丑寅の隅
冬の光へとまっすぐに小枝を伸ばし
淡い光へと伸ばした小枝の先から
ひたすらに散りいそぐ花びら
散りいそぐしかない咲き方もあって

 この最終連には「追悼」にふさわしい「祈り」が動いている。


九十九風
清岳こう
思潮社

*

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