詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井戸川射子「川をすくう」

2016-02-13 09:58:34 | 詩(雑誌・同人誌)
井戸川射子「川をすくう」(「現代詩手帖」2016年02月号)

 井戸川射子「川をすくう」は投稿欄「新人作品」の入選作。文月悠光と朝吹亮二の二人とも入選にしている。その冒頭、

 学校、うん、教室にいるとぽつんと、一つの島に一人ずついる気持ちになる、それがきれいな島ならいいけれど。

 うーん。こういう感覚は持ったことがない。中学校や高校の教室だろうなあ。机と椅子。ひとりずつが離れている。あれが、「島」か……。自分ひとりが孤立しているのではなく、みんながそれぞれ孤立している。左右は、たしかに「通路」があって離れているかもしれないが、前後はたいていくっついていると思う。
 何が、井戸川を「分離」しているのだろう。「孤立」させているのだろう。
 その「島」という「比喩」のあとの「きれいな島」というときの「きれいな」が、不思議だ。「分離/孤立」よりも「きれい」かどうかを気にしている。
 「うん」という、「言い聞かせ」(自分を納得させている?)のことば、声のなかに、不思議な「他者」がいて、その「他者」が「分離/孤立」の感じを強めるのか。「分離/孤立」していながら、それでも「対話」があって、その対話を「きれい」にしたいと願っているのだろうか。
 このあと「学費」を集める「封筒」とか、未納者への手紙の渡し方とかが書かれていて、保健室の描写へとつづく。

保健室の水道、勢い、ぱっと出るお湯に手を入れて、温かさと体だけでこんなに気持ちいい。はい、と言うとカーテンが引かれる、黄緑で四角く仕切られていきなり僕の場所になる、囲まれて横たわる。ベッドでどんな顔をしてもあちらに見えない。

 保健室のベッドも「島」なのだろうか。「通路」の隔たりではなく、カーテンが仕切る。「あちらに見えない」という「隔絶/孤立」が「島」に通じるなあ。「島」は何か、井戸川がもとめている状態なのかもしれない。だから「きれいな島ならいいけれど」という表現が生まれたのだろう。願いが「きれいな」に反映されている。「きれいな」を「どんな顔をしてもあちらに見えない」と言い直しているのかもしれない。「知られない」ことの安心、美しさと言えばいいのかな? それは井戸川には「知られたくない」ということがあるからかもしれない。(これは、あとで触れる。)
 そういう「意味/ストーリー」とは別に、「保健室の水道、勢い、ぱっと出るお湯に手を入れて、温かさと体だけでこんなに気持ちいい。」が、何か、「意味」を超えて、「肉体」に迫ってくるものを持っている。勢いよく出るお湯。その温かさを気持ちいいと感じる。それも「感情」というよりも「体だけで」と書いている。この「肉体感覚」、感情排除した「肉体」のちいさな強調が、何か、せつない。「きれい」は「感情/感覚」に近いが、「温かさ」は「感情」と「肉体」を併せ持つ。その哀れ持つもののなかから「体だけ」と「肉体」を引き離しているところが、せつない。「肉体」が気がかりなのだ。(このとき、「お湯/水道」は「島」のまわりの「海/水」と呼びあうことで、教室と響きあっているかもしれない。)
 さらにことばはつづいている。

ベルトがじゃまで腰を浮かしながら外す、見えるのは学校の天井だけ、熱とふとんからは誰かのにおいがして僕は安心目を閉じる、無事起きられたらまた会える。

 「熱とふとんからは誰かの匂いがして」ということばに、「体だけ」と書いていた「体」が「主役」のように動きはじめる。「熱」はお湯と同じ「触覚/肌」で感じるものだろう。それが「におい/嗅覚/鼻」と結びついてというか、鼻にまでひろがっていく。
 「島」は「孤立/分離」している。保健室のベッドもカーテンで「孤立」している。その「孤立」のなかで、誰かが残していった「熱/におい」にふれている。つながっている。そして「安心」している。
 「孤立」しながら「孤立」していない。
 「孤立」と「接続」のあいだにいて、その関係を、どうにかして「ととのえたい」と思っているのだろう。

 このあと、場面は変わって、母の入院が語られる。

母の入院している病院は、大きいから川沿いから簡単に見えてくる。たどり着くまでの歩道橋はらせん、一回転半、深呼吸したのを覚えている。手すりは下が柵になっていて、そこに白いカスや綿毛が溜まる。軍手か何かはめて、指一本のすき間、す、と絡めとりたい。

 母が入院している病院は「島」かもしれない。入院している母から離れているから「僕」が「島」なのかもしれない。保健室に水道/お湯があったように、こでは「川」が「分離/隔離」を引き出している。「分離/隔離」されているけれど、「橋」をわたって「僕」は母に会いにゆく。
 「僕」が「知られたくない」のは、この母のことかもしれない。「母が病気」であること、というよりも、病気の母を「心配」していること、それを知られたくない。同情されたくない、という思春期の感覚がうごいしいるように感じられる。
 そういう「ストーリー」がひそんでいるように思う。
 保健室のベッドで、「僕」は「誰かの熱/におい」にふれて安心した。病院では母の熱/においにふれることで安心できるのだろう。母はまだ生きているという安心。
 歩道橋の螺旋階段で「深呼吸」するのは、「母の島」に渡る前に、自分自身の「体」を清める/新しくするという感じなのかもしれない。
 そういう「ストーリー」に差し挟まれた、

手すりは下が柵になっていて、そこに白いカスや綿毛が溜まる。軍手が何かはめて、指一本のすき間、す、と絡めとりたい。

 これが、何とも生々しい。「肉体」を激しく刺戟してくる。手摺りの下の汚れ。窓の桟を指で拭うとほこりがついてくる。それをぬぐい取るように、柵の下の汚れを絡めとる。指で直接ではなく、軍手をはめて。しかし、軍手をはめているのは手を汚さないためというよりは、よりきっぱりと汚れを取り払うためだろう。そのときの指の動き、指の腹が感じる感触。そこにはまた、家で見かけた母の仕草が重なるかもしれない。母の肉体の動きを思い出しているのかもしれない。

中指の太さがちょうど良く、軍手はきっと、あみ目に空気といろいろを取り込むだろう。

 何か、そんなふうにして母の「肉体」から「病気」をぬぐい去り、母の肉体に新しい空気(新鮮な空気)を深呼吸させてやりたい。そう感じているのかもしれない。
 「熱/におい/深呼吸」が「空気」ということばで言い直されるとき、そこに「肺」を感じる。触覚から嗅覚へ、それがさらに内部の肺へという動きを感じる。母の病気は「肺」に関係しているかも、という書かれていない「ストーリー」まで感じてしまう。
 このあと、病院の売店で遊ぶ子どもを見ながら「僕も守られるべきだったことを思い出す」とか、「お腹、肌、頭と吐く息、いつか失くすけれどなぜか今持っていて、僕のもの」ということばがつづく。そこには、母と「僕」との関係、いのちのつながりと「肉体」の関係が、絡み合うように書かれている。
 最後の部分、

今日の母と、ベッドを思い出す。ゴミ箱には一緒に食べたアイスの箱が入って、あの小さな窓から外を見て眠る。消えていくものは終わりが見える、こんなにはっきり、と思って平気な人たちを追い抜かす。

 「僕」には「平気な人たち」の見えないものが見える。たとえば「教室の島」とか。「うん」と言い聞かせる対話とか。
 ことばにはできない、ことばにする前に感じてしまう「肉体」が、少しずつ見える。その感じが、なまなましい。読点「、」のつかい方も独特で、その「呼吸」に焦点をあてて読み直すと、もう少し違った感想になるかもしれない。


現代詩手帖 2016年 02 月号 [雑誌]
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思潮社
コメント (3)
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