財部鳥子「航海」(「鶺鴒通信」σ、2015年12月20日発行)
財部鳥子「航海」は船旅と満月との出合いを書いている。
月のうわさを聞き、月を見に甲板に出て、月より先に闇に出合い、そのあと月を発見する。一連目と二連目で繰り返される「幸福」が最後の二連で言い直されているのだが、この幸福をくっきりと縁取るのが三連目である。特に「四囲の太古の闇はごうごうと呻きながら/動かない」が強烈で、その闇を見たからこそ「幸福の月」が金色に輝くのだと思う。
その色彩というか、光と闇の対比というか、「視覚的」な対比とは別に、私は三連目で思わず棒線を引いたことばがある。光と闇の対比以外に、もっと強烈な対比が三連目に隠されていて、その隠されている対比によって「幸福の月」がいっそう輝くのだと思った。
私が棒線を引いたのは、二回出てくる動詞「分かる」である。
この「分かる」は何だろう。どうして、「分かる」のだろう。真暗である。月も見えない。きっと星も見えない。それなのに、なぜ「分かる」のか。
ほんとうは、もっと別な「動詞」なのだ。
「分かる」ではなく「知っている」なのだ。船が北へ進んでいるということ、「目的地」を、「わたし(財部)」は知っている。そういう「旅」だと「知っている」。「頭」で「分かっている」だけである。これは「知識」である。「知識」があることを、「分かる」と勘違いしている。ほんとうに北へ向かっているかどうか、どの方向へ動いているかは、「わたし」は「知らない/分からない」。操船しているわけではないのだから。
同じように、闇の向こう(目的地)がメガロポリスであること、そこでは海猫が眠っているということも「知識」として「知っている」のであって、ほんとうにその先にメガロポリスがあるか、海猫が眠っているかどうか、「分からない」。
そして、この「分かる」が実は「知っている」だと気づき、読み直すとき、ほかのことにも気づく。「わたし」がめざしている「月」についても同じことがいえる。「月がのぼった」(満月らしい)ということは、「わたし」は「ことば」として聞いて知っているだけである。甲板に出れば、満月が見える、ということを「聞いて、知っている」。そう「分かっている」。しかし、これは「肉体」が「分かっている」ことではなく「頭」が「分かっている/知っている」ことである。
これを「闇」が否定する。
すぐに「満月」が目に飛び込んでくるわけではない。「満月」がどこにあるか、「分からない」。「--どこへいったのだろう 幸福なあの満月は?」は「幸福のあの満月はどこへいったのか、分からない/知らない」である。
ほんとうに「分かる」のは、
「北へ進んでいる」かどうかも、実は「分からない」。ただ闇があるということだけは「肉体」で「分かる」。そして、その闇は「動かない」ように感じられる。「ごうごう」という潮の音が聞こえる(二連目)。その「ごうごう」がいまは「太古の闇」の音になっている。「呻き」になっている。
「ごうごう」という音のなかで、「潮」と「太古の闇」がなくなっている。こういうことを「頭」では「混乱」と呼ぶ。しかし、「肉体」の感覚は、こういう「融合/区別のなさ」を、「分節」を越えた真実をつかむ、という。「未分節」の状態で、その「場」をつかんでいる。「潮(今)」と「闇(太古)」が「未分節」のまま、そこにあらわれてきている。
「未分節」だから「分からない」なのだが、「分からない」けれど、それははげしく「肉体」を刺戟してくる。そこから、「ことば」が動く。
誰もいわなかった「ことば」が「わたし(財部)」からあふれてくる。つまり、財部は、新しく世界を「分節」しはじめる。それが、
である。「月の真裏」は「物理的」にありうる。しかし「月の光の真裏」というのは、どうか。存在しない。存在しないけれど、財部がことばにすると、つまり、世界をそういう具合に「分節」すると、その分節に従って、「月の光の真裏」が生まれてくる。「瀰漫する」という動詞を私は知らない(何と読むのかも知らない)が、「満ちあふれる」を突き破ってさらに満ちあふれる感じだろうか。
「知っている/分かっている」と思っていたことを捨てて、「頭」を捨てて、そこにある「闇」と直に向き合う。自分の「肉体」だけで向き合い、世界を「肉体」が感じるままにつかみなおすとき、誰も知らなかった世界が生まれてくる。
この二行のあとにこそ、私は「分かる」を補って読む。
そうすると、「船は北へ進んでいることは分かる」と「金色の真っただなかへ侵入していった(ことが、分かる)」の「分かる」の違いがはっきりするし、最後に「分かる」とということばを書かなかった理由も明確になる。
の「分かる」は「知っている/知っていた」ではない。「知識」ではない。だから二連目でつかってきた「分かる」ということばをつかってしまうと、間違ったことを書くことになる。だから、書かない。
最期の二行に隠されている「分かる」は「知識」ではなく「体験」である。「わたし(財部)」が初めて「体験」したこと。「肉体」が初めて向き合った世界である。財部の「肉体」が生み出した「世界」である。
財部鳥子「航海」は船旅と満月との出合いを書いている。
真鍮のバーのある廊下ですれ違ったのは
甲板で満月を見てきた人たち
踊り場の幸福の樹の下で
--月、月がのぼったのです!
みんなが夢見心地にいう
告げられて わたしは
潮のごうごうと響く甲板へ出ていった
真っ暗闇をそろそろ歩き
甲板の手すりにすがりついた
--どこへいったのだろう 幸福なあの満月は?
船は北へ進んでいることは分かる
あちらの闇にメガロポリスがあることも
海猫が水の果てに眠っていることも
分かるのに
四囲の太古の闇はごうごうと呻きながら
動かない
船は真の闇に侵入していった
ここは月の裏の闇なのだろう
瀰漫する月の光の真裏なのだろう
それから 船は
金色の真っただなかへ侵入していった
月のうわさを聞き、月を見に甲板に出て、月より先に闇に出合い、そのあと月を発見する。一連目と二連目で繰り返される「幸福」が最後の二連で言い直されているのだが、この幸福をくっきりと縁取るのが三連目である。特に「四囲の太古の闇はごうごうと呻きながら/動かない」が強烈で、その闇を見たからこそ「幸福の月」が金色に輝くのだと思う。
その色彩というか、光と闇の対比というか、「視覚的」な対比とは別に、私は三連目で思わず棒線を引いたことばがある。光と闇の対比以外に、もっと強烈な対比が三連目に隠されていて、その隠されている対比によって「幸福の月」がいっそう輝くのだと思った。
私が棒線を引いたのは、二回出てくる動詞「分かる」である。
船は北へ進んでいることは分かる
この「分かる」は何だろう。どうして、「分かる」のだろう。真暗である。月も見えない。きっと星も見えない。それなのに、なぜ「分かる」のか。
ほんとうは、もっと別な「動詞」なのだ。
「分かる」ではなく「知っている」なのだ。船が北へ進んでいるということ、「目的地」を、「わたし(財部)」は知っている。そういう「旅」だと「知っている」。「頭」で「分かっている」だけである。これは「知識」である。「知識」があることを、「分かる」と勘違いしている。ほんとうに北へ向かっているかどうか、どの方向へ動いているかは、「わたし」は「知らない/分からない」。操船しているわけではないのだから。
同じように、闇の向こう(目的地)がメガロポリスであること、そこでは海猫が眠っているということも「知識」として「知っている」のであって、ほんとうにその先にメガロポリスがあるか、海猫が眠っているかどうか、「分からない」。
そして、この「分かる」が実は「知っている」だと気づき、読み直すとき、ほかのことにも気づく。「わたし」がめざしている「月」についても同じことがいえる。「月がのぼった」(満月らしい)ということは、「わたし」は「ことば」として聞いて知っているだけである。甲板に出れば、満月が見える、ということを「聞いて、知っている」。そう「分かっている」。しかし、これは「肉体」が「分かっている」ことではなく「頭」が「分かっている/知っている」ことである。
これを「闇」が否定する。
すぐに「満月」が目に飛び込んでくるわけではない。「満月」がどこにあるか、「分からない」。「--どこへいったのだろう 幸福なあの満月は?」は「幸福のあの満月はどこへいったのか、分からない/知らない」である。
ほんとうに「分かる」のは、
四囲の太古の闇はごうごうと呻きながら
動かない
「北へ進んでいる」かどうかも、実は「分からない」。ただ闇があるということだけは「肉体」で「分かる」。そして、その闇は「動かない」ように感じられる。「ごうごう」という潮の音が聞こえる(二連目)。その「ごうごう」がいまは「太古の闇」の音になっている。「呻き」になっている。
「ごうごう」という音のなかで、「潮」と「太古の闇」がなくなっている。こういうことを「頭」では「混乱」と呼ぶ。しかし、「肉体」の感覚は、こういう「融合/区別のなさ」を、「分節」を越えた真実をつかむ、という。「未分節」の状態で、その「場」をつかんでいる。「潮(今)」と「闇(太古)」が「未分節」のまま、そこにあらわれてきている。
「未分節」だから「分からない」なのだが、「分からない」けれど、それははげしく「肉体」を刺戟してくる。そこから、「ことば」が動く。
誰もいわなかった「ことば」が「わたし(財部)」からあふれてくる。つまり、財部は、新しく世界を「分節」しはじめる。それが、
船は真の闇に侵入していった
ここは月の裏の闇なのだろう
瀰漫する月の光の真裏なのだろう
である。「月の真裏」は「物理的」にありうる。しかし「月の光の真裏」というのは、どうか。存在しない。存在しないけれど、財部がことばにすると、つまり、世界をそういう具合に「分節」すると、その分節に従って、「月の光の真裏」が生まれてくる。「瀰漫する」という動詞を私は知らない(何と読むのかも知らない)が、「満ちあふれる」を突き破ってさらに満ちあふれる感じだろうか。
「知っている/分かっている」と思っていたことを捨てて、「頭」を捨てて、そこにある「闇」と直に向き合う。自分の「肉体」だけで向き合い、世界を「肉体」が感じるままにつかみなおすとき、誰も知らなかった世界が生まれてくる。
それから 船は
金色の真っただなかへ侵入していった
この二行のあとにこそ、私は「分かる」を補って読む。
そうすると、「船は北へ進んでいることは分かる」と「金色の真っただなかへ侵入していった(ことが、分かる)」の「分かる」の違いがはっきりするし、最後に「分かる」とということばを書かなかった理由も明確になる。
金色の真っただなかへ侵入していった(ことが、分かる)
の「分かる」は「知っている/知っていた」ではない。「知識」ではない。だから二連目でつかってきた「分かる」ということばをつかってしまうと、間違ったことを書くことになる。だから、書かない。
最期の二行に隠されている「分かる」は「知識」ではなく「体験」である。「わたし(財部)」が初めて「体験」したこと。「肉体」が初めて向き合った世界である。財部の「肉体」が生み出した「世界」である。
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