詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

滝口悠生「死んでいない者」

2016-02-12 09:04:59 | その他(音楽、小説etc)
滝口悠生「死んでいない者」(「文藝春秋」2016年03月号)

 滝口悠生「死んでいない者」も第 154回芥川賞受賞作。
 この小説は「文体」に凝っている。そして、凝っているだけではなく、ルール違反の文体である。だから、とても読みにくい。
 どこがルール違反か。 438ページ(文藝春秋)。

 たとえば故人は、あそこで重なった寿司桶の数を数えている吉美の父であり、その横で携帯電話を耳に当て、おそらくまだ実家にいる弟の保雄に数珠を持ってきてくれるように頼んでいる多恵の父でもある。もちろんその電話を受けている保雄や、彼らの兄にあたる喪主春寿の父でもある。故人には五人子がいた。

 えっ、五人? 私は読み間違えたのかと思い三度読み返した。家系図(?)までつくってみた。吉美、保雄、多恵、春寿。四人だ。吉美は何番目のこどもかわからないが、他の三人は上から春寿-多恵-保雄である。
 私は、冒頭にもどって、この文章までを二回読み直したが、春寿以外に固有名詞をもった人間は登場していない。
 どうしたって、子は四人である。
 それが 444ページ、故人に十人の孫がいると説明されたあとの文章、

 森夜と海朝は故人の末子の一日出の子だが、その名を目にし、いったいなんと読むのだったか親戚たちは何度聞いても覚えられない。
 
 突然「五人目」の子が登場する。
 ばかばかしくなった。
 「故人には五人子がいた」という文章を読んでいなければ、まだ許せる。「五人」と書いたときに四人しか紹介せずに何ページもたってから五人目を明らかにする。これは、読者をばかにしている。「故人には五人子がいた」を「伏線」と思えばいいのかもしれないが、こんな「目くらまし」みたいな手法で「文体」を飾ってみても「文学」にはならないだろう。
 最初に引用した文でも、「故人は……の父であり、……父でもある。……父でもある」と「父である」が何度も繰り返されたあと、「故人には五人子がいた」と書くのは、あまりにも「ことばの経済学」に反している。「父である」という繰り返しだけではなく、「故人」と「父」を言い直すという「無駄」もしている。
 その繰り返しのあいだに「寿司桶の数を数える」という動作と、「携帯電話をかける」「電話をうける」という動きがあり、その電話のなかに「数珠を持ってきてくれ」という依頼が侵入している。
 むやみに複雑にしている。
 映画に「群像劇」という手法がある。登場人物が大勢いて、それぞれが「過去」を抱えて「いま」を生きている。その「過去」が「いま」にさまざまな輝きを与え、特にストーリーといったものはないのだが、そこに「人生の縮図」が浮かび上がる、という作品。この小説も、そういうものを狙っているということは、わかる。「通夜」をとうして「群像劇」を描こうとしていることはわかるが、こんな「面倒くさい」文体では、「情報量が多い」というよりも「情報が整理されていない」という印象しか引き起こさない。
 人間を描かず、人間の周辺に「情報」をばらまくことで、ことばを間延びさせてるだけである。
 で、この「群像劇」をとおして、では滝口は何が書きたかったのか。ひとはたくさんいても、そのこころの動きは動きは似ている。人間は生まれて、生きて、死んでいくだけだから、こころだっていろいろ違うようでも似ていて、それを重ねることで「人生」そのものが見えるということだろう。
 そのために「親族」には入りきれない(?)ダニエルという外国人の夫、はっちゃんという故人の友達も「薬味」のようにしてつかわれ、それが「重なる人生/重なるこころの動き」を証明するのにつかわれているのだが、これが、何と言えばいいのか、あからさますぎる。
 はっちゃんが故人と敦賀に小旅行にいったときの思い出、というより、その思い出にまつわる思い出。( 490- 491ページ)

 敦賀に行ったのは、かの地に越した同級生の車田晴治が四十をすぎて所帯を持ち、子どもが生まれたその祝いに出向いたのだが、はっちゃんはまだそのことを思い出せない。車田は何年か前に死んだ。遠方ゆえ葬儀には行けず、弔電で済ませた。十は年下だったはずの美しい細君が今どうしているかは知らない。はっちゃんは今そのことを思い出さなければ、もう思い出さないかもしれない。だからといってもう誰も困りはしないだろうが。それに結局松原の浜まで歩いていって何がしたかったのかは今なお思い出せないままだ。
                             
 故人の孫にあたる知花が思い出す小学校の時の担任の思い出。( 492ページ)

いったいこのどうでもよいけれども無視はできない岩島先生のエピソードを、いつ誰に伝えればいいのか。別にそんなに誰かに伝えたいわけではないのだけれど、そのどうでもよさゆえにいつか誰かに伝えなければ、これもまた自分の記憶の彼方に忘れ去られて二度と掘り返せなくなるかもしれないと、思う端から岩島先生はどうでもよさに浸食されていく。自分もまた誰かのどうでもよい記憶としてどこかに存在していて、やがて忘れ去られるものと思われる。

 このページをあまり隔てずに繰り返される「どうでもよい思い出」「思い出さないと思い出でさえなくなるもの」「誰からも忘れ去られるもの」が「人間の一生」であることを、通夜に立ち合ったひとが、それぞれの思いで確かめるのだが、そのときのこころの動き(ことばの動き)があまりにも酷似しているので、これでは「群像劇」にならない。登場人物はけっきょく「ひとり」なのではないか、と思ってしまう。「ひとり(滝口)」の考えたことを複数の人間に分担して語らせているだけという気がしてくる。
 こんな面倒くさいことをせずに、「ひとり」だけを話者にして、もっと「語り」を充実させる方が深みが出るだろう。
 本谷有希子は「他人」をしっかりと描いた。「他人の声」を聞き取り、それを「他人の肉体」として書いたが、滝口は「他人」を描けていない。名前を入れ替えても、読者は奇妙に思わないだろう。

死んでいない者
滝口 悠生
文藝春秋
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