小笠原鳥類「カオドリとしてのフクロウ」(「issue」3、2016年02月01日発行)
小笠原鳥類「カオドリとしてのフクロウ」は「他人のことば」と「自分のことば」を行き来する詩である。
「他人のことば」というのは、たとえば「ポプラディア大図鑑のことば」、つまり「既成のことば」であり、「調べ」たこと。「自分のことば」とは「思ったこと」。
こんな具合。
「既成のことば/調べたことば」と「思ったこと(ば)」のあいだにあるのは何か。どんな「関係」があるのか。よくわからない。ただ「思ったこと(ば)」は、勝手な想像というよりは、小笠原の「過去」であるだろう。小笠原にとって「既成の事実(ことば)」であるだろう。「辞書/既成のことば」と「小笠原自身の既成のことば」が出合って動いているのである。
このふたつのことばの出合い、そこからはじまる動き(ネットワークづくり、脈絡づくり)というのが、きのう読んだ金澤一志「これ、ナイアガラ」の「肉体」と「精神/感覚」の向き合い方とどこかつながるような感じがしておもしろい。自己(過去)を解体しながら、自己の奥にあるもの、なんとか「ことば以前」のものにまで自己を解体し、それまで存在しなかった脈絡(ネットワーク)をつくろうとしているように思えるからである。
「既成のことば/辞書のことば」というのは「分節され、整理されたことば」。「思ったこと(ば)」は、分節されてはいるけれど、まだ「整理されてはいない」。どこか「未分節」のものを含んでいる感じがする。「過去」は完全には整理されていなくて、瞬間瞬間に「いま」という時間に噴出してくる「衝動/本能」のようにも感じられる。「肉体」が動いている、という感じがする。
これが、おもしろい。
規則性があるのか、ないのか、よくわからない。きっと良く読めば、そこに小笠原の「本能/欲望」の形が「わかる」かもしれないが、わからないかもしれない。どっちでもいい。この「ゆらぎ」のなかで、私はかってに小笠原はこういう人間だなあ、と「誤読」するのである。脈絡を支えるどこかに、「なま/肉体」のおがさわらがいるに違いないと想像してみるのである。それを見つけ出したいと思うのである。
そして、次のようなことを考える。
万葉集の「かおどり」が登場する歌を引用したあとの、
小笠原は、こんなふうに書くのだが。
小笠原は、ことばをつかみとるとき、目(漢字)の方が耳(音)に優先しているように見える。ことばを「文字」でつかみとり、自分のものにしてきたのだなあ、と感じる。それが「木材の色」「木の色」に出ているが、何よりも「暗くする」という「動詞」のなかに、強く出ているか。「色の変化」というもの、変化させる行動(肉体の動き)というもを小笠原は知っていて、その動きに小笠原の肉体を重ねることで、色の変化そのものを実感するだけではなく、そのとき小笠原は「琴をつくるひと」にもなっている。つまり小笠原を超越する方法を発見しているとも感じる。
ここをぐいぐい押していけば、きっと小笠原の「本能/欲望」をつきぬけ、「人間存在のあり方」にまで迫ることができるかもしれないと夢想する。
一方、肉体の持ってる他の感覚は、小笠原にどう働いているか。「ことはたなゆひ、ことはたなゆひ、ゆらゆらっと、」は「音(耳)」を少し感じさせるが、すぐに「漢字まじり」のものにとってかわられる。
辞書を読む、というのも目が優先している。小笠原は「目」の詩人であり、目で認識するひとなのだ。
でも、そうすると……。
小笠原の「過去」というのは、やっぱり「既成のことば」になってしまわないか。印刷され、動かないことば。その固定化した既知のことばで、「いま」出合っていることをととのえることになりはしないか。
うーん。
小笠原が視覚優先の詩人、ことばを「漢字/表意」でとらえる詩人だと感じた瞬間、私のことばは突然動かなくなった。
そして、うーん、と唸った瞬間、私は、突然違うことを考えはじめた。小笠原の詩から離れてしまうが、思いついたことを書いておこう。
昨年の「現代詩手帖」7月号で、野村喜和夫、城戸朱理、山田亮太が「ポスト戦後史、20年」という鼎談をしていた。おぼろげな記憶だが、そのとき0年代の詩人以降(2000年以降)、詩のことばがかわってきた、ということが話題になっていた。それが近年、特に著しいというよなことが語られていたと思う。政治、経済の動きとも連動している、というふうに語られていたように思う。
そのとき私がいちばん疑問に思ったというか、わからなかったのが、そのかわったことばが政治とどう連動しているかである。たとえば安倍政権が独裁化(極右化)している。それにともない経済格差が社会のなかで拡大している。そのことに連動して、安倍ふうのことばになっているのか、安倍のことばを支える形でことばが動いているか、それとも反発して違うことばをさがしているのか。その「指摘」が、私には読み取れなかった。安倍のすすめる「戦争をしたい国」に賛同する形でことばがかわっているか、貧富の格差の拡大のなかで「富裕層」をめざしてことばが動いているか、貧困を拡大する政策に対抗するためにことばがかわっているか。
多くの詩人がいるわけだから、全員が「同じ」傾向とはいえないだろう。どの詩人が、どんなふうにかわったのか、それが知りたいなあ。野村、城戸、山田が、それぞれ個別の詩人のことばがどうかわったかを指摘してほしかったなあ、と思う。
たとえば、小笠原のことばは、安倍を支援することばなのか、それとも批判することばになるのか。
そういう具体的な指摘が鼎談のなかにはなかった。「かわった」は抽象的な指摘のままだったように思うのである。
で、さらに飛躍して。
私は詩人のことばがかわってきたかどうか、よくわからない。そんなにたくさん詩を読んでいるわけではないので判断できない。
政治についても、テレビは見ないし(目が悪いから、見ていない)、新聞もほとんど読まないので表面的なことしかいえないが、ことばについて言えば「政治のことば」は非常にかわってきたと感じる。
たとえば最近、安倍は「憲法学者の7割が自衛隊は違憲だと言っている。このままでは立憲主義が成り立たない。だから憲法を改正すべきだ」と主張した。また、高市総務相は「偏向した報道をする放送局の免許を取り消すこともありうる」という発言をした。
私は古い人間なので、こういうことばには、その発言が「憲法違反」「放送法違反」という批判しかできない。憲法は国家権力の暴走から国民を守る(国民の自由を保障する)ものだし、放送法は放送局の認可権を持つ総務省の介入から放送局を守る(包装の自由を保障する)もの、法律はそもそも弱者を守る(自由を守る)ためのものであって、権力が国民(弱者)を支配するためのものではないと思う。ある政策を実施し、その政策が正しいと主張するために憲法の解釈を変える、憲法そのものをかえてしまうというのは、国家権力の暴走、国家によるクーデターであると思う。完全に間違っていることだと思う。
安倍の発言も、高市の発言も、昔なら「辞任」問題になったと思うが、いまは野党の追及も非常になまぬるい。安倍や高市のことばをたたき壊すことばをもっていない。突き破っていく論理を持っていない。
安倍は、憲法や法律がどういうものであるか、という「理念」をことばにするのをやめてしまって、「現実」を優先させて憲法、法律の「解釈(理念)」を変更して平気である。政治家(権力者)のことばが、激しく変質してしまっている。その激変ぶりに、国中がふりまわされている。
少なくとも野党は完全にふりまわされている。「理念」を語ることさえ、忘れてしまっている。
こういう安倍一派のことばに、詩人のことばは、どう立ち向かえるのか。
0年代以降の詩人たちは、どう立ち向かい、自分のことばを鍛えなおしているのか。それが、私には、わからない。
強引に、小笠原のことばにもどってみる。
小笠原は「辞書のことば(既成のことば)」に対して、小笠原が辞書以外で読んできたことば(過去のことば)で向き合っている。「辞書のことば」はいわば「権威のことば(権力のことば)」である。その「権力/権威」に対して、小笠原個人の読書体験(言語体験)をぶつけることで、「権威/権力」を揺さぶっていると言うことができるかもしれない。
一種の無秩序、アナーキー状態を呼び起こそうとしているのかもしれない。あらゆることばは等価である、権威のヒエラルキーの存在を否定するという方向へ行こうとしているのかもしれない。
だから、楽しい。
「権力/権威」のことばよりも、「個人的体験/個人的感性からの誤読」の方が楽しい、その楽しさを打ち出すことで、「権力/権威」から自由になろうとしている、と言い直すこともできる。
だが、ほんとうに、そうなのか。
たしかに「辞書のことば」に対しては、この方法は有効である。読んでいて、とても楽しいから、有効であると私は言ってしまう。
だけれど、いま現実に起きている「政治のことば」(安倍の繰り出すむちゃくちゃな、理論を逸脱したことば)と戦い、そのことばを突き破るには、小笠原のように「漢字(目で見ることば)」でいいのかなあ、とふいに思ったりするのである。
「木材の色を暗くする」の「暗くする」という動きには、何か、「漢字/表意」の攪乱以上のものがあると感じるが、小笠原はそのことに対してどれくらい自覚的なのかよくわからない。
詩のことばは安倍のことばと向き合う必要はないかもしれない。ないかもしれないが、ちょっと考えてしまう。
このごろ。
小笠原鳥類「カオドリとしてのフクロウ」は「他人のことば」と「自分のことば」を行き来する詩である。
今回はいろいろなフクロウについて、ポプラディア大図鑑から出発して--出発して--出発して--調べて、思ったことを書く。
「他人のことば」というのは、たとえば「ポプラディア大図鑑のことば」、つまり「既成のことば」であり、「調べ」たこと。「自分のことば」とは「思ったこと」。
こんな具合。
ポプラディア大図鑑の鳥には、フクロウについて、こう書いてあったのである「フクロウのなかまは、南極大陸をのぞく世界中にくらし、」南極にはペンギンがいた。南極には、コケが、少し発生していたかもしれない。南極を歩く人がいて、ペンギンのように歩いた。フクロウは歩くかどうか、知らない--「その多くが夜行性で、するどいくちばしとかぎづめをもつ動物食です。ひらたい顔は「顔盤」とよばれ、」人間はペンギンのように歩く、フクロウのような猿のような人間だ。
かおどり、という語を、思い出す。カオドリと発音する(かもめ?)の古語「かほどり」で、『ベネッセ古語辞典』(ベネッセコーポレーション、一九七七)によると「【容鳥・貌鳥】」で、「古くは「かほとり」」で、かおとり、かおとり、と、発音すると、クチバシを食べながら歩いている。そしてカオドリは「語義未詳。」わからないのである。
「既成のことば/調べたことば」と「思ったこと(ば)」のあいだにあるのは何か。どんな「関係」があるのか。よくわからない。ただ「思ったこと(ば)」は、勝手な想像というよりは、小笠原の「過去」であるだろう。小笠原にとって「既成の事実(ことば)」であるだろう。「辞書/既成のことば」と「小笠原自身の既成のことば」が出合って動いているのである。
このふたつのことばの出合い、そこからはじまる動き(ネットワークづくり、脈絡づくり)というのが、きのう読んだ金澤一志「これ、ナイアガラ」の「肉体」と「精神/感覚」の向き合い方とどこかつながるような感じがしておもしろい。自己(過去)を解体しながら、自己の奥にあるもの、なんとか「ことば以前」のものにまで自己を解体し、それまで存在しなかった脈絡(ネットワーク)をつくろうとしているように思えるからである。
「既成のことば/辞書のことば」というのは「分節され、整理されたことば」。「思ったこと(ば)」は、分節されてはいるけれど、まだ「整理されてはいない」。どこか「未分節」のものを含んでいる感じがする。「過去」は完全には整理されていなくて、瞬間瞬間に「いま」という時間に噴出してくる「衝動/本能」のようにも感じられる。「肉体」が動いている、という感じがする。
これが、おもしろい。
規則性があるのか、ないのか、よくわからない。きっと良く読めば、そこに小笠原の「本能/欲望」の形が「わかる」かもしれないが、わからないかもしれない。どっちでもいい。この「ゆらぎ」のなかで、私はかってに小笠原はこういう人間だなあ、と「誤読」するのである。脈絡を支えるどこかに、「なま/肉体」のおがさわらがいるに違いないと想像してみるのである。それを見つけ出したいと思うのである。
そして、次のようなことを考える。
万葉集の「かおどり」が登場する歌を引用したあとの、
最後の部分が「ことはたなゆひ」(「許等波多奈由比」)だ、注によると、この部分も「未詳。」であるそうだ、万葉集にはわからないことが多い。多い波と波の間が等しくて、そうであることを科学のこどもたちが合唱の声で許すと、奈良県の学者が波が発生する理由を他の場所と比べている、ということだろう物理(よくわからない)。私は物理が苦手だ、私は物理が苦手だ、ことはたなゆひ、ことはたなゆひ、ゆらゆらっと、琴は棚油火、琴を作る人は、琴の表面を燃やして木材の色を暗くする。フクロウは木の色であるなー、フクロウの長歌なんだろう。
小笠原は、こんなふうに書くのだが。
小笠原は、ことばをつかみとるとき、目(漢字)の方が耳(音)に優先しているように見える。ことばを「文字」でつかみとり、自分のものにしてきたのだなあ、と感じる。それが「木材の色」「木の色」に出ているが、何よりも「暗くする」という「動詞」のなかに、強く出ているか。「色の変化」というもの、変化させる行動(肉体の動き)というもを小笠原は知っていて、その動きに小笠原の肉体を重ねることで、色の変化そのものを実感するだけではなく、そのとき小笠原は「琴をつくるひと」にもなっている。つまり小笠原を超越する方法を発見しているとも感じる。
ここをぐいぐい押していけば、きっと小笠原の「本能/欲望」をつきぬけ、「人間存在のあり方」にまで迫ることができるかもしれないと夢想する。
一方、肉体の持ってる他の感覚は、小笠原にどう働いているか。「ことはたなゆひ、ことはたなゆひ、ゆらゆらっと、」は「音(耳)」を少し感じさせるが、すぐに「漢字まじり」のものにとってかわられる。
辞書を読む、というのも目が優先している。小笠原は「目」の詩人であり、目で認識するひとなのだ。
でも、そうすると……。
小笠原の「過去」というのは、やっぱり「既成のことば」になってしまわないか。印刷され、動かないことば。その固定化した既知のことばで、「いま」出合っていることをととのえることになりはしないか。
うーん。
小笠原が視覚優先の詩人、ことばを「漢字/表意」でとらえる詩人だと感じた瞬間、私のことばは突然動かなくなった。
そして、うーん、と唸った瞬間、私は、突然違うことを考えはじめた。小笠原の詩から離れてしまうが、思いついたことを書いておこう。
昨年の「現代詩手帖」7月号で、野村喜和夫、城戸朱理、山田亮太が「ポスト戦後史、20年」という鼎談をしていた。おぼろげな記憶だが、そのとき0年代の詩人以降(2000年以降)、詩のことばがかわってきた、ということが話題になっていた。それが近年、特に著しいというよなことが語られていたと思う。政治、経済の動きとも連動している、というふうに語られていたように思う。
そのとき私がいちばん疑問に思ったというか、わからなかったのが、そのかわったことばが政治とどう連動しているかである。たとえば安倍政権が独裁化(極右化)している。それにともない経済格差が社会のなかで拡大している。そのことに連動して、安倍ふうのことばになっているのか、安倍のことばを支える形でことばが動いているか、それとも反発して違うことばをさがしているのか。その「指摘」が、私には読み取れなかった。安倍のすすめる「戦争をしたい国」に賛同する形でことばがかわっているか、貧富の格差の拡大のなかで「富裕層」をめざしてことばが動いているか、貧困を拡大する政策に対抗するためにことばがかわっているか。
多くの詩人がいるわけだから、全員が「同じ」傾向とはいえないだろう。どの詩人が、どんなふうにかわったのか、それが知りたいなあ。野村、城戸、山田が、それぞれ個別の詩人のことばがどうかわったかを指摘してほしかったなあ、と思う。
たとえば、小笠原のことばは、安倍を支援することばなのか、それとも批判することばになるのか。
そういう具体的な指摘が鼎談のなかにはなかった。「かわった」は抽象的な指摘のままだったように思うのである。
で、さらに飛躍して。
私は詩人のことばがかわってきたかどうか、よくわからない。そんなにたくさん詩を読んでいるわけではないので判断できない。
政治についても、テレビは見ないし(目が悪いから、見ていない)、新聞もほとんど読まないので表面的なことしかいえないが、ことばについて言えば「政治のことば」は非常にかわってきたと感じる。
たとえば最近、安倍は「憲法学者の7割が自衛隊は違憲だと言っている。このままでは立憲主義が成り立たない。だから憲法を改正すべきだ」と主張した。また、高市総務相は「偏向した報道をする放送局の免許を取り消すこともありうる」という発言をした。
私は古い人間なので、こういうことばには、その発言が「憲法違反」「放送法違反」という批判しかできない。憲法は国家権力の暴走から国民を守る(国民の自由を保障する)ものだし、放送法は放送局の認可権を持つ総務省の介入から放送局を守る(包装の自由を保障する)もの、法律はそもそも弱者を守る(自由を守る)ためのものであって、権力が国民(弱者)を支配するためのものではないと思う。ある政策を実施し、その政策が正しいと主張するために憲法の解釈を変える、憲法そのものをかえてしまうというのは、国家権力の暴走、国家によるクーデターであると思う。完全に間違っていることだと思う。
安倍の発言も、高市の発言も、昔なら「辞任」問題になったと思うが、いまは野党の追及も非常になまぬるい。安倍や高市のことばをたたき壊すことばをもっていない。突き破っていく論理を持っていない。
安倍は、憲法や法律がどういうものであるか、という「理念」をことばにするのをやめてしまって、「現実」を優先させて憲法、法律の「解釈(理念)」を変更して平気である。政治家(権力者)のことばが、激しく変質してしまっている。その激変ぶりに、国中がふりまわされている。
少なくとも野党は完全にふりまわされている。「理念」を語ることさえ、忘れてしまっている。
こういう安倍一派のことばに、詩人のことばは、どう立ち向かえるのか。
0年代以降の詩人たちは、どう立ち向かい、自分のことばを鍛えなおしているのか。それが、私には、わからない。
強引に、小笠原のことばにもどってみる。
小笠原は「辞書のことば(既成のことば)」に対して、小笠原が辞書以外で読んできたことば(過去のことば)で向き合っている。「辞書のことば」はいわば「権威のことば(権力のことば)」である。その「権力/権威」に対して、小笠原個人の読書体験(言語体験)をぶつけることで、「権威/権力」を揺さぶっていると言うことができるかもしれない。
一種の無秩序、アナーキー状態を呼び起こそうとしているのかもしれない。あらゆることばは等価である、権威のヒエラルキーの存在を否定するという方向へ行こうとしているのかもしれない。
だから、楽しい。
「権力/権威」のことばよりも、「個人的体験/個人的感性からの誤読」の方が楽しい、その楽しさを打ち出すことで、「権力/権威」から自由になろうとしている、と言い直すこともできる。
だが、ほんとうに、そうなのか。
たしかに「辞書のことば」に対しては、この方法は有効である。読んでいて、とても楽しいから、有効であると私は言ってしまう。
だけれど、いま現実に起きている「政治のことば」(安倍の繰り出すむちゃくちゃな、理論を逸脱したことば)と戦い、そのことばを突き破るには、小笠原のように「漢字(目で見ることば)」でいいのかなあ、とふいに思ったりするのである。
「木材の色を暗くする」の「暗くする」という動きには、何か、「漢字/表意」の攪乱以上のものがあると感じるが、小笠原はそのことに対してどれくらい自覚的なのかよくわからない。
詩のことばは安倍のことばと向き合う必要はないかもしれない。ないかもしれないが、ちょっと考えてしまう。
このごろ。
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