松尾静明「夏日」(「折々の」37、2016年03月01日発行)
松尾静明「夏日」はタイトルどおり夏の日のことを書いている。
この「美味しい死」が奇妙に気になってしまった。
蝉の死骸に蟻が群がっているのは、私も見たことがある。蝉ではなく、蝶とか、ミミズの場合もある。そのとき、「こんなものを食べてうまいんだろうか」と思うことはあるかもしれない。そんな軽口を友達とやりとりしたこともあったかもしれない。だから、とくに珍しいことを書いているようでもないのだけれど。
でも、気になった。
「美味しい死」と松尾が書くとき、松尾は「こんなもの(蝉の死骸)が美味しいんだろうか」という想像を突き抜けている。「美味しい」と思っている。といっても、松尾にとって「美味しい」というわけではない。松尾は「美味しい」と書くとき、蟻になっている。
で、蟻になりながら「美味しい」というだけではなく、「美味しい死」と言うのだが。
うーん、ここだな。つまずくというか、気になってしまったのは。あるいは、詩があるとすれば、ここにあるのだな、と思ったといえばいいのか。
もし私が蟻ならば、「美味しい」とは思っても、「美味しい死」とは思わないだろう。「美味しい食べ物」と思うだけだろう。
「死」はあくまで、松尾の「概念」である。見方である。
「美味しい死」と書くとき、松尾は蟻であると同時に松尾自身でもある。
これが、おもしろい。
詩人はよくばりなのだ。
詩は(現代詩は)、かけ離れたものの突然の出合い、ということができる。これはシュールレアリスムの「定義」だが、「芸術」の定義、詩の定義でもあるだろう。
いま、松尾は「蟻」という「比喩」を借りて、「生きるための欲望(美味しい)」と「死」というものを「出合わせている」。松尾の「肉体」のなかで出合わせ、松尾の「肉体」を詩にしているといえる。
ただ、こうしたかけ離れたものを結合させたままにするのは、とてもむずかしい。
この三連目は、何と言えばいいのか、「肉体」を失っている。
「美味しい死」というのはかけ離れたものの結びつきであり、かけ離れたものの結びつきであるがゆえに「観念」に似ているが(観念がかけ離れたものを結びつけるのである)、「美味しい」というひとことで「観念」を「肉体」にひきずりおろしている。その結果、「死」も「肉体」のできごとになっているのだが、ここでは、そういう「肉体」は存在していない。
蝉が羽だけ残して食べつくされている。その過程を松尾が見ていたのかどうか、わからない。たぶん、そんな悠長なことはしないだろう。想像したのだろう。蝉が食べつくされたら、羽が残る。(きっと、羽は「まずい」のである。)そして羽と羽との「あいだ」には何もないが、そこには「かたち(蝉の頭、胴体、足)」があったはずである。その「ない」けれど「あったはず」のものを、「かたち」として松尾は思い浮かべている。そのとき「思い浮かべる」の「主語」は「肉体」ではなく「頭」である。つまり「概念」である。(精神と言ってもいいかもしれないが……。)
「概念」の運動(ことばの動き)は美しい。その美しさのなかには「抒情」が準備されている。
しかし。
この美しさは「美味しい死」ほど、強い印象を残さない。
ここに、「抒情詩」の問題が凝縮されているように感じる。
「美味しい死」というのは完全な嘘。つまり、それを松尾は確かめたわけではない。おそらく誰も蝉の死(死骸)が美味しいかどうか、確かめることはない。蟻が食べるから、蟻には「美味しい」と想像しているだけだ。蟻に聞いたわけでも、自分で確かめたわけでもいなから、これは「嘘」と言える。
一方、蟻に食べられてしまった蝉というものがある。これは「事実」。そこには蝉の形があった、というのは「嘘」ではなく「事実」。「事実」であるにもかかわらず、それが「肉体」に響いてこない。その「事実」に「肉体」がどう参加していいのか、わからない。「目」が、「形を見た記憶」が、「蝉の形」に参加するといえばするのかもしれないが、どうも「手触り」がない。「論理がつくりだす事実」という感じの方が強い。「論理」というものが動かなければ、そこに「蝉の形」は存在しない。
意地悪ないい方をするなら、蝉が蟻によって食べられはじめ、その形がなくなるまで、それを見るひとなど、滅多にいないということである。「肉体」をその場にとどめておいて、変化を「目」で確認するひとなどいない。「肉体」で時間をかけて確認するかわりに、「論理」で「事実」をつくりだしている。
ここに書かれている「事実」は「事実」だとしても、「虚構=嘘」なのである。「抒情詩」は、多くの場合、こういう「嘘」といっしょに動いている。
「論理」がつくりだした「嘘=虚構」を「イメージ」と呼びかえてみると、「抒情詩」の問題が明確になるかもしれない。論理がつくりだす「イメージ」は、たいていの場合、「美しい」。松尾の詩にもどっていえば、「かたちがあった」というのが「イメージ」。そのとき「かたち」は決して腐敗していない。崩れていない。思い浮かべるのは「死んだ直後(ほとんど生きている)」の「かたち」である。「死」は、そのとき、忘れ去られている。
「美味しい死」は奇妙、とても変。変だが、それは、私には「いや」ではない。何か納得させられるものがある。「肉体」があるから、納得してしまう。
しかし、この三連目は、美しいし、論理的にも「正しい」のだけれど、その「正しさ」が、私には「うさんくさく」感じられてしまう。「いやだなあ」と思ってしまう。
このあと、詩は、また変化する。
この四連目は、気持ちがいい。きっと「傷のない」ということば、それが「よい天気」と結びついているのが気持ちがいいのだ。
「蝉のかたち」という「論理」でつくりだされたものが消し去られ、何もない。「傷のない」は「形のない」に通じ、目で見た「事実」であ。そして「傷のない=形のない」は「ない」こと、つまり「無」に通じる。「ナンセンス」である。「論理」を拒絶している。それが、とてもさっぱりしている。
このあと、詩はさらに変化するが、私は、その部分も好きではない。「美味しい死」と「傷のない よい天気」というふたつのことばが中心になって動くといいのになあ、と残念な感じがする詩なのだった。
松尾静明「夏日」はタイトルどおり夏の日のことを書いている。
夏の陽が 地表で白く跳ねている
腹を見せて転がっている蝉に
蟻が群がりはじめる 美味しい死
この「美味しい死」が奇妙に気になってしまった。
蝉の死骸に蟻が群がっているのは、私も見たことがある。蝉ではなく、蝶とか、ミミズの場合もある。そのとき、「こんなものを食べてうまいんだろうか」と思うことはあるかもしれない。そんな軽口を友達とやりとりしたこともあったかもしれない。だから、とくに珍しいことを書いているようでもないのだけれど。
でも、気になった。
「美味しい死」と松尾が書くとき、松尾は「こんなもの(蝉の死骸)が美味しいんだろうか」という想像を突き抜けている。「美味しい」と思っている。といっても、松尾にとって「美味しい」というわけではない。松尾は「美味しい」と書くとき、蟻になっている。
で、蟻になりながら「美味しい」というだけではなく、「美味しい死」と言うのだが。
うーん、ここだな。つまずくというか、気になってしまったのは。あるいは、詩があるとすれば、ここにあるのだな、と思ったといえばいいのか。
もし私が蟻ならば、「美味しい」とは思っても、「美味しい死」とは思わないだろう。「美味しい食べ物」と思うだけだろう。
「死」はあくまで、松尾の「概念」である。見方である。
「美味しい死」と書くとき、松尾は蟻であると同時に松尾自身でもある。
これが、おもしろい。
詩人はよくばりなのだ。
詩は(現代詩は)、かけ離れたものの突然の出合い、ということができる。これはシュールレアリスムの「定義」だが、「芸術」の定義、詩の定義でもあるだろう。
いま、松尾は「蟻」という「比喩」を借りて、「生きるための欲望(美味しい)」と「死」というものを「出合わせている」。松尾の「肉体」のなかで出合わせ、松尾の「肉体」を詩にしているといえる。
ただ、こうしたかけ離れたものを結合させたままにするのは、とてもむずかしい。
やがて
すっかり食べつくされた蝉の
残された二枚の羽が
ここに たしかに
かたちがあったことをふるわせて
この三連目は、何と言えばいいのか、「肉体」を失っている。
「美味しい死」というのはかけ離れたものの結びつきであり、かけ離れたものの結びつきであるがゆえに「観念」に似ているが(観念がかけ離れたものを結びつけるのである)、「美味しい」というひとことで「観念」を「肉体」にひきずりおろしている。その結果、「死」も「肉体」のできごとになっているのだが、ここでは、そういう「肉体」は存在していない。
蝉が羽だけ残して食べつくされている。その過程を松尾が見ていたのかどうか、わからない。たぶん、そんな悠長なことはしないだろう。想像したのだろう。蝉が食べつくされたら、羽が残る。(きっと、羽は「まずい」のである。)そして羽と羽との「あいだ」には何もないが、そこには「かたち(蝉の頭、胴体、足)」があったはずである。その「ない」けれど「あったはず」のものを、「かたち」として松尾は思い浮かべている。そのとき「思い浮かべる」の「主語」は「肉体」ではなく「頭」である。つまり「概念」である。(精神と言ってもいいかもしれないが……。)
「概念」の運動(ことばの動き)は美しい。その美しさのなかには「抒情」が準備されている。
しかし。
この美しさは「美味しい死」ほど、強い印象を残さない。
ここに、「抒情詩」の問題が凝縮されているように感じる。
「美味しい死」というのは完全な嘘。つまり、それを松尾は確かめたわけではない。おそらく誰も蝉の死(死骸)が美味しいかどうか、確かめることはない。蟻が食べるから、蟻には「美味しい」と想像しているだけだ。蟻に聞いたわけでも、自分で確かめたわけでもいなから、これは「嘘」と言える。
一方、蟻に食べられてしまった蝉というものがある。これは「事実」。そこには蝉の形があった、というのは「嘘」ではなく「事実」。「事実」であるにもかかわらず、それが「肉体」に響いてこない。その「事実」に「肉体」がどう参加していいのか、わからない。「目」が、「形を見た記憶」が、「蝉の形」に参加するといえばするのかもしれないが、どうも「手触り」がない。「論理がつくりだす事実」という感じの方が強い。「論理」というものが動かなければ、そこに「蝉の形」は存在しない。
意地悪ないい方をするなら、蝉が蟻によって食べられはじめ、その形がなくなるまで、それを見るひとなど、滅多にいないということである。「肉体」をその場にとどめておいて、変化を「目」で確認するひとなどいない。「肉体」で時間をかけて確認するかわりに、「論理」で「事実」をつくりだしている。
ここに書かれている「事実」は「事実」だとしても、「虚構=嘘」なのである。「抒情詩」は、多くの場合、こういう「嘘」といっしょに動いている。
「論理」がつくりだした「嘘=虚構」を「イメージ」と呼びかえてみると、「抒情詩」の問題が明確になるかもしれない。論理がつくりだす「イメージ」は、たいていの場合、「美しい」。松尾の詩にもどっていえば、「かたちがあった」というのが「イメージ」。そのとき「かたち」は決して腐敗していない。崩れていない。思い浮かべるのは「死んだ直後(ほとんど生きている)」の「かたち」である。「死」は、そのとき、忘れ去られている。
「美味しい死」は奇妙、とても変。変だが、それは、私には「いや」ではない。何か納得させられるものがある。「肉体」があるから、納得してしまう。
しかし、この三連目は、美しいし、論理的にも「正しい」のだけれど、その「正しさ」が、私には「うさんくさく」感じられてしまう。「いやだなあ」と思ってしまう。
このあと、詩は、また変化する。
風が 羽を持ち去ると
そこは
傷のない よい天気
この四連目は、気持ちがいい。きっと「傷のない」ということば、それが「よい天気」と結びついているのが気持ちがいいのだ。
「蝉のかたち」という「論理」でつくりだされたものが消し去られ、何もない。「傷のない」は「形のない」に通じ、目で見た「事実」であ。そして「傷のない=形のない」は「ない」こと、つまり「無」に通じる。「ナンセンス」である。「論理」を拒絶している。それが、とてもさっぱりしている。
このあと、詩はさらに変化するが、私は、その部分も好きではない。「美味しい死」と「傷のない よい天気」というふたつのことばが中心になって動くといいのになあ、と残念な感じがする詩なのだった。
不去不来 (1980年) | |
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