詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾静明「夏日」

2016-02-28 21:07:02 | 詩(雑誌・同人誌)
松尾静明「夏日」(「折々の」37、2016年03月01日発行)

 松尾静明「夏日」はタイトルどおり夏の日のことを書いている。

夏の陽が 地表で白く跳ねている

腹を見せて転がっている蝉に
蟻が群がりはじめる 美味しい死

 この「美味しい死」が奇妙に気になってしまった。
 蝉の死骸に蟻が群がっているのは、私も見たことがある。蝉ではなく、蝶とか、ミミズの場合もある。そのとき、「こんなものを食べてうまいんだろうか」と思うことはあるかもしれない。そんな軽口を友達とやりとりしたこともあったかもしれない。だから、とくに珍しいことを書いているようでもないのだけれど。
 でも、気になった。
 「美味しい死」と松尾が書くとき、松尾は「こんなもの(蝉の死骸)が美味しいんだろうか」という想像を突き抜けている。「美味しい」と思っている。といっても、松尾にとって「美味しい」というわけではない。松尾は「美味しい」と書くとき、蟻になっている。
 で、蟻になりながら「美味しい」というだけではなく、「美味しい死」と言うのだが。
 うーん、ここだな。つまずくというか、気になってしまったのは。あるいは、詩があるとすれば、ここにあるのだな、と思ったといえばいいのか。
 もし私が蟻ならば、「美味しい」とは思っても、「美味しい死」とは思わないだろう。「美味しい食べ物」と思うだけだろう。
 「死」はあくまで、松尾の「概念」である。見方である。
 「美味しい死」と書くとき、松尾は蟻であると同時に松尾自身でもある。
 これが、おもしろい。

 詩人はよくばりなのだ。

 詩は(現代詩は)、かけ離れたものの突然の出合い、ということができる。これはシュールレアリスムの「定義」だが、「芸術」の定義、詩の定義でもあるだろう。
 いま、松尾は「蟻」という「比喩」を借りて、「生きるための欲望(美味しい)」と「死」というものを「出合わせている」。松尾の「肉体」のなかで出合わせ、松尾の「肉体」を詩にしているといえる。
 ただ、こうしたかけ離れたものを結合させたままにするのは、とてもむずかしい。

やがて
すっかり食べつくされた蝉の
残された二枚の羽が
ここに たしかに
かたちがあったことをふるわせて

 この三連目は、何と言えばいいのか、「肉体」を失っている。
 「美味しい死」というのはかけ離れたものの結びつきであり、かけ離れたものの結びつきであるがゆえに「観念」に似ているが(観念がかけ離れたものを結びつけるのである)、「美味しい」というひとことで「観念」を「肉体」にひきずりおろしている。その結果、「死」も「肉体」のできごとになっているのだが、ここでは、そういう「肉体」は存在していない。
 蝉が羽だけ残して食べつくされている。その過程を松尾が見ていたのかどうか、わからない。たぶん、そんな悠長なことはしないだろう。想像したのだろう。蝉が食べつくされたら、羽が残る。(きっと、羽は「まずい」のである。)そして羽と羽との「あいだ」には何もないが、そこには「かたち(蝉の頭、胴体、足)」があったはずである。その「ない」けれど「あったはず」のものを、「かたち」として松尾は思い浮かべている。そのとき「思い浮かべる」の「主語」は「肉体」ではなく「頭」である。つまり「概念」である。(精神と言ってもいいかもしれないが……。)
 「概念」の運動(ことばの動き)は美しい。その美しさのなかには「抒情」が準備されている。
 しかし。
 この美しさは「美味しい死」ほど、強い印象を残さない。
 ここに、「抒情詩」の問題が凝縮されているように感じる。
 「美味しい死」というのは完全な嘘。つまり、それを松尾は確かめたわけではない。おそらく誰も蝉の死(死骸)が美味しいかどうか、確かめることはない。蟻が食べるから、蟻には「美味しい」と想像しているだけだ。蟻に聞いたわけでも、自分で確かめたわけでもいなから、これは「嘘」と言える。
 一方、蟻に食べられてしまった蝉というものがある。これは「事実」。そこには蝉の形があった、というのは「嘘」ではなく「事実」。「事実」であるにもかかわらず、それが「肉体」に響いてこない。その「事実」に「肉体」がどう参加していいのか、わからない。「目」が、「形を見た記憶」が、「蝉の形」に参加するといえばするのかもしれないが、どうも「手触り」がない。「論理がつくりだす事実」という感じの方が強い。「論理」というものが動かなければ、そこに「蝉の形」は存在しない。
 意地悪ないい方をするなら、蝉が蟻によって食べられはじめ、その形がなくなるまで、それを見るひとなど、滅多にいないということである。「肉体」をその場にとどめておいて、変化を「目」で確認するひとなどいない。「肉体」で時間をかけて確認するかわりに、「論理」で「事実」をつくりだしている。
 ここに書かれている「事実」は「事実」だとしても、「虚構=嘘」なのである。「抒情詩」は、多くの場合、こういう「嘘」といっしょに動いている。
 「論理」がつくりだした「嘘=虚構」を「イメージ」と呼びかえてみると、「抒情詩」の問題が明確になるかもしれない。論理がつくりだす「イメージ」は、たいていの場合、「美しい」。松尾の詩にもどっていえば、「かたちがあった」というのが「イメージ」。そのとき「かたち」は決して腐敗していない。崩れていない。思い浮かべるのは「死んだ直後(ほとんど生きている)」の「かたち」である。「死」は、そのとき、忘れ去られている。

 「美味しい死」は奇妙、とても変。変だが、それは、私には「いや」ではない。何か納得させられるものがある。「肉体」があるから、納得してしまう。
 しかし、この三連目は、美しいし、論理的にも「正しい」のだけれど、その「正しさ」が、私には「うさんくさく」感じられてしまう。「いやだなあ」と思ってしまう。

 このあと、詩は、また変化する。

風が 羽を持ち去ると
そこは
傷のない よい天気

 この四連目は、気持ちがいい。きっと「傷のない」ということば、それが「よい天気」と結びついているのが気持ちがいいのだ。
 「蝉のかたち」という「論理」でつくりだされたものが消し去られ、何もない。「傷のない」は「形のない」に通じ、目で見た「事実」であ。そして「傷のない=形のない」は「ない」こと、つまり「無」に通じる。「ナンセンス」である。「論理」を拒絶している。それが、とてもさっぱりしている。
 このあと、詩はさらに変化するが、私は、その部分も好きではない。「美味しい死」と「傷のない よい天気」というふたつのことばが中心になって動くといいのになあ、と残念な感じがする詩なのだった。


 
不去不来 (1980年)
松尾 静明
松尾静明
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小津安二郎監督「秋刀魚の味」(★★★★)

2016-02-28 09:43:35 | 午前十時の映画祭
監督 小津安二郎 出演 笠智衆、岩下志麻、佐田啓二、岡田茉莉子、東野英治郎、杉村春子、中村伸郎、北龍二

 小津安二郎の映画をスクリーンで見るのは初めてである。こういう評価の定まった作品の感想を書くのはむずかしい。
 最初に驚くのは、役者たちの演技の淡白さである。笠智衆、中村伸郎、北龍二の仲良し三人組(?)の酒を飲んでのやりとりなど、ただの棒読み。感情というものが感じられない。東野英治郎、杉村春子の父娘が、演技といえば演技っぽい。ただしまわりの役者が淡白な演技をしているので、浮いて見えてしまう。
 えっ、昔のひとは(現代でも評価が高いのだが……)、こういう演技を見て感動していた? 登場人物に共感していた?
 と、思いながら見ていて、ほとんど後半、ラスト近くになって。
 岩下志麻の結婚が決まり、花嫁衣装を着て、お決まりの父への挨拶をする。これがまた、そっけないのだが。そのあと、結婚式に出かけてしまい誰もいなくなった家のなかが映される。ここで、私は、「うーん」と唸ってしまった。椅子に、ぐい、と体を押さえつけられたような衝撃を受けた。
 岩下志麻のつかっていた鏡台だとか、窓だとか、畳だとか。そういうものが、とても美しいのである。
 スティルライフ、静物画ということばを思い出した。すばらしい「静物画」、たとえばモランディやセザンヌの絵を見たときのような美しさを感じた。スティルライフ、静かな生活でもあるのだが、「静かな生活」ではなく「静物画」の視点からこの映画を見つめなおすと、その美しさがわかるのでは、と考えた。
 たとえば薬罐とポットとコップの「静物画」があったとする。そのとき、その薬罐、ポット、コップは最初からそこにあるのではない。そこにそれがあるのは、それをつかっているひとが、そこに置いたからである。その「位置」が決まるまでには、それなりに繰り返される時間があり、同時にひとの動きがある。すぐれた「静物画」はものの形を書いているのではなく、そのものがそこに収まるまでのひとの動き、暮らしの時間を描いている。そのものが、その「色」に落ち着くまでの暮らしの時間、ひとの関わり方を描いている。
 その、「暮らしの時間/ひとの関わり方」の蓄積に通じるものを、最後になって、私は強く感じた。あるものが、ある位置に定まるまでには、はげしいできごともあったかもしれないが、そういうものは沈澱してゆき、淡々とした暮らしが繰り返され、そこに落ち着くのである。
 この「静かな生活(あるいは静かないのち、かもしれない)」の美しさは、「わかっている」ということばで言い直すことができるだろう。
 この映画のなかで、その「わかっている」を拾い上げると。
 花嫁衣装の着付けが終わった岩下志麻が膝をつき「お父さん……」と言おうとすると、笠智衆が「わかっている」と言う。何も言わなくてもいいと言う。この「わかっている」である。笠智衆は岩下志麻のことが「わかっている」。岩下志麻は笠智衆のことが「わかっている」。このままの暮らしではいけないということも「わかっている」し、いままでの暮らしを変えると大変だということも「わかっている」。「わかっている」から、むずかしい。どう動けばいいのか、悩んでしまうのである。
 この映画では、すべて「わかっている」ことだけが、「わかっている」ままに描かれる。逆に言えば「わかってほしい」と誰も主張しないのである。笠智衆の仲良し三人組が酒を飲む。そのとき三人は互いの家庭のことを、みんなわかっている。中学の教師をまねいて同窓会の話をするのだが、そのときだってきちんと詰めないといけないようなことなど何もない。みんな「わかっている」。だから、ただ顔をあわせて、台詞を棒読みするだけである。「感情」を主張する必要などない。自分を打ち出す必要はない。みんな「わかっている」のだから。
 どのシーンについても言える。佐田啓二、岡田茉莉子の夫婦がゴルフのクラブを買うことで揉める。岡田茉莉子が「だめ」と言いながら、最後には最初の月賦二千円を渡すまでのやりとりなども、岡田茉莉子はどうせそうするしかないのが「わかっている」。「そのかわり、私は白いハンドバッグを買うからね」と岡田茉莉子が言うことも、佐田啓二はどこかで「わかっている」。夫婦なのだから。
 それにしても……。岡田茉莉子が「トマト二個貸してちょうだい」と隣の部屋へトマトを借りに行くシーンは驚いたなあ。たしかに昔は、そういう貸し借りがあったなあ。いまは、そういうものがすっかりなくなり、他人が「わからなくなった」。昔は、だれもが他人がどうしているか「わかっていた」。
 いっしょにいれば、だれもが相手のことを「わかる」。「わかっている」から、声高に主張しなくてもいい。したがって役者も「感情」を動かして見せる必要はない。「感情」はそれぞれの観客のなかにあって、観客がつくりだすもの。観客が、それぞれが「暮らし(いのち)」のなかで反復し、育てるものなのである。この「感情」、わかる、知っている、自分も経験したことがある。そういうことを、ただ、思い出し、それを丹精に育てなおす。薬罐やポットやコップ、鏡台の位置や、カーテンの開き方、窓の開け閉めのように、それにふさわしい位置、動きにととのえる。そうするために見る映画なのだと感じた。
              (午前十時の映画祭、天神東宝6、2016年02月26日)










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松竹
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