詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北沢十一「マイ・ブルー・ヘブン」

2016-02-02 08:45:41 | 詩(雑誌・同人誌)
北沢十一「マイ・ブルー・ヘブン」(「「くり屋」68、2016年02月01日発行)

 北沢十一「マイ・ブルー・ヘブン」は、ぼんやりとした感じではじまる。どこかのカフェで「ひとつの話題で語り合う集い」に出かける。名前も顔もしらないひとの集まりらしい。何のことか、さっぱりわからないが、

窓の外ではテーマに沿って
川も流れていた

 という突然の「景色」が美しい。何か書いてあるかわからないから、「川も流れていた」がわかると思ってしまうのかもしれないけれど。
 そこで「ぼく(北川)」はある墓地で見かけた墓のことを語る。

ギターのような墓石に
「上には青い空だけ」
と刻んであった
だれかの歌かもしれない

 「窓の外」「川」「青い空」ということばを手がかりにすればテーマは「広がり」のようなものなのか、とふと思う。「解放感」とか……。
 で、その最後の部分。

その帰り道は
近所の眼科の前で
軽トラックがスリップして
積み荷のミカンが散乱した
ミカンは青空の下でごろんと愉快に横たわり
運転していた人は
上を向いて少しの間じっとしていた
知らない人がため息をつくのを初めて見た
確かに上には青い空だけだった

 突然、状況が具体的になり、「上には青い空だけ」ということばが少し形をかえてあらわれる。これが、不思議と気持ちがいい。
 ひとは大事なことは繰り返す。繰り返して確かめる。北沢は「上には青い空だけ」ということが、どういうことか確かめている。そして、「青い空だけ」を見つめる「ひと」になっている。
 まだ、「意味」はわからない。
 「意味」はわからないが、「青い空だけ」を見つめる人になり、さらに「ため息をつく」とどうなるだろう。北沢は、軽トラックを運転していた人にならないだろうか。自分のなかにある何かをため息にして吐き出す。そのときの、ことばにならない気持ちを「肉体」がなんとなく納得してしまわないだろうか。

上を向いて少しの間じっとしていた

 が、とても効果的なのだ。具体的に「肉体」を描写する。そのとき、ことばは対象そのものになる。そして、「わかる」。「わかる」というのは、自分が「他者」になることである。「他者」に自分が統一されることである。

 詩の前半では「知らない人」は「知らない」まま、それ以外の「描写/説明」はされない。だから、前半に出てくる人は「他者」のまま。けれど、後半に出てくる人は、その「肉体」の「運動」が描写される。上を「向く」。じっと「していた」。「少しの間」という「時間」も「運動」を具体的にしている。そういう描写ができるというのは、その人が何をしているか「わかる」ということでもある。その「わかる」ことが、人と人をつないでゆく。



奇妙な仕事を終えた夕暮れに
北沢 十一
創風社出版

*

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