詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

かわかみまさと『かわかみまさと詩集』

2016-02-01 08:55:36 | 詩集
かわかみまさと『かわかみまさと詩集』(新選・沖縄現代詩文庫10)(脈発行所、2015年11月30日発行)

 かわかみまさとの代表作は『与那覇湾-ふたたびの海よ-』なのかもしれないが。
 私は童謡詩集『みはてぬ夢』のなかの「ちいさなうみ」がとても好きである。

りょうてでみずをすくい
ちいさなちいさな
うみをつくった
かぜのようないきをかけたら
ゆら ゆら
さざなみがうまれた

ちいさなうみにあめが
ぽとりとちいさな
おとをとどけた
にじのようなしぶきがはねて
きら きら
さざなみがひかった

 沖縄の海。大きな海。それを見ているはずなのに「ちいさなちいさな/うみをつくった」。何のためだろう。細部を見るためだろうか。
 二連目にも「ちいさな」はつかわれている。その二連目の「ちいさな/おとをとどけた」の「とどけた(とどける)」という動詞に私はとても感動した。そうか、雨は「音」をとどけるのか。「音」は何かと何かがぶつかって生まれる。雨と海(海面)がぶつかる。水と水がぶつかる。そこに衝突音が生まれる。しかし、これを「雨が音をとどける」と言い直す。その瞬間、「小さな雨(雨粒)」が何か「大きな」ものにかわる。「音」を抱えている。「抱える」という動詞がつくりだす「広がり」がそこに生まれる。
 かわかみは「音を抱える」とは書いていない。「音をとどける」と書いているのだけれど、「音をとどける」ためには「音をもっている」必要がある。その「持っている」を私は「抱えている」と誤読する。
 そのあとの展開もいいなあ。どんな音かは書かずに、さらに「音がはねる」と書かずに「にじのようなしぶき」が「はねる」と書く。「はねる」という動詞のなかで「音」と「音ではないもの」がひとつになって、そこから「音ではないもの」が生まれる。「音」が「音ではないもの」に生まれ変わる。
 「きら きら」の「ひかり」。「光る」という「動詞」も、そこから生まれる。
 さらに三連目。

ちいさなうみにうかぶ
ちいさなちいさな
ふねにのって
やさしいこえでゆうひをよんだら
ぽちゃ ぽちゃ
さざなみがうたった

 「音」は「声」にかわり、「呼ぶ」という「動詞」を誘い出す。「呼ばれ」たら、どうするか。ひとは「こたえる」。さざなみも「こたえる」。ぽちゃぽちゃと「うたった」。あ、「歌う」は「こたえる」なのだ。
 「うた」はまた「詩」でもある。
 そうであるなら、この「詩=うた」はかわかみが、何の「声」に「こたえた」ことばなのだろう。沖縄の自然と声にこたえた詩、こたえようとしていることばなのだと思う。

 『夕焼け雲の神話(ニーリ)』のなかの「がんづぅおばあ」も好きな作品だ。

がんづぅおばあは九十九歳
あと一息で百歳
百歳は瑞々(みずみず)しい白菜の生まれ変わり

 「百歳」と「白菜」は「音」が似ているし、「百」と「白」の文字も似ている。「あと一息」の「一」を「白」にくっつけると「百」。そういうおもしろさもある。
 どんなふうに「百歳」が「白菜」の生まれ変わりなのか、二連目以降で「白菜」をつかって言い直される。

よそ行きの皺をたたんでいる
唇の年輪は白菜の筋(すじ)のようだ
がんづぅおばあは
目を瞑(つむ)ったまま朝ご飯を食べる
目のなかには白菜の芯が埋もれて
目を開けてもなんにも見えない

 だんだん「白菜」そのものになっていく。「白菜」なので、「植物(野菜)」である。だが、

がんづぅおばあは
満月の夜に我に返る
地球の裏側から柔らかな光が射し込んで
白菜の粗い乾いた筋を撫で
石ころのような固めの芯をときほぐして
躰(からだ)の奥深くから
いのちの燃える水が静かに湧出する

 「白菜の筋」は一連目、「白菜の芯」は二連目に登場したことばだが、その「芯」から「筋」をとおって「いのちの燃える水」が、「目」から湧出する。あふれてくる。涙だ! 「白菜」を、ただ、老人の顔を「比喩」としてあらわしていたのではないのだ。
 「地球の裏側」の「裏側」ということばを借りて、「現実の裏側」と読み直してみることができる。「いまの裏側/過去/歴史」と読み直してみることもできる。
 「がんづぅ」は「頑強」。なぜ、おばあが「がんづぅ」なのか、「裏側」ということばが教えてくれる。



与那覇湾―ふたたびの海よ かわかみまさと詩集
かわかみまさと
あすら舎
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