詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

崔東鎬「ボール遊びをするダルマ」(韓成禮訳)ほか

2016-07-23 10:04:48 | 詩(雑誌・同人誌)
崔東鎬「ボール遊びをするダルマ」(韓成禮訳)ほか(「孔雀船」88、2016年07月15日発行)

 崔東鎬「ボール遊びをするダルマ」は、前半がおもしろかった。

夕暮れまでボール遊びをしていた子供たちが
みんな家に帰り、空き地が自分だけの
空き地になったとき
捨てられたボールをくわえて
一匹の犬がぶらつきながら
出て来て遊んでいる

最初はきょろきょろしてようだったが
今や振り返りもせず一人で
空き地の主人のようにボール遊びをしている
生前にボール遊びをしたことのあった子供のように
闇の濃くなっていく空き地で犬が
汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる 再び

 「汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる」が強い。
 子供たちが遊びまわる。土ぼこりが立つ。それが、子供たちの汗に濡れる。汗に濡れた肌に土ぼこりがからみつくというのが「現実」なのかもしれないが、あまりに子供たちが元気で素早いので、ほこりは子供の肌にくっついている暇がない。宙に舞いつづけ、子供たちが消えて空気の乱れがなくなると、ゆっくり地上に落ちてきて、かたまる。その固まった土ぼこりを掘り起こしている。いや、まるで地上に落ちて固まった土ぼこりを掘り起こすようにして、元気に犬が遊んでいる。そのとき、土埃はやっぱり、肌(犬)にはからさみつかない。あまりに犬が元気なので。
 違うかもしれない。私の想像は間違っているのかもしれないが、何か、間違いを誘う「強さ」がある。そこに書かれていることが、「正確に」これこれであるとは言えないのだけれど、「正確に」言えないからこそ、そこで起きていることが見える。
 二連目二行目の「一人」ということばもおかしい。韓国語でどう書いているかわからないが「一匹」ではなく「一人」というところが、楽しい。「犬」と「子供」が融合して、そのどちらにも見える。遊んでいる犬は子供そのものであり、遊んでいた子供は犬そのものである。
 一連目の最後の行の「出て来て遊んでいる」の「出て来て(出て来る)」という動詞も不思議だなあ。「あらわれた」ということなのだろうけれど、「出て来る」は「空気」を破って、「空気」の向う側から「出て来る(あらわれる)」感じ。「次元」が変わってしまったという感じがする。
 それが二連目二行目で「振り返りもせず」遊んでいるというもの、すごい。「出て来た」どこかを振り返られない。「いま/ここ」でありったけの力で遊んでいる。その「ありったけの力」が「いま/ここ」にあるものを、ぜんぶいっしょくたにしてしまう。区別のつかないものにしてしまう感じがする。
 また、一連目の「空き地が自分だけの/空き地になったとき」の「自分」というのは「犬」を指しているのかもしれないが、もしかすると「空き地」を指しているかもしれない。「空き地が空き地自身になる」(だれにもじゃまされず、空き地でいる)ということかもしれない。「自分自身」に「なる」ことが、同時に「自分ではない誰か(犬/子供)」への変化/変身を誘い、すべてが融合しているように感じられる。
 そういう光景を見ている、というよりも、犬になってその光景のなかで「遊んでいる」。犬が見ているものをこそ、見ているような気持ちにさせられる。
 ことばが適度に(?)、いまと過去を行き来する、往復するからかなあ。
 二連目の最後の、

汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる 再び

 この「再び」は「再び遊んでいる」と読むのかもしれないが、三連目の一行目、

昔の子供になったかのように誰も呼んでくれない

 ということばへ、一行空きを跳び越えてつながるのかもしれない。「再び呼んでくれない」ということなのかもしれない。
 この切断と接続の、はっきりしない部分が、とても刺戟的だ。

昔の子供になったかのように誰も呼んでくれない
空き地でペちゃんこになった革のボールと戯れている犬は
遊びを止めることができない 空き地を守って立つ
背の高い木々だけが夢中で遊んでいるその犬を
見ている 思いのままにボールが転がらなくて虚空の
暗い影を眺める眼差しがオオカミのように光るとき

 「虚空」が出てくるあたりから、「既成の文学」になっていくようで、少し読む気をそがれるのだけれど。
 でも、ここで「オオカミ」が出てくるのは、犬が出て来たところ(前にいたところ)が「過去」とつながる世界だからだということを暗示しているようでおもしろい。子供と犬が区別がなくなり、犬とオオカミの区別がなくなる。その区別のない世界で「一心に遊ぶ」という動詞が「いま」を押し広げ、輝かせている。そのなかに、すべてがのみ込まれていくという感じが好きだなあ。



 一瀉千里「乗船」は、岡から船を見ている詩。

羽のついた 白い帽子を被った人がいる
その帽子から のぞいた髪は
レッド だった
よく見るとそれは 孔雀の羽 だった
この人が 船長のようだ

 「レッド だった」の「レッド」がはつらつとしている。ことばにリズムを与えている。レッ「ド」、「だ」った、「だ」った、よう「だ」の濁音、撥音、拗音のリズムが楽しい。「赤かった」では、このリズムは出ない。
 ことばが「意味」ではなくリズムで動いているところが、おもしろかった。

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詩集「改行」へ向けての、推敲(7)

2016-07-23 08:55:20 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(7)

(51)足首

ことばは、足首になりたかった。

ぬるみはじめた池に佇む青さぎの、水につつまれた足首。
片足で立っている、その足を交代させるとき、
水の輪が足首のまわりにひろがる。
春の光をおしのけて、輪の起伏の奥に黒い色が照る。

まだ誰も書いたことのない足首、
泥をかきたてて泳ぐ亀も、藻に腹をくすぐらせている小魚も、
青さぎをみはっている白さぎさえも気づいていない。
ことばは、その足首になりたかった。











(52)さびしい、

さびしい、ということばのなかから
そいつが逃げ出した。
昼の公園で、桜の満開の下で、
悲しい、ということばのなかからだったか、かもしれない。
男が歌いながら踊っていた。
その歌のなかからだったか
かもしれない。

深夜、犬と歩いていると、犬が
みつけてくれた。
そいつは、
公園の入り口の車止めのところにいた。
街灯に照らされて、
四角い車止めの石の
四角い黒い影になっていた。
黒いのだけれど、
透明で、
そのなかに散らばった小石がみえた。
黒いのだけれど、
不思議に光っていて、
生えている草の尖った葉先が見えた。

さびしい、ということばのなかには
帰りたくない、と言った。
そいつは、











(53)「まだ可能かもしれない

「まだ可能かもしれない」という考えが間違っている。「そう自分自身に言い聞かせることをできるだけ先のばしにした」ということばがあった。
「だれのことばなのかわからなかったが、いま、私がしているのはそのとおりのことである」ということばが列に並んでいた。
「どうすることもできない苦しみがまといついてくるが、そう感じるとき苦痛ということばは甘い怠惰のようでもあった」ということばが、どこからともなくあらわれた。










(54)感情のように、

コップのなかに飲み残しの水がある。
そのくらい色になり悲しみは完結する。
ことばは安易な一行できょうを終わろうとしたが、
テーブルの下で犬は動こうとしない。

誰からの検閲を受けることもない感情のように。










(55)遅くなってしまったが、

遅くなってしまったが、
遅れていくのも悪くはない。
枝垂れ梅の枝をつたって雨が落ちる。
地面に散らばった花びらをたたく。
花びらは木のにおいに打たれながら最後の眠りを眠りにゆく。
ことばにしたいのに、ことばにならない。











(56)窓のそばに立って、

窓のそばに立って、
ことばは木が芽吹く前の匂いをかいでいた。
光の細い輪郭が直立し、影が斜めにのび、本棚にぶつかり折れた。

詩を書くことは、
そのことばの姿勢を真似することだ。

本棚にびっしりつめこまれた活字から離れ、
近づくことを許さない。

苦悩しているという小説家がいる。
沈んでいるのだといった音楽家がいる。
一度、なげやりなスケッチに閉じ込めた画家がいた。
だが、それは全部間違っている。

詩を書くことは、
遅れてしまったことばになること。
やってこないことばになること。











(57)片隅に椅子があるが、

片隅に椅子があるが腰かけてはいけない。
それは本のなかで疲れたことばが休みにくる椅子。

だれかがページを開き指でことばをなぞったとき指の下からこぼれる
ことばが

背もたれに肩をあずけ、
窓から早春の空をわたる音楽を聴く。

ゆっくり深呼吸して
違う本の中へ帰っていく。

だれも見たものはいないが、
語り継がれている椅子が片隅にある。










(58)まるであれみたいだ、

水たまりの縁がまた凍りはじめている
狭く暗い空は水の中心から逃げようとしても押し返される

まるであれみたいだ--と言おうとして
ことばは比喩のリストをめくるが
モレスキンのノートは空白。

空っぽ。向こう側が見える鳥かご。
どこからやってきたのか悲しみが一羽、とまっている。

まるで、あれみたいだ。










(59)あれではない

何が原因か書く気にはなれないが
あれではない。
あれはほんとうのことを隠すための口実だ。

自分をごますことにのめりこんでしまって、
過剰にことばと声をつかってしまって、
ふいに静かになる。

その静かさをあつめて、
さびしい、
が突然あらわれてくる。










(60)ふたりの間に、

ふたりの間に、
「また」「あるいは」が
行き交った。
具体的なことばは
けっして届くことなく、
落ちていった。
何もわからないまま、
「そうだね」
声は疲れていた。











(61)どうしても、

「どうしても」ということばが、夢のようにしつこくあらわれてきた。「破る」ということばを遠くから引き寄せて「夢のなかで本のページを破らなければならないのに、それができない」ということばに組み立てたあと「どうしても」手に力が入らない、という。
泣きそうだった。
いいわけをしているのだった。

見たのだった。「浴室」ということばといっしょ「剃刀」ということばがさびたまま濡れていた。それは、「朱泥の剥げた」鏡の裏側へつづく長い廊下へつながり、そのなかを歩いていく男は角をまがらないまま、私のなかで消えた。それは夢の本のページを何度破っても、あたらしく印刷されて増えてくる。

それから突然電話が鳴って、何を「破った」ためのなか、電話の音は夢のなかへは戻らないのだった。

























(62)破棄された詩のための注釈(21) 

「その角」はケヤキ通りにある花屋を過ぎたところにある。左に曲がると、夏は海から風が吹いてくる。花屋では季節が顔を出し過ぎる。詩人は「ドラッグストア」と書いて時間の色を消すことを好んだ。こうした「好み」のなかに、注釈は入りたがる。(彼は男色だという説がある。)

「その角」を曲がって「物語」は海の方へ駆けて行ってしまう。これではセンチメンタルすぎる。左手の公園の坂を上り、いぬふぐりの淡い桃色を見つめた視線が遊歩道に落ちて、散らばったままだったと書き直された。しかし、「淡い桃色」が気に入らなくて、その二連目は傍線で消された。したがって、印刷された本のなかには存在しない。

三連目は突然、事実がそのまま書かれる。「その角」を曲がって、駐車場の横を通り、路地をひとつ渡り、古い市場へ歩いていく。「季節を売る店」と呼ばれる何軒かが、手書きの値札をならべている。店番はラジオのなつかしい歌に低い声を重ね合わせる。

そこで物語は消える。四連目は書かれない。しかし聞いた声は耳から消えない。「物語」を破壊し、知っている短いことばは、改行を要求する。








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