崔東鎬「ボール遊びをするダルマ」(韓成禮訳)ほか(「孔雀船」88、2016年07月15日発行)
崔東鎬「ボール遊びをするダルマ」は、前半がおもしろかった。
「汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる」が強い。
子供たちが遊びまわる。土ぼこりが立つ。それが、子供たちの汗に濡れる。汗に濡れた肌に土ぼこりがからみつくというのが「現実」なのかもしれないが、あまりに子供たちが元気で素早いので、ほこりは子供の肌にくっついている暇がない。宙に舞いつづけ、子供たちが消えて空気の乱れがなくなると、ゆっくり地上に落ちてきて、かたまる。その固まった土ぼこりを掘り起こしている。いや、まるで地上に落ちて固まった土ぼこりを掘り起こすようにして、元気に犬が遊んでいる。そのとき、土埃はやっぱり、肌(犬)にはからさみつかない。あまりに犬が元気なので。
違うかもしれない。私の想像は間違っているのかもしれないが、何か、間違いを誘う「強さ」がある。そこに書かれていることが、「正確に」これこれであるとは言えないのだけれど、「正確に」言えないからこそ、そこで起きていることが見える。
二連目二行目の「一人」ということばもおかしい。韓国語でどう書いているかわからないが「一匹」ではなく「一人」というところが、楽しい。「犬」と「子供」が融合して、そのどちらにも見える。遊んでいる犬は子供そのものであり、遊んでいた子供は犬そのものである。
一連目の最後の行の「出て来て遊んでいる」の「出て来て(出て来る)」という動詞も不思議だなあ。「あらわれた」ということなのだろうけれど、「出て来る」は「空気」を破って、「空気」の向う側から「出て来る(あらわれる)」感じ。「次元」が変わってしまったという感じがする。
それが二連目二行目で「振り返りもせず」遊んでいるというもの、すごい。「出て来た」どこかを振り返られない。「いま/ここ」でありったけの力で遊んでいる。その「ありったけの力」が「いま/ここ」にあるものを、ぜんぶいっしょくたにしてしまう。区別のつかないものにしてしまう感じがする。
また、一連目の「空き地が自分だけの/空き地になったとき」の「自分」というのは「犬」を指しているのかもしれないが、もしかすると「空き地」を指しているかもしれない。「空き地が空き地自身になる」(だれにもじゃまされず、空き地でいる)ということかもしれない。「自分自身」に「なる」ことが、同時に「自分ではない誰か(犬/子供)」への変化/変身を誘い、すべてが融合しているように感じられる。
そういう光景を見ている、というよりも、犬になってその光景のなかで「遊んでいる」。犬が見ているものをこそ、見ているような気持ちにさせられる。
ことばが適度に(?)、いまと過去を行き来する、往復するからかなあ。
二連目の最後の、
この「再び」は「再び遊んでいる」と読むのかもしれないが、三連目の一行目、
ということばへ、一行空きを跳び越えてつながるのかもしれない。「再び呼んでくれない」ということなのかもしれない。
この切断と接続の、はっきりしない部分が、とても刺戟的だ。
「虚空」が出てくるあたりから、「既成の文学」になっていくようで、少し読む気をそがれるのだけれど。
でも、ここで「オオカミ」が出てくるのは、犬が出て来たところ(前にいたところ)が「過去」とつながる世界だからだということを暗示しているようでおもしろい。子供と犬が区別がなくなり、犬とオオカミの区別がなくなる。その区別のない世界で「一心に遊ぶ」という動詞が「いま」を押し広げ、輝かせている。そのなかに、すべてがのみ込まれていくという感じが好きだなあ。
*
一瀉千里「乗船」は、岡から船を見ている詩。
「レッド だった」の「レッド」がはつらつとしている。ことばにリズムを与えている。レッ「ド」、「だ」った、「だ」った、よう「だ」の濁音、撥音、拗音のリズムが楽しい。「赤かった」では、このリズムは出ない。
ことばが「意味」ではなくリズムで動いているところが、おもしろかった。
崔東鎬「ボール遊びをするダルマ」は、前半がおもしろかった。
夕暮れまでボール遊びをしていた子供たちが
みんな家に帰り、空き地が自分だけの
空き地になったとき
捨てられたボールをくわえて
一匹の犬がぶらつきながら
出て来て遊んでいる
最初はきょろきょろしてようだったが
今や振り返りもせず一人で
空き地の主人のようにボール遊びをしている
生前にボール遊びをしたことのあった子供のように
闇の濃くなっていく空き地で犬が
汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる 再び
「汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる」が強い。
子供たちが遊びまわる。土ぼこりが立つ。それが、子供たちの汗に濡れる。汗に濡れた肌に土ぼこりがからみつくというのが「現実」なのかもしれないが、あまりに子供たちが元気で素早いので、ほこりは子供の肌にくっついている暇がない。宙に舞いつづけ、子供たちが消えて空気の乱れがなくなると、ゆっくり地上に落ちてきて、かたまる。その固まった土ぼこりを掘り起こしている。いや、まるで地上に落ちて固まった土ぼこりを掘り起こすようにして、元気に犬が遊んでいる。そのとき、土埃はやっぱり、肌(犬)にはからさみつかない。あまりに犬が元気なので。
違うかもしれない。私の想像は間違っているのかもしれないが、何か、間違いを誘う「強さ」がある。そこに書かれていることが、「正確に」これこれであるとは言えないのだけれど、「正確に」言えないからこそ、そこで起きていることが見える。
二連目二行目の「一人」ということばもおかしい。韓国語でどう書いているかわからないが「一匹」ではなく「一人」というところが、楽しい。「犬」と「子供」が融合して、そのどちらにも見える。遊んでいる犬は子供そのものであり、遊んでいた子供は犬そのものである。
一連目の最後の行の「出て来て遊んでいる」の「出て来て(出て来る)」という動詞も不思議だなあ。「あらわれた」ということなのだろうけれど、「出て来る」は「空気」を破って、「空気」の向う側から「出て来る(あらわれる)」感じ。「次元」が変わってしまったという感じがする。
それが二連目二行目で「振り返りもせず」遊んでいるというもの、すごい。「出て来た」どこかを振り返られない。「いま/ここ」でありったけの力で遊んでいる。その「ありったけの力」が「いま/ここ」にあるものを、ぜんぶいっしょくたにしてしまう。区別のつかないものにしてしまう感じがする。
また、一連目の「空き地が自分だけの/空き地になったとき」の「自分」というのは「犬」を指しているのかもしれないが、もしかすると「空き地」を指しているかもしれない。「空き地が空き地自身になる」(だれにもじゃまされず、空き地でいる)ということかもしれない。「自分自身」に「なる」ことが、同時に「自分ではない誰か(犬/子供)」への変化/変身を誘い、すべてが融合しているように感じられる。
そういう光景を見ている、というよりも、犬になってその光景のなかで「遊んでいる」。犬が見ているものをこそ、見ているような気持ちにさせられる。
ことばが適度に(?)、いまと過去を行き来する、往復するからかなあ。
二連目の最後の、
汗にぬれたほこりを掘り起こして遊んでいる 再び
この「再び」は「再び遊んでいる」と読むのかもしれないが、三連目の一行目、
昔の子供になったかのように誰も呼んでくれない
ということばへ、一行空きを跳び越えてつながるのかもしれない。「再び呼んでくれない」ということなのかもしれない。
この切断と接続の、はっきりしない部分が、とても刺戟的だ。
昔の子供になったかのように誰も呼んでくれない
空き地でペちゃんこになった革のボールと戯れている犬は
遊びを止めることができない 空き地を守って立つ
背の高い木々だけが夢中で遊んでいるその犬を
見ている 思いのままにボールが転がらなくて虚空の
暗い影を眺める眼差しがオオカミのように光るとき
「虚空」が出てくるあたりから、「既成の文学」になっていくようで、少し読む気をそがれるのだけれど。
でも、ここで「オオカミ」が出てくるのは、犬が出て来たところ(前にいたところ)が「過去」とつながる世界だからだということを暗示しているようでおもしろい。子供と犬が区別がなくなり、犬とオオカミの区別がなくなる。その区別のない世界で「一心に遊ぶ」という動詞が「いま」を押し広げ、輝かせている。そのなかに、すべてがのみ込まれていくという感じが好きだなあ。
*
一瀉千里「乗船」は、岡から船を見ている詩。
羽のついた 白い帽子を被った人がいる
その帽子から のぞいた髪は
レッド だった
よく見るとそれは 孔雀の羽 だった
この人が 船長のようだ
「レッド だった」の「レッド」がはつらつとしている。ことばにリズムを与えている。レッ「ド」、「だ」った、「だ」った、よう「だ」の濁音、撥音、拗音のリズムが楽しい。「赤かった」では、このリズムは出ない。
ことばが「意味」ではなくリズムで動いているところが、おもしろかった。