藤井貞和「オルタナティヴ」ほか(「イリプスⅡ」19、2016年07月01日)
藤井貞和「オルタナティヴ」。タイトルの「オルタナティヴ」ということばは時々読む。私はカタカナ難読症なので、正確には「読む」ではなく、「見る」。で、「見る」だけなので「意味」はわからない。「文体」に関係しているらしいということだけは想像がつくがそれ以上はわからない。
わからないまま、正確には、わかろうともしないまま、いや、わかりたくないまま、私は藤井の詩を読む。
読んだ瞬間に石川淳の「焼跡のイエス」を思い出す。「意味内容」ではなく、藤井の書いていることばを借用すれば、「意味不明」の「突出した描写」ということばが、石川淳を思い出させる。
「突出した描写」とは「文体」のことである。「文体」と言い直されている。と、私は勝手に解釈する。
石川淳は、私の大好きな作家だが、なぜ好きかといえば「文体」に特徴があるからだ。真似したくなる。とても真似できないが、読んでいるときは、世界にはこの「文体」しか存在しえないという感じで迫ってくる。
「意味不明」とは言わないが、そうか「意味不明」と言った方が正確なのかとも思う。
ストーリーなど気にしないで、「意味」など気にしないで、そこにあることばを読んでいるからである。「不明」と言ってしまった方が、「文体」に酔っている感じを正確にあらわすと思う。
この「酔う」は「煩悶」と言い直してもいいかもしれないなあ。
何かに強引にひっぱられ、それが苦しくて、なおかつうれしい。うれしくて、なおかつ苦しい。もだえる。
で、それが
あ、この「内向き」が「オルタナティヴ」? 「意味」の「内側」にあって、「不明」な何か、エネルギーをそのまま突き動かしていく力が「オルタナティヴ」か、と勝手に思うのである。
「文体」だから、「文体」そのものは、「意味」を外に押し出しているのだと思うのだが、「意味」をことばの外側に押し出さないと「文体」にはならないとおものうだが。
そう思いながら、その「意味」ではなく、何と言えばいいのか「押し出す力」に触れて、「私」が押し出されるのではなく、押し出してくる力を逆にたどるようにして、その力の「内部」に入り込む。言い換えになるかどうかわからないが、その「内部」に「収斂」していく。
そんなことを「肉体」が感じてしまう。石川淳の「文体」に触れると、そんな感じになる。
そういうことを藤井は書いているのだ。
と、私は勝手に思う。
こういうことを感じさせる/考えさせることばの力そのものを「オルタナティヴ」というのだろう、と私は勝手に思う。
私の「解釈」が「正しい」かどうか、私は気にしない。「誤読」かどうか、気にしない。「正しい/間違っている」ということは、読むときに何の関係もない。「読む」ときに重要なのは、ことばをつかって「考えているか/感じているか」ということ。その「感じ/考え」が間違っているとしたら、それはそれで、なんらかの「間違える」という理由があるのだ。私には、それが何かわからないけれど、「間違える」ことでしかあらわせない「正直」がそこにあるのだと、私は勝手に思っている。
あ、こんなでたらめを書いては、藤井の詩の「鑑賞」をじゃますることになるかな。
そうかもしれない。
けれど、そう書かずにはいられない。
そういうことを書かせる「力」が藤井の、この一連目にある。
これは何かなあ、何と言えばいいのかなあ、と思いながら、「イリプスⅡ」のほかのことばを読み進む。そうすると北川透の「言語表現と権力意志」という「講演記録」が載っている。吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』以後の五十年について触れたもの。そのなかに、吉本から少し脇道に入った形で鈴村和成のランボーの訳詩が紹介されている。「空腹」という作品。「くだいた石ころを食え、/教会の古びた石とか、/古い洪水が残した砂利を、/灰色の谷間に撒いたパンを食え!」という部分を紹介したあと、こんなことを北川は言う。
あ、これが「オルタナティヴ」の「定義」かも、と私の「直観」は叫ぶ。
「これは一体どういうことなのか」と思わずにはいられない何か。「意味」(腹が減っている)なら、そのことに肉体が集中しているはずなのに、ことばはまるで腹が減っていないように輝かしく動き回る。こんなことは、実際に腹が減っていては許されることではないのに、詩では(文学では)、許される。いや、それがないと詩にならない。文学にならない。
「意味」から「突出した描写」。それなのに、感じるのはことばの「内側」にある力。「描出/描写」の根源でことばを押し出す力。それに向かって、読んでいるときの興奮は「収斂」していく。
というような、テキトウなことを、私は考えたのである。感じたのである。
「オルタナティヴ」には対になったカタカナ語があったが、カタカナ難読症の私には、それが思い出せない。書けない。
もしかしたら、私の書いたことは、その書けない方のカタカナ語の方のことかもしれないが、それがどっちにしろ、そんなものははなしているあいだに混じりあってしまうものだろうから、私は気にしないのである。
藤井貞和「オルタナティヴ」。タイトルの「オルタナティヴ」ということばは時々読む。私はカタカナ難読症なので、正確には「読む」ではなく、「見る」。で、「見る」だけなので「意味」はわからない。「文体」に関係しているらしいということだけは想像がつくがそれ以上はわからない。
わからないまま、正確には、わかろうともしないまま、いや、わかりたくないまま、私は藤井の詩を読む。
意味不明の突出した描写は
焼跡から イエスを
無頼派(戯作の)文体が
描かれている なおそのうえで
兵隊服の男が朝鮮人男性とは言えるかしら
と煩悶し おいらはたしかに
内向きに収斂する
読んだ瞬間に石川淳の「焼跡のイエス」を思い出す。「意味内容」ではなく、藤井の書いていることばを借用すれば、「意味不明」の「突出した描写」ということばが、石川淳を思い出させる。
「突出した描写」とは「文体」のことである。「文体」と言い直されている。と、私は勝手に解釈する。
石川淳は、私の大好きな作家だが、なぜ好きかといえば「文体」に特徴があるからだ。真似したくなる。とても真似できないが、読んでいるときは、世界にはこの「文体」しか存在しえないという感じで迫ってくる。
「意味不明」とは言わないが、そうか「意味不明」と言った方が正確なのかとも思う。
ストーリーなど気にしないで、「意味」など気にしないで、そこにあることばを読んでいるからである。「不明」と言ってしまった方が、「文体」に酔っている感じを正確にあらわすと思う。
この「酔う」は「煩悶」と言い直してもいいかもしれないなあ。
何かに強引にひっぱられ、それが苦しくて、なおかつうれしい。うれしくて、なおかつ苦しい。もだえる。
で、それが
内向きに収斂する
あ、この「内向き」が「オルタナティヴ」? 「意味」の「内側」にあって、「不明」な何か、エネルギーをそのまま突き動かしていく力が「オルタナティヴ」か、と勝手に思うのである。
「文体」だから、「文体」そのものは、「意味」を外に押し出しているのだと思うのだが、「意味」をことばの外側に押し出さないと「文体」にはならないとおものうだが。
そう思いながら、その「意味」ではなく、何と言えばいいのか「押し出す力」に触れて、「私」が押し出されるのではなく、押し出してくる力を逆にたどるようにして、その力の「内部」に入り込む。言い換えになるかどうかわからないが、その「内部」に「収斂」していく。
そんなことを「肉体」が感じてしまう。石川淳の「文体」に触れると、そんな感じになる。
そういうことを藤井は書いているのだ。
と、私は勝手に思う。
こういうことを感じさせる/考えさせることばの力そのものを「オルタナティヴ」というのだろう、と私は勝手に思う。
私の「解釈」が「正しい」かどうか、私は気にしない。「誤読」かどうか、気にしない。「正しい/間違っている」ということは、読むときに何の関係もない。「読む」ときに重要なのは、ことばをつかって「考えているか/感じているか」ということ。その「感じ/考え」が間違っているとしたら、それはそれで、なんらかの「間違える」という理由があるのだ。私には、それが何かわからないけれど、「間違える」ことでしかあらわせない「正直」がそこにあるのだと、私は勝手に思っている。
あ、こんなでたらめを書いては、藤井の詩の「鑑賞」をじゃますることになるかな。
そうかもしれない。
けれど、そう書かずにはいられない。
そういうことを書かせる「力」が藤井の、この一連目にある。
これは何かなあ、何と言えばいいのかなあ、と思いながら、「イリプスⅡ」のほかのことばを読み進む。そうすると北川透の「言語表現と権力意志」という「講演記録」が載っている。吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』以後の五十年について触れたもの。そのなかに、吉本から少し脇道に入った形で鈴村和成のランボーの訳詩が紹介されている。「空腹」という作品。「くだいた石ころを食え、/教会の古びた石とか、/古い洪水が残した砂利を、/灰色の谷間に撒いたパンを食え!」という部分を紹介したあと、こんなことを北川は言う。
意味としては飢えの文脈しかないのに、メタファーによる印象的なイメージ、命令形の連発、同種表現の繰り返しによる音楽性、誇張表現、卑俗で親しみのもてる語り口などの表現性においては、感覚の歓びが溢れています。腹が減って、もう、なんか石ころでも食べたい、という否定的なことが、詩の表現レベルでは感覚の歓びに変じている。これは一体どういうことなのか。どんな表現も感覚の歓びを伴わなくては詩にならない。
あ、これが「オルタナティヴ」の「定義」かも、と私の「直観」は叫ぶ。
「これは一体どういうことなのか」と思わずにはいられない何か。「意味」(腹が減っている)なら、そのことに肉体が集中しているはずなのに、ことばはまるで腹が減っていないように輝かしく動き回る。こんなことは、実際に腹が減っていては許されることではないのに、詩では(文学では)、許される。いや、それがないと詩にならない。文学にならない。
「意味」から「突出した描写」。それなのに、感じるのはことばの「内側」にある力。「描出/描写」の根源でことばを押し出す力。それに向かって、読んでいるときの興奮は「収斂」していく。
というような、テキトウなことを、私は考えたのである。感じたのである。
「オルタナティヴ」には対になったカタカナ語があったが、カタカナ難読症の私には、それが思い出せない。書けない。
もしかしたら、私の書いたことは、その書けない方のカタカナ語の方のことかもしれないが、それがどっちにしろ、そんなものははなしているあいだに混じりあってしまうものだろうから、私は気にしないのである。
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