自民党憲法改正草案を読む(12/最終回)(2016年07月10日)
「第九章 緊急事態」については、さまざまなところで問題視されている。
この条項でいちばん問題なのは、「主語」が突然「内閣総理大臣」になることである。憲法は、常に「国民」を「主語」としてきた。
現行憲法の「内閣総理大臣は」は「主語」ではなく「テーマ」。「テーマ」だからこそ「これを」という形で反復されている。実際の「主語」は「国会議員」。「国会議員」が「議決し」、その議決にしたがって指名される。そして「国会議員」というのは国民によって選ばれた存在であるから、そのときもほんとうの「主語」は「国民」である。国民が議員を選び、その議員が国民の「意思」をくみ取る形で総理大臣を指名する。
内閣総理大臣は、憲法の「主語」にはなりえない存在なのである。そのことを「改正草案」は無視している。
これにと同じことは、「改正草案」の第五十四条でも、あった。
「国会」のことを定めている条項に、突然「主語」として「内閣総理大臣」が闖入してきている。「教育の義務」を定めた条項(国民が主語の条項)に、突然「国」が「主語」として闖入してきたのにも通じる。
私は憲法学者でも法律家(法律の専門家)でもないが、こんなおかしな「憲法」はありえないだろう。ひとつのことがらを「定める」とき、「主語」は常にひとつでないとことがらが複雑になりすぎる。
「ひとつの文(条項)」に「ひとつの主語」というのは、「法」の基本なのではないか、と私は感じている。
こういう乱暴な「文体」で「憲法」をつくるから、あとは、もうでたらめである。(現行の憲法の文章を「日本語ではない」というひとがいる。安倍もそう考えているかもしれないが、私の見るかぎりでは、改正草案の日本語の方が、まるででたらめである。非論理的で、法になじまない。「主語」が乱れ、「主語」があいまいに隠されている。法は主語と述語を明示し、論理的でないと、判断の「基準」になりえない。)
改正草案は「でたらめな文体」と「ずるい文体」をかきまぜて、「あいまい」な部分を多くつくり出している。
「外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」とある。「緊急事態」は「法律で定める」とあるから、まだ何が緊急事態であるかは決まっていないのだが、「外部からの武力攻撃」と「地震等による大規模な自然災害」のあいだにはさまれた「内乱等による社会秩序の混乱」というのが、ずるくて、あいまいである。
「外部からの武力攻撃」と「地震等による大規模な自然災害」は「社会の内部」で起きることではない。だから、それを「緊急事態」と定義するのは、わりと簡単である。しかし、「内部の変化」は定義しにくい。何を「内乱」と呼ぶかはとても難しい。「内部の変化」は当然、それまでの「秩序の変化」でもある。そうすると、それまでとは違った「秩序」が生まれたとき、それは「内乱」になってしまう。
たとえば選挙で国会議員の自民党と共産党の議席数が逆転したとき、あるいは逆転しそうなとき、それは自民党にとっては「秩序の否定/混乱」になるだろう。そういう「結果」を引き起こす「選挙運動」が展開されたとき、それは「内乱」と呼ばれるかもしれない。選挙結果が自民党の敗北を引き起こしそうとわかったとき(予測されるとき)、「内閣総理大臣」は、それを「内乱」と定義し、「緊急事態」を「宣言」することができる。
三月に安倍内閣は「共産党は破防法の調査対象である」と閣議決定したが、こういうことが「日常的」に、内閣総理大臣の「独断」で起きることになる。これは「思想及び良心の自由」を侵害する行為である。
「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」や「衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。」は選挙の廃止であり、国民の基本的人権を侵すものだ。
「緊急事態条項」の創設の影で、とんでもない「改正」もおこなわれている。
改正草案では「第九十七条」の全文削除されている。「憲法が基本的人権を保障する」という部分が全部削除されている。これは「基本的人権」を認めないということである。
改正草案では「この憲法は、国の最高法規」という部分だけを踏襲している。
「基本的人権」を認めない上に、
国民に憲法を尊重する義務を押しつけている。憲法は国民が守る(尊重する)ものではなく、権力が守らなければならないものである。
国民は憲法を守らなくてもいい根拠として、現行憲法の第二十二条をあげることができる。
「国籍を離脱する」、つまり「日本国民でなくなる」 権利(自由)をもっており、それを「国」は「侵してはならない」。これは、憲法を守らなくていいという「証拠」である。「憲法」が気に食わない、「憲法」を遵守する気持ちがないなら、日本国籍を離脱し、自分の「理想の憲法」を持っている「国」へ行っていい、と言っているのである。
では、憲法はだれが守るのか、尊重するのか。だれが憲法を守らなければならないのか。
現行憲法は、憲法を遵守しなければならない人間として「天皇、大臣、議員、裁判官」などの「公務員」(天皇は公務員ではないが)をあげているが、国民をあげていない。これは憲法が「国(権力)」を縛るものだからである。憲法は国民を縛るものではないから、国民に「遵守義務」はないのである。
改正草案は、「国民」をつけくわえ、天皇を除外している。天皇は「元首」と定義されているから、憲法を超越した存在ということか。ここがいちばん違う。
それと同時に注目したいのは、現行憲法の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官」という順序が、改正案では「国会議員、国務大臣、裁判官」となっていることだ。国務大臣(行政府)の方が国会議員(立法府)よりも憲法を遵守するよう求められている度合いが低い。言い換えると、内閣(行政府/大臣)は国会議員よりも遵守の度合いが低くていい(?)という感じなのだ。
自民党の改正草案は、権力の実際の運用機関(内閣/大臣)を法で拘束する前に、国会議員を拘束する。第一項あわせて考えると、改正草案は、
国民を拘束し(基本的人権を剥奪し)、次に国民が選挙で選んだ国会議員(国民の代表)を拘束し、内閣(行政府)が「独裁」をふるいやすいように改正しているのである。
前後するが、「改正」の章の変更も見落としてはならない。
手順がかなり違う。現行憲法は「憲法改正」は「国会の三分の二以上の賛成」で「発議し」、国民が「承認する」。改正草案では、「発議する」ときの「条件」が明記されていない。「条件」がない。「ひとり」が「発議」してもいいことになる。それを「過半数の賛成」で「議決し」、その結果を国民が承認する。
国会内での審議、議決が「改正草案」では簡単である。ハードルが低い。
現行憲法では、あくまで国会は発議し、国民が承認する、過半数で「可決/承認」するのだが、改正案では国会が「議決」までしてしまう。「議決」した結果を国民が「承認」する。「承認させる」と言い直した方がいいかもしれない。「国会」が「議決」しているのに、それを否定するのは「公の秩序を乱す」ことになる。「内乱」になる。
さらに成立の基準も、改正草案では「有効投票の過半数」と低くしている。無効票が大量にあれば、有効票が少なくなる。それだけ「過半数」の基準が低くなる。ここでも「改正」のハードルは低められている。
公布について定めた第二項にも重大な変更がある。
現行憲法には「国民の名で」という文言がある。これは「憲法は国民のもの」という意識があるから、そういう文言があるのだ。改正草案には、これがない。つまり、改正草案は憲法を「国民のもの」と考えていない証拠がここにもある。
自民党は、憲法を改正するとき、まず「改正」の部分から手をつけるだろう。「戦争の放棄」や「緊急事態」に比較すると、激論になる度合いが低い。なによりも「手続き」の問題なので、国民には「自分の生活と直結する」という感じがしない。「反対」運動が起きにくい。
しかし、ここに罠がある。
いったん「改正」が、「衆議院又は参議院の議員の発議により」となってしまうと、先に書いたように「ひとり」の発議でも審議がはじまることになる。そして「過半数」で「議決」まで進んでしまう。「発議されたもの」を承認するというのと、「議決されたもの」承認するというのでは、国民の側の「議論/検討」にも差がでてきそうだ。「有効投票の過半数」というのも「接戦」になったとき、「過半数」の分母が小さくなるからハードルが低くなる。
そして、いったん一部でも「改正」されると、あとは雪崩を打って、次々に「改正」がつづき、全面改正になる。
「緊急事態条項」だけではなく、細部に罠が張り巡らされていることを、憲法学者や法律家、さらには国会議員はもっともっと「街頭」に出てアピールしてほしい。「緊急事態条項」がなくても、国民を支配するための「改正」が随所におこなわれている。しかも、「保障」を「保証」に変えたり、「個人」を「人」に変えたりと、目をこらさないと見落としてしまいそうな「小さな文言」の変更がある。「文言」自体は「小さい変更」だが、「内容」ががらりと変わるものがある。
参院選の報道のように、テレビを初めとするマスコミは、こういうことを報道しなくなっている。安倍の代弁者になっている。
マスコミを通じてではなく、直接、国民に訴えることが「識者」に求められていると思う。「識者」の「声」を私は「街頭」で聞きたい。直接聞きたい。「対話」のなかで、私は私が見落としているものを学びたい。
「第九章 緊急事態」については、さまざまなところで問題視されている。
(自民党憲法改正草案)
第九章緊急事態
第九十八条
内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
第九十九条
緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
4緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
この条項でいちばん問題なのは、「主語」が突然「内閣総理大臣」になることである。憲法は、常に「国民」を「主語」としてきた。
(現行憲法)
第六十七条
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。
(改正草案)
第六十七条
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会が指名する。
現行憲法の「内閣総理大臣は」は「主語」ではなく「テーマ」。「テーマ」だからこそ「これを」という形で反復されている。実際の「主語」は「国会議員」。「国会議員」が「議決し」、その議決にしたがって指名される。そして「国会議員」というのは国民によって選ばれた存在であるから、そのときもほんとうの「主語」は「国民」である。国民が議員を選び、その議員が国民の「意思」をくみ取る形で総理大臣を指名する。
内閣総理大臣は、憲法の「主語」にはなりえない存在なのである。そのことを「改正草案」は無視している。
これにと同じことは、「改正草案」の第五十四条でも、あった。
(改正草案)
第五十四条
衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。
「国会」のことを定めている条項に、突然「主語」として「内閣総理大臣」が闖入してきている。「教育の義務」を定めた条項(国民が主語の条項)に、突然「国」が「主語」として闖入してきたのにも通じる。
私は憲法学者でも法律家(法律の専門家)でもないが、こんなおかしな「憲法」はありえないだろう。ひとつのことがらを「定める」とき、「主語」は常にひとつでないとことがらが複雑になりすぎる。
「ひとつの文(条項)」に「ひとつの主語」というのは、「法」の基本なのではないか、と私は感じている。
こういう乱暴な「文体」で「憲法」をつくるから、あとは、もうでたらめである。(現行の憲法の文章を「日本語ではない」というひとがいる。安倍もそう考えているかもしれないが、私の見るかぎりでは、改正草案の日本語の方が、まるででたらめである。非論理的で、法になじまない。「主語」が乱れ、「主語」があいまいに隠されている。法は主語と述語を明示し、論理的でないと、判断の「基準」になりえない。)
改正草案は「でたらめな文体」と「ずるい文体」をかきまぜて、「あいまい」な部分を多くつくり出している。
「外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」とある。「緊急事態」は「法律で定める」とあるから、まだ何が緊急事態であるかは決まっていないのだが、「外部からの武力攻撃」と「地震等による大規模な自然災害」のあいだにはさまれた「内乱等による社会秩序の混乱」というのが、ずるくて、あいまいである。
「外部からの武力攻撃」と「地震等による大規模な自然災害」は「社会の内部」で起きることではない。だから、それを「緊急事態」と定義するのは、わりと簡単である。しかし、「内部の変化」は定義しにくい。何を「内乱」と呼ぶかはとても難しい。「内部の変化」は当然、それまでの「秩序の変化」でもある。そうすると、それまでとは違った「秩序」が生まれたとき、それは「内乱」になってしまう。
たとえば選挙で国会議員の自民党と共産党の議席数が逆転したとき、あるいは逆転しそうなとき、それは自民党にとっては「秩序の否定/混乱」になるだろう。そういう「結果」を引き起こす「選挙運動」が展開されたとき、それは「内乱」と呼ばれるかもしれない。選挙結果が自民党の敗北を引き起こしそうとわかったとき(予測されるとき)、「内閣総理大臣」は、それを「内乱」と定義し、「緊急事態」を「宣言」することができる。
三月に安倍内閣は「共産党は破防法の調査対象である」と閣議決定したが、こういうことが「日常的」に、内閣総理大臣の「独断」で起きることになる。これは「思想及び良心の自由」を侵害する行為である。
「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」や「衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。」は選挙の廃止であり、国民の基本的人権を侵すものだ。
「緊急事態条項」の創設の影で、とんでもない「改正」もおこなわれている。
(現行憲法)
第十一章最高法規
第九十七条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第九十八条
この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
改正草案では「第九十七条」の全文削除されている。「憲法が基本的人権を保障する」という部分が全部削除されている。これは「基本的人権」を認めないということである。
改正草案では「この憲法は、国の最高法規」という部分だけを踏襲している。
「基本的人権」を認めない上に、
(改正草案)
第百二条
全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
国民に憲法を尊重する義務を押しつけている。憲法は国民が守る(尊重する)ものではなく、権力が守らなければならないものである。
国民は憲法を守らなくてもいい根拠として、現行憲法の第二十二条をあげることができる。
(現行憲法)
第二十二条
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
「国籍を離脱する」、つまり「日本国民でなくなる」 権利(自由)をもっており、それを「国」は「侵してはならない」。これは、憲法を守らなくていいという「証拠」である。「憲法」が気に食わない、「憲法」を遵守する気持ちがないなら、日本国籍を離脱し、自分の「理想の憲法」を持っている「国」へ行っていい、と言っているのである。
では、憲法はだれが守るのか、尊重するのか。だれが憲法を守らなければならないのか。
(現行憲法)
第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
(改正草案)
第百二条
全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。
現行憲法は、憲法を遵守しなければならない人間として「天皇、大臣、議員、裁判官」などの「公務員」(天皇は公務員ではないが)をあげているが、国民をあげていない。これは憲法が「国(権力)」を縛るものだからである。憲法は国民を縛るものではないから、国民に「遵守義務」はないのである。
改正草案は、「国民」をつけくわえ、天皇を除外している。天皇は「元首」と定義されているから、憲法を超越した存在ということか。ここがいちばん違う。
それと同時に注目したいのは、現行憲法の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官」という順序が、改正案では「国会議員、国務大臣、裁判官」となっていることだ。国務大臣(行政府)の方が国会議員(立法府)よりも憲法を遵守するよう求められている度合いが低い。言い換えると、内閣(行政府/大臣)は国会議員よりも遵守の度合いが低くていい(?)という感じなのだ。
自民党の改正草案は、権力の実際の運用機関(内閣/大臣)を法で拘束する前に、国会議員を拘束する。第一項あわせて考えると、改正草案は、
国民を拘束し(基本的人権を剥奪し)、次に国民が選挙で選んだ国会議員(国民の代表)を拘束し、内閣(行政府)が「独裁」をふるいやすいように改正しているのである。
前後するが、「改正」の章の変更も見落としてはならない。
(現行憲法)
第九章改正
第九十六条
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
(改正草案)
第十章 改正
第九十六百条
この憲法の改正は、衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で、国会が、これを議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民投票において、有効投票の過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、直ちに憲法改正を公布する。
手順がかなり違う。現行憲法は「憲法改正」は「国会の三分の二以上の賛成」で「発議し」、国民が「承認する」。改正草案では、「発議する」ときの「条件」が明記されていない。「条件」がない。「ひとり」が「発議」してもいいことになる。それを「過半数の賛成」で「議決し」、その結果を国民が承認する。
国会内での審議、議決が「改正草案」では簡単である。ハードルが低い。
現行憲法では、あくまで国会は発議し、国民が承認する、過半数で「可決/承認」するのだが、改正案では国会が「議決」までしてしまう。「議決」した結果を国民が「承認」する。「承認させる」と言い直した方がいいかもしれない。「国会」が「議決」しているのに、それを否定するのは「公の秩序を乱す」ことになる。「内乱」になる。
さらに成立の基準も、改正草案では「有効投票の過半数」と低くしている。無効票が大量にあれば、有効票が少なくなる。それだけ「過半数」の基準が低くなる。ここでも「改正」のハードルは低められている。
公布について定めた第二項にも重大な変更がある。
現行憲法には「国民の名で」という文言がある。これは「憲法は国民のもの」という意識があるから、そういう文言があるのだ。改正草案には、これがない。つまり、改正草案は憲法を「国民のもの」と考えていない証拠がここにもある。
自民党は、憲法を改正するとき、まず「改正」の部分から手をつけるだろう。「戦争の放棄」や「緊急事態」に比較すると、激論になる度合いが低い。なによりも「手続き」の問題なので、国民には「自分の生活と直結する」という感じがしない。「反対」運動が起きにくい。
しかし、ここに罠がある。
いったん「改正」が、「衆議院又は参議院の議員の発議により」となってしまうと、先に書いたように「ひとり」の発議でも審議がはじまることになる。そして「過半数」で「議決」まで進んでしまう。「発議されたもの」を承認するというのと、「議決されたもの」承認するというのでは、国民の側の「議論/検討」にも差がでてきそうだ。「有効投票の過半数」というのも「接戦」になったとき、「過半数」の分母が小さくなるからハードルが低くなる。
そして、いったん一部でも「改正」されると、あとは雪崩を打って、次々に「改正」がつづき、全面改正になる。
「緊急事態条項」だけではなく、細部に罠が張り巡らされていることを、憲法学者や法律家、さらには国会議員はもっともっと「街頭」に出てアピールしてほしい。「緊急事態条項」がなくても、国民を支配するための「改正」が随所におこなわれている。しかも、「保障」を「保証」に変えたり、「個人」を「人」に変えたりと、目をこらさないと見落としてしまいそうな「小さな文言」の変更がある。「文言」自体は「小さい変更」だが、「内容」ががらりと変わるものがある。
参院選の報道のように、テレビを初めとするマスコミは、こういうことを報道しなくなっている。安倍の代弁者になっている。
マスコミを通じてではなく、直接、国民に訴えることが「識者」に求められていると思う。「識者」の「声」を私は「街頭」で聞きたい。直接聞きたい。「対話」のなかで、私は私が見落としているものを学びたい。