詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

7月10日は参院選の投票日だと、人に語りかけよう。(番外/2)

2016-07-05 10:09:12 | 自民党憲法改正草案を読む
7月4日(月曜日)NHKのニュースが伝える「今週の予定」。
http://健康法.jp/archives/18874
私はテレビを見ないので、直接確認したわけではないのだが、これはあまりにも「偏向」した報道である。
「世界遺産委員会」や「大相撲」がニュースではないとは言わないが、7月10日は参院選投票日である。
これが「今週のニュース」に入らないのはどういうわけだろうか。

みんなが知っているから?

しかし、みんなが知っていても知らせるのが「報道機関」の仕事である。

NHKが安倍政権よりの報道しかしなくなったことは、すでに語られて久しい。
熊本地震のときは、川内原発のある鹿児島でも震度を観測しているにもかかわらず、地震観測地点を示す地図から鹿児島県を除外していた。
熊本県の南は鹿児島県に隣接しているにもかかわらず、鹿児島での震度を地図に載せていない。
これは原発差再稼働に反対する動きを抑えるためのものだろう。地震が起きると原発の安全性に対して疑問の声が高まる。そういう声を起こさせないために、あたかも鹿児島では地震が観測されなかったかのようにしている。
もちろん画面表示できる「スペース」には限りがあって省略せざるを得ないときもあるだろうが、ほんの少し地図を小さくすれば鹿児島は掲載できる。
そういう工夫をしないところが、すでに情報操作なのである。
九州電力のダムが壊れ、水が流出した。それが原因で崖崩れが起きたと推測される記事が新聞などで報道されると、NHKは水が流出している現場の録画を放送した。そういう現場を撮影していながら、他の報道機関が問題にするまで、情報を隠していた。
(すでに放送されていたかもしれないが、私がその映像を見たのは、ダム崩壊が崖崩れを引き起こしたのではないか、という報道が新聞でおこなわれたあとのことである。それまでは、見ていていない。また、水があふれている写真を新聞で見たこともない。)
本来なら、撮影直後に放送すべきだろう。他の報道機関が把握していない事実なら「特ダネ」だろう。
しかし、それを放送すれば九州電力に悪影響を及ぼすと判断したのだろう。
被害を受ける住民のことは、どうでもいいのである。
NHKは放送する時間がなかった、と言い訳をするかもしれない。

今回の「今週のニュース」も「スペースが足りなくて、省略した」と言い訳をするかもしれない。
しかし、スペースくらい工夫で広げられる。
一項目増やすと文字が読めなくなるくらい小さくなるというわけではない。

なぜ、「参院選投票」という項目を外したか。
18歳選挙権が認められ、18歳、19歳の投票率が話題になっている。
アベノミクスの経済政策と同時に、与党が参院で三分の二の議席を獲得し、憲法改正へ向けて動きを加速するかどうかが注目されている。
はじめて投票する18歳、19歳の投票行動は「判断材料(予測材料)」がない。
多くのひとが投票し、そのために野党の議席が増える、与党の議席が減るということがあっては、困るという思惑(安倍政権の思惑)が反映されている。
そう考えるしかない。

選挙は、選挙報道が少なくなれば少なくなるほど、与党に有利である。
候補者に関する報道は、立候補受け付け順に報道される。政党に関する報道は、国会における勢力順に報道される。
こういうとき、報道の割合(放送なら放送時間、新聞なら報道行数)をなるべく「そろえる」のが普通である。各候補、各政党の主張を公平に報道しないと、選挙妨害にもなりかねない。
これは「少数意見」に配慮した「民主主義」の鉄則のようなものである。「公正/公平」が守られないと、「少数意見」は報道されないことになる。

NHKは、「報道しない」という「公平」を貫くことで、「民主主義」を否定している。
「少数意見」の権利を奪っている。
「少数意見」があるということを報道しないことで、すでに存在が知られている「与党/多数意見」だけを優遇している。
NHKは、「報道しない」という基準を「少数意見」にだけあてはめたのではなく、大多数の与党にもあてはめている。
だから「公平/公正」だと主張するかもしれない。
だが、そういう「論理」が、すでに差別的で間違っている。
何もしないことは、「公平/公正」ではない。
「少数」に配慮しないことは、「多数」の優先なのである。

ただ単に「あるがまま」が「公平/公正」なのではない。
不利な立場のひとに配慮し、「対等」であるようにするのが「公平/公正」である。
バリアフリーの思想は、そういうところから生まれ、ようやく根付き始めている。
言論においてもバリアフリーは重要な問題である。
NHKのような、「公共放送」が、「バリア」をつくる報道をするのは許せない。

こんなことでは、もう二度と、自由、公正な選挙は実現しないだろう。
今回の参院選の結果、与党が議席の三分の二を占めることになれば、もう二度と「自由な選挙」はおこなわれないだろう。

NHKの「今週のニュース(今週の予定?)」は「少数意見への弾圧」には見えないかもしれない。
それは「見えない」ように巧みに仕組まれているからである。
「書き漏らしただけ」「スペースが足りないから省略したのであって、少数意見を弾圧したわけではない」と、NHKは言い張るだろう。
公共施設にバリアフリーのスロープがない、車椅子で使用できるトイレがない(入り口が狭くて車椅子が入れない)、点字ブロックの案内がないとき、それつくったひとは「身体障害者を排除しているわけではない」と言うだろう。
しかし、「排除する意志」がなくても、「配慮する意志」がないなら、それは結果として「排除」なのだ。

18歳、19歳の投票率は、低いだろうと予測されている。
福岡県うきは市長選は、全国で最初に18歳、19歳が選挙権を行使した選挙である。
投票率は38%ときわめて低かった。
参院選もそうなるのかもしれない。
しかし、低くなることを「利用」して選挙戦を戦う、低くなるようにしむけて選挙結果を誘導するというは、完全に間違っている。
ひとりでも多くの人間が、ひとつでも多くの「主張」にふれて、「選択する」。
そういう機会をつくるのが報道の使命だろう。

選挙に行こう、投票しよう。
7月10日は参院選の投票日だと、人に語りかけよう。
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三井喬子「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」

2016-07-05 08:47:38 | 詩(雑誌・同人誌)
三井喬子「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」(「イリプスⅡ」19、2016年07月01日)

 三井喬子「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」も、「どんな表現も感覚の歓びを伴わなくては詩にならない。」(北川透)ということを証明している。というか、三井の詩を読むと、「意味」ではなく、ことばを発するときの「感覚の歓び」が動いている。(私の言い方で言い直せば、「ことばの肉体」が動いている。ことばが「意味」に縛られず「自発的」に動いている。)
 タイトルの「オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」からして、もう、そこに「歓び」がある。「オフィーリア、オフィーリア、」は「二度」。「三度」ではない。しかし、「三度唱えよ」ということばがつづくとき、「ことば」の内側では「オフィーリア」が「三度」動いている。書かれているのは「二度」なのに。「オフィーリア、と三度唱えよ」では、「音」が聞こえない。「オフィーリア、オフィーリア、オフィーリア、と三度唱えよ」では「三度」が聞こえなくなる。そこに「三度」と書かれているのに、それが「三度」に聞こえない。うるさいことばになってしまう。一回省略されている反復(リズム)だからこそ、そこに「三度」が自発的に動いていく。ことばの肉体が歓んで動いていくのだ。「隙間」というか、「二度」なのに「三度」と「飛躍」していくところに、思わず「ことばの肉体」が誘い出されて動き出す秘密がある。
 このタイトルを受けて、書き出しも楽しい。

構成された言葉の隙間に水が満ち
オフィーリア あなたは
花々の下に暗い根茎のはびこりを許すのだ
抱きしめられるとき
それも精神への暴力だと知りながら
オフィーリア
束縛を求める悲しさ 寒さ

 「構成された」という抽象的なことば。「花々の下に暗い根茎」という具体的なことば。具体的とは言っても、「花々の下」は土のなかなので「暗い根茎」が直接見えるわけではないから、それも抽象的と言ってもいいかもしれない。しかし、花々が根を持っていることは、知っていること(花を抜いたときに見たことがある)ので具体的とも言える。「構成された」は逆に抽象的ではあるけれど「言葉」と「言葉」のつながりは耳(音)や目(文字)で確かめることができるので具体的であるとも言える。
 抽象と具体が、ここでは交錯して動いている。
 その「交錯」した感じ、抽象と具象が入れ替わる感じ、どちらがどちらとも言えない感じ、両方の感じが……。

抱きしめられるとき
それも精神への暴力だと知りながら

 この「抱きしめる」(抱擁/愛)と「精神への暴力」(愛ではないもの)という「交錯」を輝かせる。しかも、それは「知りながら」と書かれているように、「知っている」ことなのだ。「知っている」とは「肉体」で「おぼえている」ということ、「肉体」で「思い出すことができる」ということなのだが、そういうことを書きはじめると、私がいつも書いていることの繰り返しになってしまうので、今回は省略。
 それが「暴力」と「知りながら」、それを「求める悲しさ 寒さ」。このとき「暴力」は「束縛」と言い直されているのだが、言い直すことで「暴力」が「肉体的」なのものであるのに、「悲しさ」という「感情」に、さらには「寒さ」という「感覚」に変化していく。
 ここにも具象と抽象の交錯があり、それが精神を活性化させる。この活性化を「歓び」という。「ことばの肉体の自発的な動き」(自律的な変化)があり、その動き/変化が、ことばを「語る」ときの「歓び」そのもとなって伝わってくる。
 「花々の根がはびこる」を「はびこりを許すのだ」と、「主語」を「花々」から「オフィーリア」へと変化させる(文章的には最初から「主語」は「オフィーリア」だけれど……)ときの、「ねじれ」のようなものにも「官能」がある。次に書かれる「暴力」に「束縛」されることを「許し」、さらにそれを「求める」という「矛盾」が「歓び」となって輝く。
 こういう不思議な「錯乱」を「オフィーリア」ということばの繰り返しが支えるというか、その繰り返しのリズムが「錯乱」のスピードを後押しする。

 でも、これを

パズルのように一言を入れ替えると
「愛」が愛として成り立つのよ
と あなたは言った
透明な
早春の光の中で

 とつないで行くと、うーん、「歓び」が消えてしまう。最初に書かれていた抽象と具象の拮抗、肉体と精神の衝突のようなリズムがなくなる。
 書き出しはあんなにおもしろかったのに、とだんだん残念になる。

オフィーリア、
オフィーリア、
オフィーリア、
三度唱えて肌を重ねて
素早くあなたに入るとき
これは葡萄のお酒よ花の蜜よ
と囁いた

 あ、ほんとうに「三度」、「オフィーリア」を声にしてしまっては、もう「飛躍」はない。「美しさ」を装って「比喩」が逆に「卑俗」そのものになる。

紅の小箱
三井 喬子
思潮社
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