岩佐なを「灰」(「孔雀船」88、2016年07月15日発行)
岩佐なを「灰」は、よくわからない。
この「夜」は「眠りに繋ぐ」ということばがあるから、寝る前の夜のことだ。こういうときって、寝てしまったら「夜」なのか。
たぶん、眠ってしまったら、そこから「夜」は消えてしまうだろうなあ。
この「なぞる」は「記憶をなぞる」という意味なのだが、違うものを「なぞる」という感じが強い。「仔細」が、とくにそう思わせる。「仔細をなぞる」とき、「肉体」が動く。「目(肉眼)」で「なぞる」にしろ、それは「接触」を含む。
「触覚」というのは「触れる」ということ。「触れる」と、相手も反応する。
「告げてくる」が、不思議なのである。
「肉体」が動いていたのが、いつのまにか「肉体」が消えて、「記憶/精神/心」に「告げてくる」。
で、これが一行目の「心を通わせる」ということなのだ。
何か、「心(精神)」というものと「肉体」というものが、途中で混ざり合い、よくわからなくなる。
というようなことは、ほんとうは書いても書かなくてもよくて……。
私がびっくりしたのは、三連目。
このあとも詩はつづくのだけれど、詩は「ストーリー」ではないから、そこへは踏み込まずに、この三行、いや「春のぬくもりは空気(上半身/地面は冷ややかだった(下半身」にとどまって、感想を書く。
「上半身」「下半身」の「意味」は、わかる。
庭におりたら、空気は温かいのに地面は冷たい。あたたかいと感じるのは「上半身」、冷たい(冷ややか)と感じるのは「下半身」。
でも、ほんとう?
あたたかいと感じるのが「上半身」かどうか、私にはわからない。というよりも、「冷たい」と感じるのは「足の裏」。それが「下半身」と呼べるかどうか、わからない。「足の裏」というのは「局部」である。
私は「足の裏」を「下半身」とは呼ばない。
岩佐は「局部」を「半分(半身)」までは「拡大」できるのである。
「四捨五入」ということばがあるが、なんといえばいいのか、岩佐には人間を「四捨五入」してながめている雰囲気があるなあ、と急に思ったのである。
ただし、その「四捨五入」は独特である。
ふつう「四捨五入」というのは、だいたいの見当でわりきってしまうことだが、岩佐は「割り切ってしまう」ところを、その「両端」で表現するのではなく、「真ん中」へ押し寄せるようにして表現する。
土の冷たさを感じる「足裏」を「足裏」として「端っこ」でつかみ取るのではなく、それを「半分(下半身)」まで拡大する。「足裏」が冷たいことを、「頭が冷たい」という嘘になるから、からだの半分までは「冷たい」にしてしまう。
こういう「越境寸前まで拡大した肉体」で、何かに触れる。何かを「なぞる」のだ。きっと。「肉体」というのは繋がっていて、「半分」に切り離したりできないから(切り離せば死んでしまうから)、この「半分/半身」という考え方は「頭」の操作といえるのだが。
どうも、「このあたり」で岩佐の、詩は動いている。ことばは動いている。
「越境寸前の半分」
「越境」というのは「越境」しなくても、それを意識しただけで、すでに「越境」しているかもしれない。
ふつうは「越境」は危ないので、「境」には近づかず、引き返す。「端っこ」で整理する。「四捨五入」して、「半分」を遠ざける。
そういうこととは、違うんだなあ、と「ぼんやり」と感じた。
あ、何を書いているかわからないね。
「論理」になりきれない。
こういうときは、「論理」にしてしまわずに、このままほうっておこう。
ただ、ちょっと何を書いてきたのか振り返って読み直したとき、気になることがあった。私は最初に、寝てしまったら「夜」なのかなあ、という漠然とした疑問を書いたのだが、この「疑問」は、最後に書いた「半分」を先取りしていたものかもしれない。
眠る前、寝ようとしている夜。そして眠る。そのとき「眠り」は「夜」を「二分する」。「眠る前の夜」と「寝たあとの夜」。それは「頭」ではな「二分」できるが、「肉体」にはその「二分」がよくわからない。「二分」の「境」は消えてしまう。「越境」ではなく、「境」が消えて、その結果「夜」も消える。
はずなのだが。
うーん、よくわからない。
岩佐のことばは、その「越境」(境を消す)寸前のところまで動いていって、動くことで「境/夜」を残したままなのだ。
「論理」になる(四捨五入する/何かを整理してしまう)前で、とどまっている。
この変な感じ……いまでは、慣れてしまって、この感じが「好き」と言えるけれど、昔岩佐の詩が気持ち悪くて大嫌いだった時代があって、それはこの「変な感じ」にとまどっていたんだろうなあ。
いまも、とまどうのだけれど。
「半分」と「半分」がつくりだす「越境」についてことばを動かしていくと、岩佐の詩がもっと肉体に迫ってくるかもしれないと思った。
今回は「下半身/上半身」ということばに、その「手がかり」を見た、というだけのことなのだけれど。
しかし、まあ、次に詩を読んだとき、また違うことを考えるかもしれないけれど。
岩佐なを「灰」は、よくわからない。
心を通わせることの
できるものがひとつあれば
おちつく夜もある
眠りに繋ぐくすりではなく
挿花でも便座でも宙に浮く
ほこりめいたわだかまりや
たけなわのきおくでも
この「夜」は「眠りに繋ぐ」ということばがあるから、寝る前の夜のことだ。こういうときって、寝てしまったら「夜」なのか。
たぶん、眠ってしまったら、そこから「夜」は消えてしまうだろうなあ。
枯れた草
草の灰
静かでありたい蒲団に入ってからは
ひとりひとり想って
関わった仔細をなぞってみる
この「なぞる」は「記憶をなぞる」という意味なのだが、違うものを「なぞる」という感じが強い。「仔細」が、とくにそう思わせる。「仔細をなぞる」とき、「肉体」が動く。「目(肉眼)」で「なぞる」にしろ、それは「接触」を含む。
「触覚」というのは「触れる」ということ。「触れる」と、相手も反応する。
もう会えない人
まだ会えそうで会えない人
忘れかけている人からは
すでに忘れられている
たとえ大切だったとしても
想いだされないことはつらくない
と逝った飼い犬も枯れた庭木も告げてくる
「告げてくる」が、不思議なのである。
「肉体」が動いていたのが、いつのまにか「肉体」が消えて、「記憶/精神/心」に「告げてくる」。
で、これが一行目の「心を通わせる」ということなのだ。
何か、「心(精神)」というものと「肉体」というものが、途中で混ざり合い、よくわからなくなる。
というようなことは、ほんとうは書いても書かなくてもよくて……。
私がびっくりしたのは、三連目。
子供時分裸足でおりた庭の土
春のぬくもりは空気(上半身
地面は冷ややかだった(下半身
このあとも詩はつづくのだけれど、詩は「ストーリー」ではないから、そこへは踏み込まずに、この三行、いや「春のぬくもりは空気(上半身/地面は冷ややかだった(下半身」にとどまって、感想を書く。
「上半身」「下半身」の「意味」は、わかる。
庭におりたら、空気は温かいのに地面は冷たい。あたたかいと感じるのは「上半身」、冷たい(冷ややか)と感じるのは「下半身」。
でも、ほんとう?
あたたかいと感じるのが「上半身」かどうか、私にはわからない。というよりも、「冷たい」と感じるのは「足の裏」。それが「下半身」と呼べるかどうか、わからない。「足の裏」というのは「局部」である。
私は「足の裏」を「下半身」とは呼ばない。
岩佐は「局部」を「半分(半身)」までは「拡大」できるのである。
「四捨五入」ということばがあるが、なんといえばいいのか、岩佐には人間を「四捨五入」してながめている雰囲気があるなあ、と急に思ったのである。
ただし、その「四捨五入」は独特である。
ふつう「四捨五入」というのは、だいたいの見当でわりきってしまうことだが、岩佐は「割り切ってしまう」ところを、その「両端」で表現するのではなく、「真ん中」へ押し寄せるようにして表現する。
土の冷たさを感じる「足裏」を「足裏」として「端っこ」でつかみ取るのではなく、それを「半分(下半身)」まで拡大する。「足裏」が冷たいことを、「頭が冷たい」という嘘になるから、からだの半分までは「冷たい」にしてしまう。
こういう「越境寸前まで拡大した肉体」で、何かに触れる。何かを「なぞる」のだ。きっと。「肉体」というのは繋がっていて、「半分」に切り離したりできないから(切り離せば死んでしまうから)、この「半分/半身」という考え方は「頭」の操作といえるのだが。
どうも、「このあたり」で岩佐の、詩は動いている。ことばは動いている。
「越境寸前の半分」
「越境」というのは「越境」しなくても、それを意識しただけで、すでに「越境」しているかもしれない。
ふつうは「越境」は危ないので、「境」には近づかず、引き返す。「端っこ」で整理する。「四捨五入」して、「半分」を遠ざける。
そういうこととは、違うんだなあ、と「ぼんやり」と感じた。
あ、何を書いているかわからないね。
「論理」になりきれない。
こういうときは、「論理」にしてしまわずに、このままほうっておこう。
ただ、ちょっと何を書いてきたのか振り返って読み直したとき、気になることがあった。私は最初に、寝てしまったら「夜」なのかなあ、という漠然とした疑問を書いたのだが、この「疑問」は、最後に書いた「半分」を先取りしていたものかもしれない。
眠る前、寝ようとしている夜。そして眠る。そのとき「眠り」は「夜」を「二分する」。「眠る前の夜」と「寝たあとの夜」。それは「頭」ではな「二分」できるが、「肉体」にはその「二分」がよくわからない。「二分」の「境」は消えてしまう。「越境」ではなく、「境」が消えて、その結果「夜」も消える。
はずなのだが。
うーん、よくわからない。
岩佐のことばは、その「越境」(境を消す)寸前のところまで動いていって、動くことで「境/夜」を残したままなのだ。
「論理」になる(四捨五入する/何かを整理してしまう)前で、とどまっている。
この変な感じ……いまでは、慣れてしまって、この感じが「好き」と言えるけれど、昔岩佐の詩が気持ち悪くて大嫌いだった時代があって、それはこの「変な感じ」にとまどっていたんだろうなあ。
いまも、とまどうのだけれど。
「半分」と「半分」がつくりだす「越境」についてことばを動かしていくと、岩佐の詩がもっと肉体に迫ってくるかもしれないと思った。
今回は「下半身/上半身」ということばに、その「手がかり」を見た、というだけのことなのだけれど。
しかし、まあ、次に詩を読んだとき、また違うことを考えるかもしれないけれど。
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