永方佑樹『√3 』(思潮社、2016年06月20日発行)
永方佑樹『√3 』の「√3」は「ルート3」。「√」のなかに「3」を入れたまま表記できないので、こういう表記になった。
日本語の表記文字は「ひらがな」「漢字」「カタカナ」と三つある。その組み合わせ方に配慮して書かれた詩、ということになっている。サイン、コサイン、タンジェント、その総合というような「数式」で組み合わせ方が書かれているが、そんなことを言われても、わからない。「√3」というのは直角三角形(直角以外のふたつの角が30度、60度)の長い方の直線(30度と90度を結ぶ線)だったかなあ、ピタゴラスの定理だったかなあ、と記憶を振り返るが、それ以上はわからない。わからないことは、わかったふりをしないで感想を書く。つまり、永方の意図は無視して、私は私の読みたいままに読む。
「ひらがな」の詩が、古典的(?)でおもしろい。ほんとうのタイトル(?)ではなく、詩の末尾のタイトルで引用すると、26ページの「はるけぶり」の書き出し。(ところどころ「漢字」のルビがあるのだが、表記できないので省略。詩集で確認してください。)
音がゆらぐ。ゆらぐことで、次の音を引き出している。「意味」はよくわからないというか、「意味」を考える気持ちにはなれない。あ、この音のつらなりかたは気持ちがいいぞと「肉体」が反応する。
強引に「理屈」をつけると一行目は「も」の音がとぎれとぎれにでてくる。「もよいどれ」は「も よいどれ」の方が読みやすいのかもしれないが、「もよいどれ」とつづけることで逆に「も」があるんだぞ、と教えてくれる。「もよい」じゃないんだぞ、と「肉体」がひっかきまわされる。で、ひっかきまわされた「肉体」が「ま行」を探し出す。
「ま行」がみつかると、「ろ」も見つかる。
つづいて「た行」も見つかる。
この「見つかる音」の「見つかり方/見つけ方」というのはひとによって違うだろうけれど、私の場合は「も」「ま」「ろ」「と」という感じ。
で、このあと「ろ」と「と」、「ら行」と「た行」が、なんとも言えず気持ちよくなる。
私は富山の生まれで、小さいときは「富山弁」。
ひとによって違うのだが、友人に「た行」と「ら行」が似かよったひとがいた。「じてんしゃ」を「じりんしゃ」と言う。彼は「え」と「い」も似かよっている。(「いろえんぴつ」を「えろいんぴつ」と言う田中角栄みたいな感じ)。「ら行」を「R」ではなく「L」で発音するからだ。親類に「新潟県人」がいるのかなあ。
私は巻き舌の「R行派」なので、「L行派」の音が気になったのかもしれない。
で、その「た行」「ら行」がつづくときなのだが、「よいどれ」「まどろむ」の場合、私はどうしても「R」の音になる。「じりんしゃ」の友人は、どうかなあ、とちょっと思ったのである。特に「まどろむ」は、私は「L」で発音するのは、かなり意識しないとできない。「R」だと気持ちがいい。
そういう「どうでもいいこと」が「肉体」のなかで、動き回る。「音読派」ではなく「黙読派」なので実際には口を動かさないのだが、無意識に舌やのどが動いていて、ここの部分、気持ちがいいと感じる。
母音の動きも、内にこもった感じが、おもしろいなあ。「あけがた」という「あ」の響きが強い開放的な音もあるけれど、一行目は「お」が手をつなぎあっている。二行目は「う」の音がつながっている。「音」が「意味」よりも優先して、かってに(?)動いていく感じが、とても気持ちがいい。
この「音」はおぼえているぞ。読んだことがある、聞いたことがあるぞ、という安心感といえばいいのだろうか。
漢字が主体の「南無妙法蓮」の32-33ページ。
ここで、私は「漢字」ではなく、つまり「表象文字」ではなく「音」に反応してしまう。「たちまち」「たちこめ」「かけこみ」、「あめやみ」「まつ」。一種の「しりとり」がある。「韻」がある、と言えばいいのかな?
眼が悪くて引用を省略してしまうのだが「胡座を斜めに崩して伸ばす脹脛(ふくらはぎ)の丸みは汗を絡み。」の「あぐら」「くずす」「のばす」「ふくらはぎ」の濁音のつながり、「まるみ」「からみ」の脚韻の呼応も、「肉体」を刺戟してくる。
この「音」を聞いたことがあるぞ、と「肉体」が言うのである。
もちろんどのことばも「日本語」だから知っている。聞いている。しかし、それでも「聞いたことがあるぞ」と感じるのは、言い直すと、あ、これを「声」にしてみたいという欲望が私の「肉体」のなかで動いているということである。
知っている曲ではなくても、はじめて聞く曲でも、聞いてすぐにハミングで追いかけたくなるような音楽がある。それに似た感じと言えばいいだろうか。
永方は「音」でことばを書くひとなんだ、と思った。
カタカナ。あ、私はカタカナ難読症。読めないのだが、「トウキョウ・デコラティブ」の書き出し56ページ。
「ロゴス」「ロジック」、「キャラメリゼ」「プリズム」、「スラッシュ」「スペクトク」という「音」の響きあいとは別に、「ひらがな」に気づいて、私は、はっとする。いや、椅子から転び落ちそうになるくらいに驚いた。
「ひらがな」はまず「助詞」の「の」としてあらわれる。あ、そうか「助詞」は「カタカナ」にならないのか。「漢字」にならないのか。「助詞」は「日本語」特有のことばだと思うが(いや、助詞をもっている外国語はあるだろうけれど、私は知らないというだけなのだろうけれど)、その部分が「ひらがな」なのは、そうすると「ひらがな」こそが「日本語」の音とリズムをつくる基本なのかな、とふと感じたのだ。いや、「発見した」と思って、びっくりした。自分に驚いたのか、永方に驚いたのか、詩に驚いたのか、よくわからないが。
さらに「照らしている」この漢字まじりのことばの「ひらがな」。このひらがなというのは「活用」している部分だねえ。語幹は漢字、でも活用は「ひらがな」。ここにもきっと「日本語」の特有の何かがあるぞ。
「助詞」で文体に「粘着力」をつけ、「活用」でそれをひきずって動く。「ひらがな」の部分で日本語は日本語らしくなる。「ひらがな」は「音」そのもの。「表音文字」。
この感想の最初に、
と書いたのだが、これは「ひらがな」の動きが「日本語」の「伝統」そのものをあらわしている。日本の伝統につながっている、と感じたということかもしれない。その日本語の伝統が、漢字を主体にした詩、カタカナを主体にした詩にもあらわれている。
へええっと、思ったのである。
最後の略歴をみると永方パリに留学していたよう。フランス語に触れることで日本語の「音」そのものに詩を発見したということなのかなあ。「音」が楽しい詩集だ。
永方佑樹『√3 』の「√3」は「ルート3」。「√」のなかに「3」を入れたまま表記できないので、こういう表記になった。
日本語の表記文字は「ひらがな」「漢字」「カタカナ」と三つある。その組み合わせ方に配慮して書かれた詩、ということになっている。サイン、コサイン、タンジェント、その総合というような「数式」で組み合わせ方が書かれているが、そんなことを言われても、わからない。「√3」というのは直角三角形(直角以外のふたつの角が30度、60度)の長い方の直線(30度と90度を結ぶ線)だったかなあ、ピタゴラスの定理だったかなあ、と記憶を振り返るが、それ以上はわからない。わからないことは、わかったふりをしないで感想を書く。つまり、永方の意図は無視して、私は私の読みたいままに読む。
「ひらがな」の詩が、古典的(?)でおもしろい。ほんとうのタイトル(?)ではなく、詩の末尾のタイトルで引用すると、26ページの「はるけぶり」の書き出し。(ところどころ「漢字」のルビがあるのだが、表記できないので省略。詩集で確認してください。)
ひと も こと もよいどれ、ゆめ もろともまどろむあけがた、
くすんだかぜ鳴りはあわく ぬくもり、うすまる
音がゆらぐ。ゆらぐことで、次の音を引き出している。「意味」はよくわからないというか、「意味」を考える気持ちにはなれない。あ、この音のつらなりかたは気持ちがいいぞと「肉体」が反応する。
強引に「理屈」をつけると一行目は「も」の音がとぎれとぎれにでてくる。「もよいどれ」は「も よいどれ」の方が読みやすいのかもしれないが、「もよいどれ」とつづけることで逆に「も」があるんだぞ、と教えてくれる。「もよい」じゃないんだぞ、と「肉体」がひっかきまわされる。で、ひっかきまわされた「肉体」が「ま行」を探し出す。
「ま行」がみつかると、「ろ」も見つかる。
つづいて「た行」も見つかる。
この「見つかる音」の「見つかり方/見つけ方」というのはひとによって違うだろうけれど、私の場合は「も」「ま」「ろ」「と」という感じ。
で、このあと「ろ」と「と」、「ら行」と「た行」が、なんとも言えず気持ちよくなる。
私は富山の生まれで、小さいときは「富山弁」。
ひとによって違うのだが、友人に「た行」と「ら行」が似かよったひとがいた。「じてんしゃ」を「じりんしゃ」と言う。彼は「え」と「い」も似かよっている。(「いろえんぴつ」を「えろいんぴつ」と言う田中角栄みたいな感じ)。「ら行」を「R」ではなく「L」で発音するからだ。親類に「新潟県人」がいるのかなあ。
私は巻き舌の「R行派」なので、「L行派」の音が気になったのかもしれない。
で、その「た行」「ら行」がつづくときなのだが、「よいどれ」「まどろむ」の場合、私はどうしても「R」の音になる。「じりんしゃ」の友人は、どうかなあ、とちょっと思ったのである。特に「まどろむ」は、私は「L」で発音するのは、かなり意識しないとできない。「R」だと気持ちがいい。
そういう「どうでもいいこと」が「肉体」のなかで、動き回る。「音読派」ではなく「黙読派」なので実際には口を動かさないのだが、無意識に舌やのどが動いていて、ここの部分、気持ちがいいと感じる。
母音の動きも、内にこもった感じが、おもしろいなあ。「あけがた」という「あ」の響きが強い開放的な音もあるけれど、一行目は「お」が手をつなぎあっている。二行目は「う」の音がつながっている。「音」が「意味」よりも優先して、かってに(?)動いていく感じが、とても気持ちがいい。
この「音」はおぼえているぞ。読んだことがある、聞いたことがあるぞ、という安心感といえばいいのだろうか。
漢字が主体の「南無妙法蓮」の32-33ページ。
上野公園の目盛は濛々、
汗と糞尿の匂いが忽ち、下水の臭気と立籠め駆込み、蓮見茶屋で雨止みを待つ。
ここで、私は「漢字」ではなく、つまり「表象文字」ではなく「音」に反応してしまう。「たちまち」「たちこめ」「かけこみ」、「あめやみ」「まつ」。一種の「しりとり」がある。「韻」がある、と言えばいいのかな?
眼が悪くて引用を省略してしまうのだが「胡座を斜めに崩して伸ばす脹脛(ふくらはぎ)の丸みは汗を絡み。」の「あぐら」「くずす」「のばす」「ふくらはぎ」の濁音のつながり、「まるみ」「からみ」の脚韻の呼応も、「肉体」を刺戟してくる。
この「音」を聞いたことがあるぞ、と「肉体」が言うのである。
もちろんどのことばも「日本語」だから知っている。聞いている。しかし、それでも「聞いたことがあるぞ」と感じるのは、言い直すと、あ、これを「声」にしてみたいという欲望が私の「肉体」のなかで動いているということである。
知っている曲ではなくても、はじめて聞く曲でも、聞いてすぐにハミングで追いかけたくなるような音楽がある。それに似た感じと言えばいいだろうか。
永方は「音」でことばを書くひとなんだ、と思った。
カタカナ。あ、私はカタカナ難読症。読めないのだが、「トウキョウ・デコラティブ」の書き出し56ページ。
ガンマ、ゼータ、デルタ の
ロゴスとロジックでデフォルトされた
ポストモダンコンクリートを
キャラメリゼされたコハクのプリズムが
スラッシュのスペクトルで照らしている
「ロゴス」「ロジック」、「キャラメリゼ」「プリズム」、「スラッシュ」「スペクトク」という「音」の響きあいとは別に、「ひらがな」に気づいて、私は、はっとする。いや、椅子から転び落ちそうになるくらいに驚いた。
「ひらがな」はまず「助詞」の「の」としてあらわれる。あ、そうか「助詞」は「カタカナ」にならないのか。「漢字」にならないのか。「助詞」は「日本語」特有のことばだと思うが(いや、助詞をもっている外国語はあるだろうけれど、私は知らないというだけなのだろうけれど)、その部分が「ひらがな」なのは、そうすると「ひらがな」こそが「日本語」の音とリズムをつくる基本なのかな、とふと感じたのだ。いや、「発見した」と思って、びっくりした。自分に驚いたのか、永方に驚いたのか、詩に驚いたのか、よくわからないが。
さらに「照らしている」この漢字まじりのことばの「ひらがな」。このひらがなというのは「活用」している部分だねえ。語幹は漢字、でも活用は「ひらがな」。ここにもきっと「日本語」の特有の何かがあるぞ。
「助詞」で文体に「粘着力」をつけ、「活用」でそれをひきずって動く。「ひらがな」の部分で日本語は日本語らしくなる。「ひらがな」は「音」そのもの。「表音文字」。
この感想の最初に、
「ひらがな」の詩が、古典的(?)でおもしろい。
と書いたのだが、これは「ひらがな」の動きが「日本語」の「伝統」そのものをあらわしている。日本の伝統につながっている、と感じたということかもしれない。その日本語の伝統が、漢字を主体にした詩、カタカナを主体にした詩にもあらわれている。
へええっと、思ったのである。
最後の略歴をみると永方パリに留学していたよう。フランス語に触れることで日本語の「音」そのものに詩を発見したということなのかなあ。「音」が楽しい詩集だ。
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