詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩集「改行」へ向けての、推敲(4)

2016-07-19 10:23:12 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(4)

(21)隣のことば

夜遅く帰ってきた
隣のことばが無言でものを食っている
箸を動かしたあとしつこいくらいに噛む
顎と舌を動かす唾液をまぜる
食うことを強制されたようにむりやり

と描写することばと
描写されることばのあいだ

お茶をすすり終わると
歯も磨かずに奥の部屋へずって行き布団にもぐり寝る
だらしないぬくもりがみだれることば










(22)本のなかを、

本のなかを走っている鉄道を八時間かけてたどりついた朝、
ことばはホテルのベッドに横たわっている。それから
降りはじめた雨になって窓の外側を流れてみる。
葉を落とした梢が揺れ、影が細く乱れる。
それを別なことばで言い直すのはむずかしい。
本のなかのことばは、音楽会に行くべきかどうか迷っている。
まったく希望をもっていない。
胃の手術を二度した父のように。

枕元のスタンドは黄色い光。
広げたノートの上にことばが小さな影をつくっている。
書こうとして書けないことの、あるいは鉛筆の、












(23)今ごろだったな、

今ごろだったな、きみが帰って行ったのは。

私の街では、今ごろの時間、交差点の半分はビルの影になる。
こどもの手を引いたきみが斜めの青い影から光のなかへ歩きだす。
きみの手を握ったこどもの手の甲が日差しのなかで
思い出のようにやわらかく光った。
思い出になってしまった。











(24)バスに乗っていると、

バスに乗っていると、
これから行くあの部屋から音楽が聞こえてくる。

ガスをつけると
レンジに青い花が咲く。

あの部屋で、
私はバスに乗って聞いた音楽を思い出す。

本棚に本が二列に並んでいる。
コーヒーが匂う。

バスに乗っていると、
これから行くあの部屋から音楽が聞こえる。












(25)私がことばを見たのは、

私がことばを見たのは街の皮膚が奇妙な仕方で剥がされたときだった。
コロシアムに降っていた雨が去ってしまうと
真昼の光がアスファルトに広がり、
完璧すぎるシンメトリーの鏡となった。

私がことばを見たのは何かについての嘘のなかだった。
(廃墟の墟は嘘に似ている)
めまいのなかで時間が石の形にもどる。
視線は失ったものを無関心に変換しながら四方に飛び散る。

私がことばを見たのは裏切りたいという期待を思い出したときと
裏切られる愉悦が甦ったときだった。
さかさまの虚像の鏡像はまっすぐな実像であり、
反重力の視線で対極の空を見下ろす。

私がことばを見たのは、ことばが私を見なかったときだ。












(26)あるいは、そうではない

あるいは、そうではないという仮定があって、その仮定はそうではないと主張した瞬間にはまだ反論のための具体的な事実をつかんでいない。何かを探しあてるための時間稼ぎのために、そうではないというのだが、

あるいはそうではないという仮定には実体はなくて、「あるいは」という接続詞にこそ、それまでのことばとは違うものになりたいという論理の欲望、深層の動機のようなものがあるのかもしれないし、

あるいはそうではないという仮定と、あるいはそうかもしれないと肯定して始める対話は正反対のようであっても、どこかへ行こうとする動きの共通項がある。いずれも、結論にたどり着けず、虚無が広がるという共通項も。

あるいはそうではないという仮定を立てることはいつでも可能なので、ことばは、どこまで今のことばを動かしていけばいいのかわからない。このことばは結論を用意する仮定ではないのかもしれないとことばは疑うのだった。











(27)部屋に入っていくと、

部屋に入っていくと、
押したり、つついたり、たたいたり、ことばをいじめていたことばたちが散らばって、
いじめられていたことばさえ、逃げていくことばのなかに隠れ
何もなかったように整列しはじめた。

(私とは絶対に接続しないと申し合わせているようだった)

見渡すと、ことばたちはひとつひとつ沈黙を机の上にならべていた。
新学期の教室のように磨かれた窓から光が差してきて、
足元にころがった「て、に、を、は」に影をつくった。
「の」も「しかし」も「そして」も「あるいは」も、
酷使されつづけくたびれはてた「も」も、

机の上にはノートと鉛筆と消しゴムがあったが、
どんな「物語」もなかった。
こんな辻褄があわないことがあっていいのか--ことば声を出そうとするが
のどは放課後の廊下のように遠ざかっていく。











(28)詩ではなく、

ことばはほかのことばと同じように休んでいた。
川のない街ではことばは歩道橋に集まってきて休む。
ビルの窓が四角い明かりを放出しビルの壁は夜よりも暗くなるが
まだ働いていることばの顔がここからは見える。

鳩をつがいにするために二羽を暗くて狭い箱の中に閉じ込める
最初はけんかをしているが一晩たつと落ち着く
ことばも狭い部屋に閉じ込められて強制的に見知らぬことばと交接させられる。
みんなの見ている前で頭の天辺を毟られて、写真までとられて。

ことばはその色っぽい敗北とかなしい勝利を何度経験したことか。
忘れてはならない屈辱があったはずだが
忘れてはならないということ以外は忘れてしまった。
ほかのことばのなかで意味になってしまったのだろう。

ことばはほかのことばと同じように意味に感染してしまった。
意味にかわってしまわないことばなど存在しない--と言われているが。
だからこうやってあてもなくほかのことばと同じように休むのだ。
もう少しすれば星の出る前の空の色のようにため息をつける。











(29)十一月の雨/雨女異聞

十一月の雨がなだらかな下り坂の電柱の脇でうずくまっていた。
鎖骨を折ってうめいていた。
鎖骨というのは肩のことろにある骨で、
痩せたひとだと鎖骨がつくるくぼみに雨をためることができる。
私は一瞬、その雨を背の高い女だと勘違いして声をかけた。
雨女は勘違いのなかで、
振り向いた顔をさらに反対に動かして、水色のパイプを視線で指し、事実になった。
法面をコンクリートのブロックがおおっていて、
そのブロックで塞き止められた水を逃がすパイプがある。
パイプから落ちてきた水が雨の鎖骨のくぼみにたまって、
雨はバランスをくずして倒れたのだという。

水がそんなに危険なものだとは一度も聞いたことがない。
だいたい排水パイプから落ちてくる水も同じ雨である。
同じものから生まれたものが、同じものを襲うということはあるのか。
詰問するつもりはなかったが、雨女は息を詰めたたまま
痛くて痛くてたまらないということばになりたがった。











(30)迷う/異聞

 「迷う」ということばは、その坂道にやってきた。作者が見つからないので、花屋の前でぶらぶらしている時間に道をたずねた。時間となりでは、好奇心が無関係な方向を向いきながら、耳をとがらせていた。それは「迷う」がおぼえている風景に似ていた。記憶のなかで、「顔色をうかがった」「女におぼれる」という路地があらわれてくる。店の奥では囁きが口の形になって小さく動いた。どれも経験した「感情」のように思えた。「迷う」は、そのことを悟られないようにゆっくりと、ていねいにお礼を言って、角を曲がった。
 坂を上り詰めると、日が暮れた。近くのビルの窓は離ればなれに孤立していたが、遠くの明かりが密集してしだいに濃くなるのがわかった。窓にガラスをはめるように、内と外を分け、わかる人にだけはわかるわかるような「動詞」として書き直してほしいという思いがあふれ、「迷う」は悲しくなった。


















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冨岡悦子『ベルリン詩篇』

2016-07-19 09:49:56 | 詩集
冨岡悦子『ベルリン詩篇』(思潮社、2016年06月25日発行)

 冨岡悦子『ベルリン詩篇』を読みはじめてすぐに、そのことばに余分なもの、あまいものがないことに気づかされる。そこに書かれていることばが、そのことばでしかない、という印象である。その「強さ」が冨岡の詩の特徴(長所)なのだと思う。

スチール・グレイの空を
一羽の鳥がよこぎる
肩甲骨をこわばらせて
コンクリート製立方体の
群れのなかへ
体を入れる                         (「体を入れる」)

 「一羽の鳥」は「一羽」であり「鳥」である。「鳩」や「むくどり」「すずめ」ではない。何かが、「一羽の鳥」を固有名詞にすることを拒んでいる。「コンクリート製立方体の/群れ」にも名前があるのだが、簡単に「名前/名称」になることを拒んでいる。あらかじめ存在する「名称/名前」を取り払って、冨岡は「体」ひとつで「世界」へ入っていこうとしている。そういう「決意」のようなものを感じる。こういう部分は、とても好き。
 そのあと、途中を省くが、

想起せよ
そして 記憶せよ
こころに刻み込め

 という強いことばがある。「想起(する)/記憶(する)/こころに刻み込む」は、ことばが違うが「同じこと」を言っている。それは分離できない。だから三行がまとまってそこに存在するのだが、この「補足/注釈」を排除した強いことばの結びつきが冨岡のことばの力である、と「わかる」。
 「わかる」と書いて、しかし、私はとまどう。
 私は、こういうことばが苦手だ。「わかる」と書いたが、わかったふりをしているだけで、おちつかない。

 こういうことを書くと、かつて田中庸介に叱られたことを思い出す。あるノーベル賞作家(だったかな?)の翻訳者の詩集に感想を書いたとき、私は田中から、私の読み方は「反知性主義だ、そういう読み方は古い」というようなことを言われたのである。
 簡単に言い直すと、そこに書かれていること/ものには「事実」があり、その「事実」を踏まえて、テキストを読まないといけない。テキストを読むときは、そのことばが動いているときの「事実」を知らないと、間違った感想になる、ということ。
 私は、そこに書かれていることばだけが「事実」だと思うので、さて、どうしたものかなあ……。
 
脱線したが、この詩の省略した部分に、

ヨーロッパの
抹殺された
ユダヤ人のための
記念碑を

 という行がある。これは先に出てきた「コンクリート製の/群れ」を言い直したもの。
 これを読むと、あるいはこういう書き方を読むと、冨岡は、まず「コンクリート製」という「もの」に直に触れて、それからそれを「事実」によってとらえなおす人間なのだとわかる。
 こういう「ことば」の動きは、私は好きなのだが、その動きがあまりにも簡潔すぎて、あるいは鍛えられすぎていて、落ち着かなくなる。
 ことばが理性を通ってから出てくる、という印象が強すぎる。
 だれのことばも理性を通らないとことばにならないかもしれないが、理性のあり方が強い。

想起せよ
そして 記憶せよ
こころに刻み込め

 この三行。まず「想起(する)」という動詞で始まるのだけれど、「肉体」のどの部分をつかって「想起する」のか、ということが「わからない」。「想起せよ」と言っていることは「わかる」が、それは「意味」が「わかる」ことであって、「肉体」の「動き」に共感して「わかる」というのとは違う。
 私は「こころ」というものがあるとは信じていないので(つまり、それが「肉体」のどこを指しているのかわからないので)、こんなことを言うと「矛盾/でたらめ」になってしまうかもしれないが、「こころに刻み込め」の「刻み込む」には、何かを刻み込んだときの「肉体」の「記憶」がよみがえるから、納得できるものがある。手を使って(小刀とか、彫刻刀もつかって)、ある形を何かに刻み込む。それは傷をつけること。その傷は、いつまでも残る。消すためには、さらにそれをけずることが必要になるが、こんどはそのけずったあとが残る。それは力仕事であり、そういうことをした記憶は「手」や「目」に残る。そのとき「こころ」とは「手」や「目」のことである。
 というふうに、私は、なんでもかんでも「肉体」にしないことには、納得できない人間なので、冨岡の詩を読んで最初に感じる「わかる」に対して、自分自身で警戒してしまう。

 あ、なかなか感想が進んでいかないが……。

 理性を通ってから出てくることば、理性のあり方が強いことば、ということについて思っていることを書くと。
 たとえば「名を蹴ってください」という作品。

風が疼いている
アレクサンダー広場から
カール・マルクス大通りを
地下鉄四駅分を
鞄を斜めにかけて
歩いている

 「地下鉄四駅分を/鞄を斜めにかけて/歩いている」には具体的な「肉体」があってとてもよくわかるのだが、その前の「アレクサンダー広場から/カール・マルクス大通りを」には「地名」があるだけで、私には「広場」「大通り」が見えてこない。その土地を知らないからだといえばそれままでだが……。(「それを知ってから感想を書きなさい」というのが田中庸介の指摘だと思うが。)
 しかし知らない街、架空の街でも(物語の街でも)、その「場所」を「肉体」で感じることがある。ことばに「肉体」があって、それが「広場」や「大通り」を「呼吸している」感じが伝わってくることがある。
 「地下鉄四駅分を/鞄を斜めにかけて/歩いている」から、それをつかみとらなければならないのかもしれないが、そこに書かれている「肉体」よりも「理性/知性」の方が強くて、鋭い感じがして、私は、どうしても田中庸介に叱られたことを思い出してしまうなあ。
 冨岡が書こうとしていることに反しているかもしれないが(私が完全に読み違えているのだろうけれど……。)

我を忘れるための道を
風が疼いている
かつての名をスターリン通り
連帯のため
繁栄発展のため
未来世代のために
人間を通路にする名
我を忘れさせる名
名を蹴ってください
名を蹴って
擂鉢の斜面の底に
落としてください

 を読むと、冨岡が蹴ればいいじゃないか、蹴り落とせばいいじゃないか、蹴飛ばしながら歩けばいいじゃないか、と思ってしまう。
 そのことばを発するとき、冨岡の「肉体」、その「足」は何をしているのだろうか、と不思議な気がする(理性のことばには、時々、こういう、無知な人間にはわからない行が出てくる。)。
 こういう奇妙な部分をはさみながらことばは動いていく。そして最後に、

歩道の綻びを破って
トネリコの木が伸び盛ります
最上階の窓より
もっと高く
生い茂る枝が
槍のように尖っています
トネリコの裸木は
疼く風に
さらされて
冬芽を黒く
凝固させています

 この十一行は好きだなあ。「トネリコ」という具体的な木が「伸び盛り」、さらに「最上階の窓より/もっと高く」と具体的に書かれるとき、それは「木」でありながら「街」を含む。「情景」になる。「冬芽を黒く/凝固させています」は木の描写でありながら、「木」を超えて「街」の「情景」にもなるし、なによりも冨岡の「肉体」そのものになる。トネリコを書くことで、冨岡はトネリコになっている。
 その感じが好きだなあ。

 「カフカを着る人」も最後がとて好き。

言葉に敬意をささげた人は
闘いの方法を
全身で示していた
言葉は所有できません
言葉が在ることに敬意をはらうだけです
空席になった椅子に
私は近づくことができない

 「抽象的/理念的」なのだが、最後の「私は近づくことができない」によって、それが「肉体」そのものになっている。近づきたいのに近づけない、そのときの「肉体」の記憶がよみがえる。「肉体」がそのときの哀しみを思い出す。

 私の感想よりは、「理性派」のひとの批評の方が、冨岡の詩を読むときの参考になるだろうなあ、きっと。

ベルリン詩篇
冨岡 悦子
思潮社
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