詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩集「改行」へ向けての、推敲(5)

2016-07-20 18:24:29 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(5)

(31)彼は、私の言うことを聞かなかった/異聞

彼は、私の言うことを聞かなかった。
                 彼とは、私であるのだが。
彼は、音をたてずに歩き、階段のところにいる猫の、やわらかい毛をなでる。
彼の手は、私が、手を見つめていることを知っていた。
しかし、私の目のなかで、彼の手と猫の毛が入れ替わるのを知らなかった。
「手が手の奥の闇を探るとき、毛は手の奥の恐れを楽しんだ。」

私は、彼の言うことを聞かなかった。私とは、語られてしまった彼のことであり、
「手」と「毛」のようにシンメトリーだったと書き換えると、
「物語」ということばが廊下を走っていく。
ピアノの黒鍵のひとつをたたきつづけたときの音になって。
空は夕暮れ独特の青い色をしていた。
空のなかにある銀色がすべて消えてしまったときにできる青に。

彼は、私の言うことを聞かなかった。
                 彼とは、私であるのだが。












(32)ピアニッシモ

 私は遅れて入っていったのだが、「ピアニッシモ」というのは、すぐに「比喩」だとわかった。抑えた欲望という意味と、知れ渡った秘密という意味に分かれて、集まってきたひとを区別した。白い皿と果物の色を跳び越えるようにことばが行き交ったが、思っていることは語られることはなかった。意味深な目配せや、唇の端に浮かぶゆがみを、誰かが不注意に「感情」と言い換えてしまったために、突然、沈黙が広がった。
 「いまのお考えについて、どう思われます?」
 他人と同じ意見を言わないひとが問いかけてきた。私は、何度も何度も頭の中で繰り返してきたことばを言うならいまだと思ったが、夢のなかで叫ぶときのように、声がのどはりつきかすれしまった。
 「あのピアニッシモのタッチには、感情というよりは、スタイルが感じられますね。独特の衝動に負けて動いてしまうという雰囲気をだそうとしているそれを、私はむしろ意思と呼んでみたい気がします」と言いたかったのだが。











(33)椅子を持ってきてほしい、

「椅子を持ってきてほしい」と言ったのは、隣に座ってほしかったからだが理解されなかった。「隣」ということばの「近さ」の意味が反感を生んでしまったのだ。しかし、作者はそれを知らない。

思い出せるだろうか。「秋には葡萄を買った」と言った理由を。いつも通りすぎるだけの店で、古くさい紙に一房つつんでもらった。やわらかい皺が葡萄の匂いにそまった。あのときわかった。「私は、もう匂いを食べるだけで十分満足だ。」それは最後に聞いたその人の声だった。

窓から見える空には、羽の生えた雲が。

それは、ほんとうにあったことなのか。思い出したいと思っている嘘なのか。どの月日にも、そのひとはいないのに、だれも座っていない椅子を見るたびに「椅子を持ってきてほしい」ということばがやってくる。












(34)探していた

 「探していた」ということばが、「引き出しのなか」にあった。封筒からはみ出た便箋のように。折り畳まれているので何が書かれているのかわからないが、日記では「探すふりをして時間稼ぎをしていたのかもしれない」と記されている。

 「知らない」ということばが、男のように帰って来たとき、「写真」の一枚が「鏡」に映っていた。鏡の木枠と、写真立てのフレームはたしかに「似ている」。この「似ている」は動詞だが、比喩として読むべきであるという注釈は書かれなかった。

 「追いかけてはいけない」ということばがあったが、否定形のあまい誘いにのってはいけない。

 「探していた」ということばは「蝶番」ということばを開けて、錆びた金属の粉を光のなかに散らす。床に足跡が「暗い水のように」ということばになって、存在していた。あるいは「鏡のなかに」。動かないので鏡ではなく「写真だと思った」と、ことばは主張する。











(35)顔のなかに、

「顔のなかに別の顔の記憶があった」。そのことばが、開いた扉の隙間のように目を引きつけた。「何かが動いている」という文を消して、「電話がかかってきたとき、その顔が動いた」という短い情景が挿入された後、顔は「小さな部屋」という比喩になった。暗がりに錆びた非常階段があるアパートに三年間住んでいた、という「注釈」がつけられていた。

「再びあの眼が」ということばは、あとから書かれることになる「違う理由によって」おしのけられ、「壁にかかった四角い鏡」のなかにしまい込まれた。それは鏡のなかに半分入り込み、「ノートに書かれる」ことを欲したのだが、このとき「ノート」は比喩ではない。

「たいていのことは、そのように進んだ」
「たいていのことは、そのように済んだ」
「小説」「日記」に平行して書かれたこのことばは、どちら側から見たのだろうか。










(36)破棄された詩のための注釈(22) 

「明滅」ということばが、ことば自身のなかで感じるのは、明るさだろうか、暗さだろうか。坂を上ったところにある街灯は、晴れた週末に明滅する。桜は、明滅のリズムで花びらを開き、散ってゆく。

「明滅」は、吸う息を止めたときの女の輪郭の揺れに似ていたい。しずかに膨らむ胸の内側に少しくらい翳りが、吐く前の息の形であらわれるように。(「明滅」ということばをつかうまえに、作家は「日記」にそう書いている。)

しかし、その作品が書かれる前に、「明滅」は、ある詩人の「桜のはなやぎと女の暗さの対比」を批判するためにつかわれてしまった。しかし、街灯のつくる花びらの影に支えられる桜のはなやぎは、夕暮れ、女の肉体から悲しみがほのかな光のようににじむのに似ているというのは、あまりにもくどくどしい。

「明滅」ということばは、なぜ「明」が先で「滅」があとかと問われ、ことばのつながり方によって意識はつくり出されるものと知った。ことばが感情を生み出していく、というのは人間的な哲学であり、それも詩といっしょに破棄された四月の雨の日。











(37)坂と注釈 

坂の堅牢について、
その庭の楠は、となりの空き地に建てられた家からの苦情という「越境」によって、年月の断面図として半分に切られた。坂はそれを見ていたが、坂の表情である傾きは少しも変わらなかった。堅牢なものである。

坂の緩慢さについて、
のぼるとき、土踏まずはアスファルトの傾斜にゆっくりと近づくのだが、女には坂が土踏まずを押し広げながら、坂であることを主張しているように感じられる。その力は緩慢であるがゆえに、あなどれない。

坂の愉悦について、
疲れを吐き出しながらのぼる男に坂はささやく。のぼりつめる寸前に向こう側の街を見て男が勃起するのを知っている--と。それが私(坂)の愉悦である、と。

坂の絶望について、
「傾くことをやめることができない」ということばは読みかけの本で散らばり、うねっていたが、これでは「意味」になってしまうので、(以下判読不能)。










(38)「たとえば」のための注釈

「たとえば」について語ったのは鳥の顔をした男であった。「ことばにはそれぞれ性質というものがあって、私の『たとえば』は冒険好きで気まぐれだ。」つまり、「机の上の鉛筆の角度を語っていたかと思えば、たとえば次の瞬間には犬が見上げる角度になり、たとえばリードを強引に引っぱり川原へ下りてゆく。それから、たとえば土の中から目覚めたばかりの蛙をつかまえて私を驚かす。」

私の「たとえば」は鳥の顔をした男の定義から逃走しようとしたが、男は上空から蛙をつかまえる角度で急降下すると「きみの『たとえば』は非常に臆病で、いま私が語っている『たとえば』の寓話は、ことばの性質ではなくて、ことばのスピード、文体のことだろうと判断する。つまり、問題をすりかえ、鉛筆で架空の紙にメモをする。架空の紙を選ぶのは、記録として残ってはこまるからだ。どうしてそんなレトリックの中に隠れようとするのか。」

「たとえば、比喩動かすと感情は衰弱する。感情が論理にととのえられるからだ」という哲学はもう古い。「たとえば」ということばは、恐怖を切断し暴走させるときにつかうと効果的である。これは、鳥の顔をした男を拒絶した女が書き残した「例文」である。













(39)注釈のための注釈

「コップの灰色」ということばが、「絵」を呼び出し、「過去」へ入っていく。「過去」とは人間の内部のことである、という比喩をとおるので、絵の中のコップの内部に入った水がつくりだす屈折は青くなる。一方、テーブルの上に投影されたコップの内側の輪郭と、コップの左側の白い光は塗り残した紙の色である。

この注釈は詩のために書かれたものではない。塗り残しについて聞かれたセザンヌが「ふさわしい色がルーブルで見つかったら、それを剽窃してつかう」と答えた、という「注」をつけたくて、書かれたものである。したがって捏造である。(これは青いインクで余白に追記された文章である。)













(40)破棄されたの詩のための注釈

「反映」ということばがのなかにハナミズキの並木があり、そこで失われたものがある。あのときの「視線」が残っていて、やわらかな花びらから「反射」してくる。その感じを「反映している」という動詞で言い換えようとしたのだ、その日のことばは。

「非在」や「空虚」を退けながら、並木の坂が終焉するところを見ていると「失われた(過去形)」が「失われる(現在形)」になって、坂を下ってくる。こんな奇妙な「愛する」という方法(沈黙)を見つける必要があったとは……。

ハナミズキの花には、白とピンクがある。
 
「空」という文字を傍線で消すと、青い空気が青いまま降ってきて、やってきたひとの(去って行ったひとの)影になる午後。そのさびしい色のハナミズキが揺れて、私のこころの「反映」ということばにもどる。






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佐々木安美「豆でも肉片でも」

2016-07-20 09:50:48 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木安美「豆でも肉片でも」(「生き事」(2016年夏発行)

 佐々木安美「豆でも肉片でも」の各連は、連絡があるのかないのか、はっきりとはわからない。しかし、ならべて書かれたことばを読むと、そこにどうしても「連絡(意味)」を読み取ってしまう。こういうとき、「読み取る意味(読み取られる意味)」というのは、たぶん、作者の書こうとしていることというよりも、読者が自分のなかで思い出すことがらである。

昼過ぎ娘を連れて検査入院の妻の病室へ。血小板の減少は癌性
DICと診断され、治療法はほぼないと言われる。その中で針の穴
を通すような微妙な調整を加えた抗がん剤を使う提案があったが、
妻は拒否。残された日々を穏やかに家族と過ごすことを選んだ。

意味の折れた無数の枝

 妻ががん。治療法はなくて、治療はせずに、残された日々を家で過ごす(家族と過ごす)ということを選ぶ。このときの「主語」は何か。「昼過ぎ娘を連れて検査入院の妻の病室へ。」という部分では、「主語」は書き手(私/佐々木)だが、「妻は拒否。残された日々を穏やかに家族と過ごすことを選んだ。」では「主語」は「妻」に変わっている。ただし、そういう「妻」を受け入れると読むと、「主語」は「私/佐々木」のままである。ここには「妻/私(佐々木)/娘」という三人の人間が出てくるが、もうひとつ「がん」という異質な「登場人物(?)」もいる。そして、それが三人を、三人にし、また「ひとり」にする。「家族」というものにする。区別は、あって、ない。
 こういうことは、がんをかかえた人間がいる家庭では、よくあることである。そして、そのとき思うのは書かれている家族(佐々木の家族)ではなく、自分の家族のことであり、そのときの自分の思ったこと、感じたことである。自分のおぼえていることを重ね合わせて、そこに書かれていることが「わかる」と感じる。
 で、一行空けて書かれた、一行。

意味の折れた無数の枝

 これは、だれが感じたことか。考えたことか。「妻」も「娘」も感じているかもしれないけれど、「私/佐々木」が感じたことなのだろう。瞬間的に共有されたイメージのようなものである。
 それは書かれている「三人」を超えて、読者にも「共有」される。
 私の父は胃がんで死んだ。父ががんで死ぬとわかったとき、私は「折れた木の枝」を見たわけではないが、この一行を読むと、見たかもしれないという気がしてくる。そして、あの折れたものは木の枝ではなく「意味」なのだと思う。思うというより、「思い出す」。そこには、父が死ぬとわかってから見た「木の枝」があるのではなく、それよりも前に見た「木の枝」があるのだと思うが、それがよみがえってきて「意味の折れた無数の枝」になる。
 だから、私が見ているのは、あくまで「私の見た木の枝」なのだが、その「木の枝」をとおして、佐々木と「感情」を「共有」していると感じてしまう。

 こういう感情の「共有」は、不思議な部分でも起きる。

オオキナツバサヲヒロゲタトリガ
タマシイノヌケタニクヲミノガサズニツカマエル
ソレカラユックリトマイアガリ
ソラヲハコバレテイクヒンシノモノ
ダラリトフツタニオレマガリ
モウモドルナ
モウモドッテクルナ

 これはカラスか何かが蛇でもくわえて飛んで行く様子だろうか。(私はカタカナ難読症で、正確にカタカナを読めないのだが。だから引用も間違えているかもしれないが。転写しながら、何を書いているかわからないのだが。)
 何だかよくわからないのだが、最後の「モウモドルナ/モウモドッテクルナ」を「もう戻るな/もう戻ってくるな」と読み、強い衝撃を受けた。
 蛇をくわえたカラスが不気味なものだから、死を感じさせるから「もう戻るな/もう戻ってくるな」と叫んだのか。それは「カラス」に言っているのか、カラスにくわえられた「蛇」に向かって言っているのか。
 そのとき、こんな言い方をしていいのかどうかよくわからないのだが……。
 佐々木は妻を「蛇」と見たのか。あるいは「カラス」とみたのか。がんで、治療法がない妻。死が運命づけられている妻。それは、瀕死の蛇のように見えるかもしれない。しかし、私は、「蛇」をくわえている「トリ(カラス)」が妻のように思えて仕方がない。
 「蛇」は「がん」。それをくわえて飛んでいく「トリ(カラス)」が妻。生きて、死そのものと闘っている。死を食べている。そんなふうに思える。
 しかし、もし「カラス」が「妻」であるなら「戻ってくるな」は矛盾する。
 いや、矛盾しないかもしれない。「蛇」をくわえて飛んでくる「カラス」に向かって「戻ってくるな」と叫ぶとき、それは同時に「蛇」に向かっても叫ぶことなのだ。対象は一瞬にして入れ替わるのだ。「カラス」に向かって言ったことは、ほんとうは「蛇」に対して言ったことなのだ。瀕死の「蛇」にむかって、「もう戻ってくるな」とと命令している。「カラス」と「蛇」は「一体」なのである。
 この不思議な「結合」(混同/矛盾)のなかに、何か強い願いのようなもの、祈りのようなものを感じる。
 あの「カラス」が「蛇(がん)」をくわえたまま空を飛び、どこかへ行ってしまえば、ここに「妻/娘/私」が残される。「カラス」はあくまで「比喩」、「蛇(がん)」も比喩。つまり「意味」。「意味」が三人から奪いさられ、「意味」に病んでいない健康な三人が「いま/ここ」に残される。

 そんなことは、書いていないか……。

 わからない。
 ただ、そう読みたい気持ちになる。「意味の折れた無数の枝」という一行で、「感情」を「共有」した。「共有」したということは、もう自分のものでもあるということ。だから、それから先は「自分の感情」として、かってに動かしていく。
 「不気味な物/いやなもの」をことばにしてほうり出す、自分から出してしまうことによって、佐々木自身が「健康」を取り戻している、「妻」も健康な肉体を取り戻している、そういう瞬間だと思って読むのである。


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