詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む(10)

2016-07-09 12:00:36 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(10)(2016年07月09日)

 第二十六条以下は少しおもしろい。特に「教育の義務」が。人をだますとき、自民党はこんなに巧妙な手法をつかうのか、と感心してしまう。

(現行憲法)
第二十六条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 自民党の憲法改正草案は、この部分では「表記」だけを変更している。「すべて」を「全て」に、「ひとしく」を「等しく」に、という具合。「これを」は、いつものように削除しているのだけれど。
 改正草案は、これに第三項を追加している。

3 国は、教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。

 この「改正」だけは、私はすばらしいものに思えた。「教育環境」が何を指すかはよくわからないが、たとえばいま問題になっている「奨学金」などが、完全給付型になるという具合に「整備」されていくなら、これはうれしいことだ。
 「義務教育」だけではなく、その後の教育環境も「無償」になるなら、勉強をしたい人には、たいへんうれしいことだ。
 でも、ここに書いてある「教育環境の整備」とは、そういうことではないかもしれない。
 たとえば、いま書いた「完全給付型の奨学金」というようなものは、自民党ではなく野党が主張してきたものである。最近、奨学金の返済のために若者が苦しんでいるという事実がニュースになったために、自民党は2016年07月の参院選挙で、急遽「公約」につけくわえている。
 あるいは「幼児教育を充実させる、保育園、幼稚園を増やし、待機児童を減らす」というのも、「幼稚園落ちた。日本死ね」といったことばが母親から発せられたため、急遽それに対応したものである。「幼稚園落ちた。日本死ね」ということばが国会で取り上げられたとき、安倍は「匿名の発言であり、事実かどうかわからない」と言った。さらに「そういうことを言うのは共産党だ」というようなことも言いふらされた。まるで「自民党員(自民党支持者)なら、幼稚園に落ちるはずがない。思想調査をして合格者を決めている」というような言い方だが……。
 しかし、この「条項」はいま書かれたのではなく、2012年に書かれていることも考え合わせないといけない。
 そこに書かれている「教育環境の整備」は、いまの「公約」とは違ったことを指すに違いないのだ。
 安倍は、「改正草案」に書かれていることを「先取り」する形で動いている。「事実」つくってしまって、「改正草案」を「改正」ではなく「事実の追認」に変えようとしている。
 そういう視点で「教育環境の整備」を見ていくと。現実に何が起きているか、起きつつあるかということから見ていくと。
 たとえば「道徳教育の重視」「歴史教科書の見直し」という問題が見えてくる。
 「道徳教育」を「採点化」するというニュースを読んだが、これは一種の「思想教育」。「思想及び良心の自由」と関係づけて言うと、改正草案はそれを「侵してはならない」(第十四条)から「保証する」と変更していた。「保証する」は「これが理想の思想及び良心である」と定義することである。「理想の思想及び良心」のあり方を決めて、それに従う人間を、「正しい人間(国民)」として「身元を保証する」。それ以外の思想を良心に従う国民の身元は「保証しない」という意味である。
 教育とは学問。学問とは、ほんらい自由なものである。たとえば権力を批判する能力を身につけることも重要な学問の仕事である。教育の仕事である。しかし、自民党の改正案は、そういう「批判を生む/批判を育てる」教育を念頭に置いてはいない。「学問の自由」を否定し、「学問に一定の枠」をあてはめる。「理想の(従順な)人間」を育てるための「教育」をもくろんでいるのだ。
 教科書に書かれている歴史を「見直し」、日本が侵してきた戦争犯罪をなかったことにする。「南京虐殺はなかった」。そういうことを教え込む「教育環境の整備」を、自民党改正案は狙っている。
 自民党の「思想」に従う人間を育てる「教育環境の整備」なのだ。
 「美しいことば」の裏には、企みがある。「美しいことば」は「現実」にどういう形で動いているか、現実に動いている何を隠すために「美しいことば」が選ばれたのか、それを点検する必要がある。

(現行憲法)
第二十七条
すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
(現行憲法)
第三十条
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。

 これも、改正案は「表現(字句)」の変更にとどめている。
 なぜなのかなあ。

 理由は簡単である。

 私のみるところ、「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」と、ここでは「国民の義務」について書かれている。
 自民党は「国民の義務」については、そのまま現行憲法を踏襲するのである。
 さらに「義務」を手助けするように装って、国民を管理しようとしている。「教育の義務」では第一項、第二項の「主語」が「国民」であったのに対し、第三項で突然「国」にすりかわっている。「国民の義務」なのに、そこに「国の義務」を織り込み、「国の義務」を「国の権利」にすりかえ、悪用しようとしている。
 「主語」と「動詞」をしっかり押さえて、何が「改悪」されようとしているのか、点検しなければならない。

 第三十一条以降は「自由」の剥奪について書いている。「犯罪者」は「自由」を奪われる。「公共の福祉」に反するからだが、この部分の「権利」についても、微妙に「改正」している。
 たとえば、

(現行憲法)
第三十二条
何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
(改正草案)
第三十二条
何人も、裁判所において裁判を受ける権利を有する。

 「奪われない」を「有する」と改正する。「奪われない」の場合は、「奪う」という動詞の「主語」が存在する。現行憲法は、何人も、裁判所において裁判を受ける権利を」他人に、「国に」奪はれない、と言っているのである。
 改正草案は「奪う」という「動詞」を隠すことで、「登場人物」を「国民」だけにしている。「国民」は「権利を有する」。その「権利」を「国は奪うことがあるかもしれない/奪うことを禁止しない」という意味が隠されている。何かあれば、国民の権利を「奪う」というのだ。「禁止」条項を、改正草案は外しているのだ。
 これは、第十一条の「改正」と同じ方法である。

(現行憲法)
第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
(改正草案)
第十一条
国民は、全ての基本的人権を享有する。

 同じことを言っているようだが、そこに「国」が書かれているかどうかが違う。現行憲法は「国は」と明記していないが、そこに「国は」を書いている。「国は/妨げてはいけない(禁止)」を意味している。
 憲法は国民と国との関係を定めたもの、国の権力が暴走し国民を支配することを禁じるために制定するものという意識が明確に存在するから、そういう「文体」をとるのである。
 自民党改正草案は、この憲法特有の「文体」を解体し、「国民は(権利を)有する」と書き直すことで、「国」の「禁止」を取り除いている。何かあれば、いつだって「国は国民を支配する」、「国民の権利を侵害する」ことができる、ということにしているのだ。なぜ「侵害する」ことができるか。そこに「してはならない(禁止)」が書かれていないからだ。
 信じられないくらい「巧妙」な「禁止」の削除である。

 第三十一条以降は、「逮捕」や「捜索」について定めている。重要な変更があるのかもしれないが、自分に引きつけて読むことができないので、よくわからない。私は私が「犯罪者」になる、つまり「逮捕される」ということを考えたことがなかったので、親身になって読むことができない。
 「思想犯」(「思想」が「公益及び公の秩序に反する」と認定されたとき)に、第三十一条以下がどう運用されるのか気になるが、逮捕、裁判、判決というものを身近に感じたことがないので、何も書くことができない。
 「思想犯」を想定して点検すべきなのだが、私には、どう読んでいいのかよくわからなかった。ただ「思想/良心の自由」を中心に考えると、次の変更が気になった。

(現行憲法)
第三十四条
何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。
(改正草案)
第三十四条
何人も、正当な理由がなく、若しくは理由を直ちに告げられることなく、又は直ちに弁
護人に依頼する権利を与へられることなく、抑留され、又は拘禁されない。

 改正草案では「正当な理由がなく」ということばの挿入が微妙である。現行憲法では、必ず「理由」を告げられなければならない。捜査機関(?)は必ず理由を告げる必要がある。しかし、改正案では「正当な理由があれば」、理由を告げなくても逮捕できる、と読むことができる。
 これは、どういうことか。
 たとえば「思想犯」を「思想犯」と断定する「根拠」の「理由」は告げなくていい、なぜならその「理由」は「秘密保護法の対象だから」ということができる。ある人間の「思想」のどの部分が「反社会的」か(公益及び公共の秩序に反するか)は「秘密」だから告げる必要はない。「基準/理由」を明示すれば、その「理由/基準」をかいくぐりながら「思想犯」は行動することが考えられる。だから、何をすれば「思想犯」になるかは、「秘密」にしておくのである。
 これでは、国の気に入らない人間はだれでも逮捕されてしまうことになるが、たぶん、そうしたいのだろう。
 ほかにもっと重要な「改正」が含まれているのだろけれど、よくわからない。ほかのひとの意見を聞きたい。

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池井昌樹『池井昌樹詩集』

2016-07-09 07:24:01 | 詩集
池井昌樹『池井昌樹詩集』(ハルキ文庫、2016年06月18日発行)

 池井昌樹の詩については何度も書いてきている。『池井昌樹詩集』(ハルキ文庫)は新作の詩集ではないので、特に書かなければ、と思うこともないのだが。
 でも、こういう「文庫」の形で多くの人に読まれるのはいいことだ。多くの人に読んでもらいたいので、少し書いてみる。
 「手から、手へ」は、「意味」の強い詩である。

やさしいちちと
やさしいははとのあいだにうまれた
おえまたちは
やさしい子だから
おまえたちは
不幸な生をあゆむだろう
やさしいちちと
やさしいははから
やさしさだけをてわたされ
とまどいながら
石ころだらけな
けわしい道をあゆむだろう

 「やさしい」と「けわしい」が対比されている。「やさしい」と「けわしい」では、たぶん「けわしい」の方が「強い」。だから、その生は「不幸」になるだろう。
 そして、その生が「不幸」であっても「なにひとつ/たすけてやれない」と書いたあと、

やさしい子らよ
おぼえておおき
やさしさは
このちちよりも
このははよりもとおくから
受け継がれてきた
ちまみれなばとんなのだから
てわたすときがくるまでは
けっしててばなしてはならぬ

 「やさしさ」を「ばとん」という「比喩」で言い直している。それは「受け継ぐ」という「動詞」と一緒に存在する。「ばとん」とは「受け継ぐ」ものなのだ。でも、「受け継ぐ」というのは、単に「ばとん」を受け取り、だれか別の人に手渡すということではない。「ばとん」を渡すかどうかは問題ではない、というと言い過ぎだが、「ばとん」という「比喩」を通ることで、「テーマ」は「ばとん」ではなく、「受け継ぐ」という「動詞」にかわる。「受け継ぐ」という「動詞」そのものがつながっていく。
 池井は父として息子に「やさしさ」の「ばとん」を渡すとき、それを渡してくれた池井の父/母とだけつながるのではなく、それ以前の「いのち」のつながりそのものとつながる。「いのち」がつながる。

 ここまでは、まあ、「意味」だな。「倫理」の教科書にもなるかもしれないなあ。そういう「道徳的なこと」を語るのは、私は、あまり好きではない。
 どちらかというと、嫌いだ。
 「正しい」が強すぎて「窮屈」な感じがする。
 「やさしさ」ではなく、「乱暴/いじわる」ということだって、人間の「いのち」のひとつの形。そういうものだって「受け継ぐ」必要があるんじゃないか。そういうものがないと、もしかしたら人間は生きていけないんじゃないか、というようなことを言ってみたくなるのである。
 でも、

やさしい子らよ
おぼえておおき
やさしさを捨てたくなったり
どこかへ置いて行きたくなったり
またそうしなければあゆめないほど
そのやさしさがおもたくなったら
そのやさしさがくるしくなったら
そんなときには
ひかりのほうをむいていよ
いないいないばあ
おまえたちを
こころゆくまでえがおでいさせた
ひかりのほうをむいていよ

 ここで「いないいないばあ」が出てくるところが、あ、好きだなあ。
 「いないいないばあ」というのは、こどもがむずがったり、泣いたりしているときに、こどもを「あやす」ときにするしぐさだね。
 「いないないないばあ」を「動詞」できちんと説明するのは難しい。「いないいない」は両手で顔を隠す。つまり顔が「いない」ということなのだけれど、そのあとの「ばあ」が「動詞」にならない。顔を覆っていた手を開いて、顔が見えるようにする、ということだけれど、「いないいない」の反対なら「いる(ある)」でもいいのに、そう言わずに「ばあ」と言う。
 それは、なぜ?
 あ、言えないなあ。説明できないなあ。
 でも、これこそが「ばとん」なんだね。
 「いないいないばあ」が「受け継がれ」ていく。「受け継いでゆく」。そのときだれかを「あやす」ということだけではなく、「いないないばあ」をされて「笑う」ということも「受け継がれていく」。
 「やさしくされた」ということだけではなく、「やさしくされて笑った」「やさしくしたら笑った」ということも受け継がれていく。だれかを笑わせたということよりも、だれかによって笑わされた、笑ったということの方が、きっと大事なのだと思う。
 「いないいないばあ」の「ばあ」のなかには、何か、融合のようなものがある。慰める人と、慰められる人が「ひとつ」になってはじける。それは「受け継ぐ」という意識もなく肉体にしまいこまれる。
 「ばあ」は「ばとん」が受け継がれるときの、その瞬間の「永遠」なんだなあ、と感じる。
 これはほかのことばでは言い換えが聞かないし、「やさしさ」のように「意味」にもならない。
 だから、すごい。
 これにまた「ひかりのほう」ということばが言い添えられる。

このちちよりも
このははよりもとおくから
射し込んでくる
一条の
ひかりから眼をそむけずにいよ

 「いないいないばあ」の「ばあ」は「ひかり」なのだ。そう「ほう(方)」を向いて、眼をそらすな。そのとき、「ばとん」は短い棒ではなく、「一条の(長い)ひかり」だとわかる。「ひかり」は名詞だが、その方向を向くとき、人は「ひかる」という動詞にもなるのだ。


池井昌樹詩集 (ハルキ文庫 い 22-1)
池井昌樹
角川春樹事務所
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