高塚謙太郎『Sound & color』(七月堂、2016年07月15日発呼)
高塚謙太郎『Sound & color』は、どう読めばいいのだろうか。私が最初に棒線を引いたのは、「愛れんゆえに」の一行目。
その「そって」。ここだけ「音」が違う。「まるいみえかたのゆくえ」は音がくねる。息がぱっと出て行かない。それが「そって」にくるとさっと動く。
で、これが、
「つ」の音が三行目と四行目で繰り返される。「みっつ、よっつ」を省略して「いつつむつ」の「むつ」がとても印象的だ。「そって」と言ったときのスピードが消えて、しっかりと止まる感じ。特に「むつ」の「つ」が重しのようにしっかりしている。「む」の音がきいているのかな?
その「つ」が、「うつしだされる」ということばのなかに移動する。この「つ」をどう発音するか。私は黙読派だから「声」に出して詩を読むことはないのだが、「いつつむつ」の「つ」よりは「母音」が弱くなる。(標準語では「つ」に強制がくるのかもしれないが、私の場合、弱音になる。)そうすると「そって」の「っ」が、そこに忍び込んでくる。
ただ、これは先に「そっと」を読んだからかもしれない。「そっと」がなかったら「うつくしい」の「つ」は強音として動くと思う。「そっと」の「っ」があるから弱音になる。
こういうことが詩とどういう関係にあるのか。
わからない。
わからないけれど、「読むスピード」(読みやすさ)と関係しているかもしれない。私は「読みにくい」ことばよりも「読みやすい」ことばにひっぱられる。「音」の響きあいと関係しているのかもしれない。「音」が楽に聞こえると、読むのが楽なのである。
「読みやすい」とそれだけで、その詩が「いい作品」に思えてくる。「肉体」が「これは、いい」と言うのである。
この「いい」を、ほかのことば、「意味」で言い直すことはできない。
私は「意味」には反応しないのかもしれない。
この一行の「ものがたりかた」の「かた」の音の美しさは、とても気持ちがいい。「ものがたり」の「が」の濁音が効果的なのかなあ。「かた」があるために「からかた」が「意味」を越えて、響く。何度も何度も読み直してしまう。ちょっと小長谷清実の音を思い出してしまう。
「意味」は忘れてしまって、ただ読み返したくなる。「声」を出すわけではないが、無意識に肉体が動いている。「聞く」というよりも「言う」喜びの方が強いかな。
意味は気にしない、とはいうものの。
を読むと、私は、そこに「似ている」「似ていない」という「肉体が感じる意味」を気にしているのかもしれない。
「いくつねる」は「幾つ/寝る」というのが最初の「意味」。それを高塚は「いく/つねる」と動かす。「行く/つねる(捩じる、という感じ? たとえば、手をつねる)」とふたつの「動詞」に分かれていくのだろうか。
この部分を私は
と完全に「誤読」してしまう。
実は、引用する直前まで「いつ/くねる」と読んでいた。そして、そこから感想をつづけようとしていたのだが、あ、「いく/つねる」だとわかり、急遽、書こうとしていることを変えたのである。
だから、きっと、何か妙な「論理」になっていると思うのだが、私は前にもどって考え直すということが苦手なので、そのまま書きつづけるのだが……。
ではなく
そう気づいたとき、あ、いま高塚の「音楽」と私の「音楽」が交差したのだ、「和音」になったのだ、と感じた。この「和音」の感覚こそが「ことばの意味」なのだと感じた、と言えばいいのか。
音痴の私がこんなことを書いていいのかどうかわからないが。
古い歌の「旋律」をふいに思い出す。小坂明子の「あなた」。そのサビの部分、「あなた、あなた、あなたにいてほしい」の「あなた」ということばの繰り返しはドレミで書くと「ミシド/ミシド/ミファド」だと思う。最終的にミからドへと音が動くのだが、最初の「あなた」はまずミからシへ飛躍が大きく、そのあとシからドのあいだが半音、最後の「あなた」はミからファへ半音動いたあと、ファからドへ飛躍する。「鏡に映った対称」あるいは「反転した」メロディーと言えばいいのだろうか。
私は、たぶん、たぶんなのだが、高塚が
と書いてあったなら、それを
と読んだだろうと感じるのである。
私は昔から「音の順序」を間違える癖がある。「順序」がかわっても「同じ意味」として受けとめてしまう。「ひとかたまりの音」が「意味」であって、順序は違っていても気にしないのかもしれない。
これはワープロで書くときも起きる。私は親指シフトのキーボードをつかっているのだが、「……するところ」の「ところ」を私はしょっちゅう「ことろ」と打ってしまう。左手の方が速いということなのかもしれないが、「ことろ」と打っても「ところ」という「意味」だと思い込んでいるのかもしれない。
で、私には、昔からおぼえられないことばがある。
「インキチ」なのか「インチキ」なのか、何度聞いてもおぼえられないし、言われるたびに言い直すのだが、そうじゃない「イン●●」と言われる。私には最後の二音が「順番」に聞こえていないのである。何度も何度も「違う」と笑われるので、私は小学校五年か六年のときから、そのことばをつかうのをやめた。どう言っても笑われる。笑われないために、「インキチかインチキか、インキチかインチキかわかないが……」という前置きをしていたら舌が縺れるし、自分で何を言ったかわからなくなるからである。
脱線した。
聞こえるけれど、再現できない「音」がある。再現するとき、聞いた音とは違っているのだが、自分には「違っている」とは認識できない。この「ずれ」から「誤読」がはじまるのだが、これは、何と言えばいいのか、「肉体」が望んでいることなのだ、と私は思う。
「意味」にならないものが、どこかで私を動かしている。その何かに動かされてことばを読むとき、私は「誤読」をするのだが、「誤読」と指摘されても、どうにもなおせない。「音/音痴」なので、どうしても「意味/音痴」になるのかもしれない。
そんな私が、高塚の詩には「音楽」があると言ってしまうと、それは「高塚は音痴だ」というのに等しいことになるかもしれないが、私は高塚の詩からは「意味」よりも「音楽の喜び」を感じてしまう。
「音の楽しみ」、「音を楽しむ」、あるいは「音が楽しむ」が「音楽」であり、それがことばを動かす力になっている、と感じる。そして、その高塚の音の動きの幅(音域?)、あるいは音の動きの基準(キー?)が、私には楽に聞こえる。むりがないものとして響いてくる。「声」をあわせたくなる。「いく/つねる」に「いつ/くねる」を「音」を重ね、勝手に「和音」にしてしまう。
何が、どんな「意味」が書いてあったかと問われたら、何も感想が言えない。でも、どの部分に「音楽」を感じたか、と問われれば、いま書いたようなことを言いたくなるのである。
高塚謙太郎『Sound & color』は、どう読めばいいのだろうか。私が最初に棒線を引いたのは、「愛れんゆえに」の一行目。
まるいみえかたのゆくえにそって
その「そって」。ここだけ「音」が違う。「まるいみえかたのゆくえ」は音がくねる。息がぱっと出て行かない。それが「そって」にくるとさっと動く。
で、これが、
まるいみえかたのゆくえにそって
きりとられていく
雨のつぶひとつふたつ
いつつむつ
うつしだされるわたしたちの愛れん
「つ」の音が三行目と四行目で繰り返される。「みっつ、よっつ」を省略して「いつつむつ」の「むつ」がとても印象的だ。「そって」と言ったときのスピードが消えて、しっかりと止まる感じ。特に「むつ」の「つ」が重しのようにしっかりしている。「む」の音がきいているのかな?
その「つ」が、「うつしだされる」ということばのなかに移動する。この「つ」をどう発音するか。私は黙読派だから「声」に出して詩を読むことはないのだが、「いつつむつ」の「つ」よりは「母音」が弱くなる。(標準語では「つ」に強制がくるのかもしれないが、私の場合、弱音になる。)そうすると「そって」の「っ」が、そこに忍び込んでくる。
ただ、これは先に「そっと」を読んだからかもしれない。「そっと」がなかったら「うつくしい」の「つ」は強音として動くと思う。「そっと」の「っ」があるから弱音になる。
こういうことが詩とどういう関係にあるのか。
わからない。
わからないけれど、「読むスピード」(読みやすさ)と関係しているかもしれない。私は「読みにくい」ことばよりも「読みやすい」ことばにひっぱられる。「音」の響きあいと関係しているのかもしれない。「音」が楽に聞こえると、読むのが楽なのである。
「読みやすい」とそれだけで、その詩が「いい作品」に思えてくる。「肉体」が「これは、いい」と言うのである。
この「いい」を、ほかのことば、「意味」で言い直すことはできない。
私は「意味」には反応しないのかもしれない。
しずかというものがたりかたからかたむいて (「ねむりあい」)
この一行の「ものがたりかた」の「かた」の音の美しさは、とても気持ちがいい。「ものがたり」の「が」の濁音が効果的なのかなあ。「かた」があるために「からかた」が「意味」を越えて、響く。何度も何度も読み直してしまう。ちょっと小長谷清実の音を思い出してしまう。
「意味」は忘れてしまって、ただ読み返したくなる。「声」を出すわけではないが、無意識に肉体が動いている。「聞く」というよりも「言う」喜びの方が強いかな。
意味は気にしない、とはいうものの。
もういくつねると
いくつねる
いく
つねる
うたはいつだってこえだった (「パリはもえている」)
を読むと、私は、そこに「似ている」「似ていない」という「肉体が感じる意味」を気にしているのかもしれない。
「いくつねる」は「幾つ/寝る」というのが最初の「意味」。それを高塚は「いく/つねる」と動かす。「行く/つねる(捩じる、という感じ? たとえば、手をつねる)」とふたつの「動詞」に分かれていくのだろうか。
この部分を私は
いつ
くねる
と完全に「誤読」してしまう。
実は、引用する直前まで「いつ/くねる」と読んでいた。そして、そこから感想をつづけようとしていたのだが、あ、「いく/つねる」だとわかり、急遽、書こうとしていることを変えたのである。
だから、きっと、何か妙な「論理」になっていると思うのだが、私は前にもどって考え直すということが苦手なので、そのまま書きつづけるのだが……。
いつ
くねる
ではなく
いく
つねる
そう気づいたとき、あ、いま高塚の「音楽」と私の「音楽」が交差したのだ、「和音」になったのだ、と感じた。この「和音」の感覚こそが「ことばの意味」なのだと感じた、と言えばいいのか。
音痴の私がこんなことを書いていいのかどうかわからないが。
古い歌の「旋律」をふいに思い出す。小坂明子の「あなた」。そのサビの部分、「あなた、あなた、あなたにいてほしい」の「あなた」ということばの繰り返しはドレミで書くと「ミシド/ミシド/ミファド」だと思う。最終的にミからドへと音が動くのだが、最初の「あなた」はまずミからシへ飛躍が大きく、そのあとシからドのあいだが半音、最後の「あなた」はミからファへ半音動いたあと、ファからドへ飛躍する。「鏡に映った対称」あるいは「反転した」メロディーと言えばいいのだろうか。
私は、たぶん、たぶんなのだが、高塚が
いつ
くねる
と書いてあったなら、それを
いく
つねる
と読んだだろうと感じるのである。
私は昔から「音の順序」を間違える癖がある。「順序」がかわっても「同じ意味」として受けとめてしまう。「ひとかたまりの音」が「意味」であって、順序は違っていても気にしないのかもしれない。
これはワープロで書くときも起きる。私は親指シフトのキーボードをつかっているのだが、「……するところ」の「ところ」を私はしょっちゅう「ことろ」と打ってしまう。左手の方が速いということなのかもしれないが、「ことろ」と打っても「ところ」という「意味」だと思い込んでいるのかもしれない。
で、私には、昔からおぼえられないことばがある。
「インキチ」なのか「インチキ」なのか、何度聞いてもおぼえられないし、言われるたびに言い直すのだが、そうじゃない「イン●●」と言われる。私には最後の二音が「順番」に聞こえていないのである。何度も何度も「違う」と笑われるので、私は小学校五年か六年のときから、そのことばをつかうのをやめた。どう言っても笑われる。笑われないために、「インキチかインチキか、インキチかインチキかわかないが……」という前置きをしていたら舌が縺れるし、自分で何を言ったかわからなくなるからである。
脱線した。
聞こえるけれど、再現できない「音」がある。再現するとき、聞いた音とは違っているのだが、自分には「違っている」とは認識できない。この「ずれ」から「誤読」がはじまるのだが、これは、何と言えばいいのか、「肉体」が望んでいることなのだ、と私は思う。
「意味」にならないものが、どこかで私を動かしている。その何かに動かされてことばを読むとき、私は「誤読」をするのだが、「誤読」と指摘されても、どうにもなおせない。「音/音痴」なので、どうしても「意味/音痴」になるのかもしれない。
そんな私が、高塚の詩には「音楽」があると言ってしまうと、それは「高塚は音痴だ」というのに等しいことになるかもしれないが、私は高塚の詩からは「意味」よりも「音楽の喜び」を感じてしまう。
「音の楽しみ」、「音を楽しむ」、あるいは「音が楽しむ」が「音楽」であり、それがことばを動かす力になっている、と感じる。そして、その高塚の音の動きの幅(音域?)、あるいは音の動きの基準(キー?)が、私には楽に聞こえる。むりがないものとして響いてくる。「声」をあわせたくなる。「いく/つねる」に「いつ/くねる」を「音」を重ね、勝手に「和音」にしてしまう。
何が、どんな「意味」が書いてあったかと問われたら、何も感想が言えない。でも、どの部分に「音楽」を感じたか、と問われれば、いま書いたようなことを言いたくなるのである。
ハポン絹莢 | |
高塚 謙太郎 | |
株式会社思潮社 |