詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む(8)

2016-07-06 23:44:32 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(8)(2016年07月07日)

第三章国民の権利及び義務

 第三章は、国民と国との関係を定めている。

(現行憲法)
第十条
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
(自民党改正案)
第十条
日本国民の要件は、法律で定める。

 大きな違いは文の後段に「これを」があるか、ないか。
 現行憲法は、「これを」ということばをつかうことで、前段が「主語」ではなく「テーマ(主題)」であることを明確にしている。
 改正草案は、多くの条文で現行憲法の「主題」を明示するという文体を破棄し、「主語」なのか「テーマ」なのか、あいまいにしている。
 「あいまいさ」を利用して、「改正案」がもくろんでいることを、分かりにくくしている。

(現行憲法)
第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
(自民党改正草案)
第十一条
国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

 「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」の「主語」は「国民」。ただ「妨げられない」というとき、「主語」は「国民」なのだが、もう一つの「主語」がそこにある。「国」である。「国は、妨げてはならない。」が書かれていないが、はっきりと存在している。「侵すことのできない」は「国民は」であると同時に、「国は侵すことはできない」という意味だ。
 第三章は国民と国との関係を定めている。常に「国は」という「主語」を補って読まないといけない。
 改正草案では、「国民は、全ての基本的人権を享有する。」ここには、「国」を補うことができない。「国」については何も定めていない。これが、とても重要だ。改正草案は「国」については何も定めず、フリーハンドにしているのだ。
 ここから、すこし振り返る。
 現行の「第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」の後半は、「法律がこれを定める」と読み直すことができる。
 ところが改正草案の方は「法律が」ではなく、実は、「日本国民の要件は、国が法律で定める。」なのである。「国」という「主語」が隠されている。「国」を隠しているのである。「法律」を「国」が自在に定めて、その法律で「国」の思うがままにすると言っているに等しい。
 「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」の部分はどうか。「国民に与へられる。」は「国は/国民に与えなければならない」、言い換えると「奪ってはならない(享有を妨げてはならない)」ということである。
 改正草案の「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。」はどうか。やはり「国」を補って読むことができない。抽象的概念として基本的人権を定義しているだけである。
 「国民に与へられる。」を削除することで、「国」の責任を放棄している。これは、逆に見れば、「国は、現在及び将来の国民から、それを奪うこともある」ということだ。「国」に、国民の権利を剥奪することを禁じていない。改正憲法は、「国への禁止事項」を持っていない。
 国民と国の関係を定めるはずが、国については何も定めていない、国民への「禁止」を次々に定めているというのが「改正草案」の「ずるい特徴」である。

(現行憲法)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
(改正草案)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

 現行憲法の第十二条は「国民の義務」を定めている。「主語」は「国民」。「国民」は不断の努力によつて、これ(自由及び権利)を保持しなければならない。」「自由と権利」をもちつづけるのは「国民の義務」である。そして同時に、「国民」は「自由と権利」を「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」福祉のために、利用しなければならない。これも「責任」ということばがつかわれているが「義務」である。「義務」と「責任」と同義なのである。
 改正草案はどうか。「保持しなければならない」を「保持されなければならない」と言い換えている。「能動」から「受動」へと文体がかわっている。このとき、現行憲法では「主語」であった「国民」は消え、改正草案では「主語」は「自由及び権利」になっている。何のために? あるいはだれのために「保持されなければならない」のか。「保持するよう」求めているのはだれか。ここに「国」が隠されている。「国のために」は、後半にくっきりと出てくる。
 改正草案の「公益及び公の秩序に反してはならない」の「公」とは「国」のことである。「国の利益」「国の秩序」に反してはならない。
 現行憲法の「公共の福祉」も「国の福祉」なのではないか、と反論があるかもしれない。しかし、これは「国民の」であって「国の」ではない。「福祉」というのは「国民」のためのもの、「国」のためのものではない、ということから、それがわかるだろう。「国の福祉」というような言い方を、私たちはしない。ことばは、それがどんなふうにつかわれているか、ことばを動かしながら「意味」を特定していかないと、「隠された罠」を見落としてしまう。
 さらに「改正草案」で問題なのは「反してはならない」という表現である。「禁止」している。だれが「禁止する」のか。「国民」か。そうではない。「国民」は他の国民に対して何かを「禁止する」ということができない。何をするか。それは「国民の自由」である。
 では、何が「反してはならない」と言っているか。「国」である。書かれていない「国」という「主語」が「国民」に対して「禁止事項」を明らかにしている。
 憲法というのは国(権力)を拘束するためのものだが、自民党は逆に「国民を拘束する」ために憲法を改正しようとしている。
 その姿勢が、ここにも見える。

(現行憲法)
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

 現行憲法で「個人」と書かれていた部分が「人」になっている。
 なぜ、現行憲法は「人」ではなく「個人」と書いているのか。それは「個人」ということばが向き合っているもの(個人ではないもの)が先に書かれているからである。第十二条の「公共の福祉」の「公共」。「公共」ということばを先に提示したので、それに向き合う「人」を「個人」と呼ぶ必要があるのだ。
 「公共」とは「多数」である。「多数の福祉」のために「自由と権利」を利用する責務を負うのだけれど、だからといって「多数」に従わなければならないというのではない。何を「福祉」と考えるかは、ひとりひとり(個人個人)違うかもしれない。そういう場合は「多数」ではなく、あくまで「個人」の「あり方」が尊重される。「多数」が「これが福祉」と言っても、それに従わなくてもいいのだ。
 「個人」の「個」はひとつ、ひとり。その対極にあるのが「多数」(公共)なのだが、「個」はまた単に「個」ではない。さまざまな「個」が存在するとき、その「個」は「多様性」の「多」に変わるものである。
 「個人として尊重される」は「多様性」として尊重されるということである。他の国民から「多様性」のうちの「個人」として尊重される。これは、国民は他の国民の「多様性」を尊重しなければならない、という意味である。
 同時に、「国」に対して「個人(多様性)」を尊重しなさい、尊重する義務があると言っているのである。
 現行憲法の第十二条は、「憲法の主役」である「国民」の「義務と責任」について定めていた。つづく第十三条は「憲法の脇役/従役」である「国」の「義務と責任」について定めている。「個人として尊重する義務、多様性を認める義務と責任がある」。それがどれくらい尊重しなければならないものかというと、「最大」の尊重を必要とする。国は、ある国民が「そんなことはしたくない、こういうことをしたい」と主張した場合、「公共の福祉(国民の福祉)」に反しないかぎり、尊重しなければならないと「国」に「義務」を負わせている。
 改正草案は「個人」を「人」と書き直すことで「多様性」を否定している。「多様性」を否定し、「国の利益」「国の秩序」に反しないかぎり(つまり、国の命令に従って国の利益になるように、そして国の秩序を守るならば)、その「人」は「国」にとって「最大限に尊重される」というのだ。国の命令に従って国の利益になるように、そして国の秩序を守る人を尊重するが、そうでなければ尊重しないぞ、と改正憲法は「本音」をここで語っている。

 書きたいことはいろいろあるが、ちょっと省略して、

(現行憲法)
第十五条
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
(改正草案)
第十五条
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、主権の存する国民の権利である。

 「国民固有の権利」が「主権の存する国民の権利」と「改正」されている。「国民主権」(国民に主権がある)のだから「主権の存する」は必要のないことば(意味上、重複することば)である。それをわざわざ「挿入」したのはなぜか。
 「主権の存しない(主権を持たないもたない)国民」というものを、自民党の改正草案は念頭に描いているのだ。「公益及び公共の秩序/国の利益及び国の秩序」に反する国民には「主権はない」(主権を与えない)という意識がここに隠れている。
 「国民固有」の「固有」を削除したのも、その証拠である。「国民主権」は「国」が「国民」を与えるもの、「国」が「国民」を選別して、ある人間には「主権」を与え、ある人間には「主権」を与えないというのだ。
 「多様性」を認めない、という考えは、こういうところで「補強」されている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川上明日夫『灰家』

2016-07-06 12:22:24 | 詩集
川上明日夫『灰家』(思潮社、2016年05月31日発行)

 川上明日夫『灰家』は、私にはとても読みづらいものがある。たとえば、「灰墓」。

お墓だって減っていったんだ
肩ひじ張って生きてきたから
角がとれ
はじめて
きがつき
そんなにつっ張らなくてもと
そう なんどおもったことか
雨が降って
風が吹いて
刻がたって
さらされてあるものの哀しみ
命あるものの喜びや怒りがさ
くりかえされ
いつのまにか

 リズムが、「肉体」になじまない。「文字数」が視覚の上でパターンをつくり、それがリズムになるかといえば、私には、リズムとは感じられない。
 絵画の場合、線や色にリズムを感じるが、ことばの場合、リズムは「音」。目で見て、リズムを感じることが私にはできない。
 声に出して確かめれば、長い行と短い行でリズムの変化があるのかもしれないが、黙読しかしない私には、「視覚」がリズムを聞こえなくさせてしまう。形がじゃまになって、リズムが「肉体」に伝わってこない。目と耳が重なり合わない。分裂してしまう。

 ことばの分裂のなかに、詩がある。

 たぶん、そう言うことなのだろうが、これは私が「頭」で考えたことであって、「肉体」が感じることではない。「頭」のいいひとには、こういう「頭」で考えたことが「論理」どおりに動いていく作品というのは「快感」なのだろうけれど、私は「快感」にたどりつけずに、めんどうくさいと感じてしまう。
 もっと簡単に、ミーハーっぽく、「これ、かっこいい」と感じたい。ランボーの腹が減って石だって食らいつきたい、という詩は「意味」としてはむちゃくちゃだが、つまり「頭」で考えれば、そんなことしたって腹は膨れない。食べる前に、歯ががたがたになる。だが、そのむちゃくちゃなところに、ことばを発するときの「喜び」がある。ミーハーになれる。
 川上の詩では、そういうことが、起きない。私の場合は。
 「肩ひじ張って」「角」「つっ張らなくても」という「意味の繰り返し」のなかには「肉体」の動きが反芻されていて、それが「なんど」という「意味」にととのえられていく部分は、我慢して読めばリズムにならないことはないのだが、「哀しみ」「喜び」「怒り」という「抽象」が、何と言えばいいのか、べったりしていていやな感じなのである。
 これも、リズムの抑制、あるいは抑制されたリズムと「頭」で整理すれば、「静かな快感」になるのかなあ。
 でも、

命あるものの喜びや怒りがさ

 この末尾の「さ」は、どう?
 「口語」によるリズムの破壊、書きことばと口語の「分裂」と読めばいいのかもしれないが、うーん、昔むかしの(と言っても1970年代の)抒情詩の「技法」みたいで、いやだなあ、と私は感じる。

 しかし、「灰売り」は、書き出しが楽しかった。

灰はいらんかね

身を粉にして魂になったよ
骨身をけずって灰になった
生と死のはざま
かるがると
雲も流れていた
灰はいらんかね

地上では
この世の
生の芽が咲くころだったな
死の芽が咲くころだったな

 この作品でも、不思議な「行ぞろえ」が作品の、「視覚のリズム」をつくる力になっているのだが、

雲も流れていた
灰はいらんかね

 この二行は、「形」は「対」だが、べったりくっついている感じがしない。「意味」が離れている。飛躍している。どこかに、「意味」の連続があるのかもしれないけれど、前半に出てくる「身を粉にして/骨身をけずって」「魂/灰」、後半に出てくる「地上(天上ではない)/この世」、「生の芽/死の芽」のような「類似/類似」、「正/反」という「連絡」がない。逆に言うと「断絶」がある。この「断絶」がリズムをつくっている、ここにほんとうのリズムがある、と私は感じてしまう。
 一行目の「灰はいらんかね」が繰り返され、それが詩のことばを凝縮させる。そこに詩がある。「ことばの分裂が詩である」、川上の詩はそういうものをめざしているのだろうと指摘したことと矛盾するようだが、ここにある「破壊による凝縮」は、俳句でいう「遠心/求心」のような関係だ。破壊があるから凝縮がある。それは一瞬のうちに起きる相反するエネルギーの活性化した状態なのだ。
 で、もう一回「灰はいらんかね」と繰り返されたあと、最後の方、

死に眼が からっぽなのさ
空で
ひっそり 蠢いているよ
いらんかね 灰

 ことばの順序が入れ替わる。この瞬間、「意味」ではなく、「肉体」がぱっと反応する。私の場合。いままで言っていたことばを逆にするだけなのだが、「肉体」が攪拌される感じになる。舌やのどや口のなかが、洗いなおされる感じ。
 こういう「断絶」がもっとあれば、私にも読みやすく感じられるだろうなあ、と思った。

灰家
川上 明日夫
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする