自民党憲法改正草案を読む(8)(2016年07月07日)
第三章国民の権利及び義務
第三章は、国民と国との関係を定めている。
大きな違いは文の後段に「これを」があるか、ないか。
現行憲法は、「これを」ということばをつかうことで、前段が「主語」ではなく「テーマ(主題)」であることを明確にしている。
改正草案は、多くの条文で現行憲法の「主題」を明示するという文体を破棄し、「主語」なのか「テーマ」なのか、あいまいにしている。
「あいまいさ」を利用して、「改正案」がもくろんでいることを、分かりにくくしている。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」の「主語」は「国民」。ただ「妨げられない」というとき、「主語」は「国民」なのだが、もう一つの「主語」がそこにある。「国」である。「国は、妨げてはならない。」が書かれていないが、はっきりと存在している。「侵すことのできない」は「国民は」であると同時に、「国は侵すことはできない」という意味だ。
第三章は国民と国との関係を定めている。常に「国は」という「主語」を補って読まないといけない。
改正草案では、「国民は、全ての基本的人権を享有する。」ここには、「国」を補うことができない。「国」については何も定めていない。これが、とても重要だ。改正草案は「国」については何も定めず、フリーハンドにしているのだ。
ここから、すこし振り返る。
現行の「第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」の後半は、「法律がこれを定める」と読み直すことができる。
ところが改正草案の方は「法律が」ではなく、実は、「日本国民の要件は、国が法律で定める。」なのである。「国」という「主語」が隠されている。「国」を隠しているのである。「法律」を「国」が自在に定めて、その法律で「国」の思うがままにすると言っているに等しい。
「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」の部分はどうか。「国民に与へられる。」は「国は/国民に与えなければならない」、言い換えると「奪ってはならない(享有を妨げてはならない)」ということである。
改正草案の「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。」はどうか。やはり「国」を補って読むことができない。抽象的概念として基本的人権を定義しているだけである。
「国民に与へられる。」を削除することで、「国」の責任を放棄している。これは、逆に見れば、「国は、現在及び将来の国民から、それを奪うこともある」ということだ。「国」に、国民の権利を剥奪することを禁じていない。改正憲法は、「国への禁止事項」を持っていない。
国民と国の関係を定めるはずが、国については何も定めていない、国民への「禁止」を次々に定めているというのが「改正草案」の「ずるい特徴」である。
現行憲法の第十二条は「国民の義務」を定めている。「主語」は「国民」。「国民」は不断の努力によつて、これ(自由及び権利)を保持しなければならない。」「自由と権利」をもちつづけるのは「国民の義務」である。そして同時に、「国民」は「自由と権利」を「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」福祉のために、利用しなければならない。これも「責任」ということばがつかわれているが「義務」である。「義務」と「責任」と同義なのである。
改正草案はどうか。「保持しなければならない」を「保持されなければならない」と言い換えている。「能動」から「受動」へと文体がかわっている。このとき、現行憲法では「主語」であった「国民」は消え、改正草案では「主語」は「自由及び権利」になっている。何のために? あるいはだれのために「保持されなければならない」のか。「保持するよう」求めているのはだれか。ここに「国」が隠されている。「国のために」は、後半にくっきりと出てくる。
改正草案の「公益及び公の秩序に反してはならない」の「公」とは「国」のことである。「国の利益」「国の秩序」に反してはならない。
現行憲法の「公共の福祉」も「国の福祉」なのではないか、と反論があるかもしれない。しかし、これは「国民の」であって「国の」ではない。「福祉」というのは「国民」のためのもの、「国」のためのものではない、ということから、それがわかるだろう。「国の福祉」というような言い方を、私たちはしない。ことばは、それがどんなふうにつかわれているか、ことばを動かしながら「意味」を特定していかないと、「隠された罠」を見落としてしまう。
さらに「改正草案」で問題なのは「反してはならない」という表現である。「禁止」している。だれが「禁止する」のか。「国民」か。そうではない。「国民」は他の国民に対して何かを「禁止する」ということができない。何をするか。それは「国民の自由」である。
では、何が「反してはならない」と言っているか。「国」である。書かれていない「国」という「主語」が「国民」に対して「禁止事項」を明らかにしている。
憲法というのは国(権力)を拘束するためのものだが、自民党は逆に「国民を拘束する」ために憲法を改正しようとしている。
その姿勢が、ここにも見える。
現行憲法で「個人」と書かれていた部分が「人」になっている。
なぜ、現行憲法は「人」ではなく「個人」と書いているのか。それは「個人」ということばが向き合っているもの(個人ではないもの)が先に書かれているからである。第十二条の「公共の福祉」の「公共」。「公共」ということばを先に提示したので、それに向き合う「人」を「個人」と呼ぶ必要があるのだ。
「公共」とは「多数」である。「多数の福祉」のために「自由と権利」を利用する責務を負うのだけれど、だからといって「多数」に従わなければならないというのではない。何を「福祉」と考えるかは、ひとりひとり(個人個人)違うかもしれない。そういう場合は「多数」ではなく、あくまで「個人」の「あり方」が尊重される。「多数」が「これが福祉」と言っても、それに従わなくてもいいのだ。
「個人」の「個」はひとつ、ひとり。その対極にあるのが「多数」(公共)なのだが、「個」はまた単に「個」ではない。さまざまな「個」が存在するとき、その「個」は「多様性」の「多」に変わるものである。
「個人として尊重される」は「多様性」として尊重されるということである。他の国民から「多様性」のうちの「個人」として尊重される。これは、国民は他の国民の「多様性」を尊重しなければならない、という意味である。
同時に、「国」に対して「個人(多様性)」を尊重しなさい、尊重する義務があると言っているのである。
現行憲法の第十二条は、「憲法の主役」である「国民」の「義務と責任」について定めていた。つづく第十三条は「憲法の脇役/従役」である「国」の「義務と責任」について定めている。「個人として尊重する義務、多様性を認める義務と責任がある」。それがどれくらい尊重しなければならないものかというと、「最大」の尊重を必要とする。国は、ある国民が「そんなことはしたくない、こういうことをしたい」と主張した場合、「公共の福祉(国民の福祉)」に反しないかぎり、尊重しなければならないと「国」に「義務」を負わせている。
改正草案は「個人」を「人」と書き直すことで「多様性」を否定している。「多様性」を否定し、「国の利益」「国の秩序」に反しないかぎり(つまり、国の命令に従って国の利益になるように、そして国の秩序を守るならば)、その「人」は「国」にとって「最大限に尊重される」というのだ。国の命令に従って国の利益になるように、そして国の秩序を守る人を尊重するが、そうでなければ尊重しないぞ、と改正憲法は「本音」をここで語っている。
書きたいことはいろいろあるが、ちょっと省略して、
「国民固有の権利」が「主権の存する国民の権利」と「改正」されている。「国民主権」(国民に主権がある)のだから「主権の存する」は必要のないことば(意味上、重複することば)である。それをわざわざ「挿入」したのはなぜか。
「主権の存しない(主権を持たないもたない)国民」というものを、自民党の改正草案は念頭に描いているのだ。「公益及び公共の秩序/国の利益及び国の秩序」に反する国民には「主権はない」(主権を与えない)という意識がここに隠れている。
「国民固有」の「固有」を削除したのも、その証拠である。「国民主権」は「国」が「国民」を与えるもの、「国」が「国民」を選別して、ある人間には「主権」を与え、ある人間には「主権」を与えないというのだ。
「多様性」を認めない、という考えは、こういうところで「補強」されている。
第三章国民の権利及び義務
第三章は、国民と国との関係を定めている。
(現行憲法)
第十条
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
(自民党改正案)
第十条
日本国民の要件は、法律で定める。
大きな違いは文の後段に「これを」があるか、ないか。
現行憲法は、「これを」ということばをつかうことで、前段が「主語」ではなく「テーマ(主題)」であることを明確にしている。
改正草案は、多くの条文で現行憲法の「主題」を明示するという文体を破棄し、「主語」なのか「テーマ」なのか、あいまいにしている。
「あいまいさ」を利用して、「改正案」がもくろんでいることを、分かりにくくしている。
(現行憲法)
第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
(自民党改正草案)
第十一条
国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」の「主語」は「国民」。ただ「妨げられない」というとき、「主語」は「国民」なのだが、もう一つの「主語」がそこにある。「国」である。「国は、妨げてはならない。」が書かれていないが、はっきりと存在している。「侵すことのできない」は「国民は」であると同時に、「国は侵すことはできない」という意味だ。
第三章は国民と国との関係を定めている。常に「国は」という「主語」を補って読まないといけない。
改正草案では、「国民は、全ての基本的人権を享有する。」ここには、「国」を補うことができない。「国」については何も定めていない。これが、とても重要だ。改正草案は「国」については何も定めず、フリーハンドにしているのだ。
ここから、すこし振り返る。
現行の「第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」の後半は、「法律がこれを定める」と読み直すことができる。
ところが改正草案の方は「法律が」ではなく、実は、「日本国民の要件は、国が法律で定める。」なのである。「国」という「主語」が隠されている。「国」を隠しているのである。「法律」を「国」が自在に定めて、その法律で「国」の思うがままにすると言っているに等しい。
「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」の部分はどうか。「国民に与へられる。」は「国は/国民に与えなければならない」、言い換えると「奪ってはならない(享有を妨げてはならない)」ということである。
改正草案の「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。」はどうか。やはり「国」を補って読むことができない。抽象的概念として基本的人権を定義しているだけである。
「国民に与へられる。」を削除することで、「国」の責任を放棄している。これは、逆に見れば、「国は、現在及び将来の国民から、それを奪うこともある」ということだ。「国」に、国民の権利を剥奪することを禁じていない。改正憲法は、「国への禁止事項」を持っていない。
国民と国の関係を定めるはずが、国については何も定めていない、国民への「禁止」を次々に定めているというのが「改正草案」の「ずるい特徴」である。
(現行憲法)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
(改正草案)
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
現行憲法の第十二条は「国民の義務」を定めている。「主語」は「国民」。「国民」は不断の努力によつて、これ(自由及び権利)を保持しなければならない。」「自由と権利」をもちつづけるのは「国民の義務」である。そして同時に、「国民」は「自由と権利」を「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」福祉のために、利用しなければならない。これも「責任」ということばがつかわれているが「義務」である。「義務」と「責任」と同義なのである。
改正草案はどうか。「保持しなければならない」を「保持されなければならない」と言い換えている。「能動」から「受動」へと文体がかわっている。このとき、現行憲法では「主語」であった「国民」は消え、改正草案では「主語」は「自由及び権利」になっている。何のために? あるいはだれのために「保持されなければならない」のか。「保持するよう」求めているのはだれか。ここに「国」が隠されている。「国のために」は、後半にくっきりと出てくる。
改正草案の「公益及び公の秩序に反してはならない」の「公」とは「国」のことである。「国の利益」「国の秩序」に反してはならない。
現行憲法の「公共の福祉」も「国の福祉」なのではないか、と反論があるかもしれない。しかし、これは「国民の」であって「国の」ではない。「福祉」というのは「国民」のためのもの、「国」のためのものではない、ということから、それがわかるだろう。「国の福祉」というような言い方を、私たちはしない。ことばは、それがどんなふうにつかわれているか、ことばを動かしながら「意味」を特定していかないと、「隠された罠」を見落としてしまう。
さらに「改正草案」で問題なのは「反してはならない」という表現である。「禁止」している。だれが「禁止する」のか。「国民」か。そうではない。「国民」は他の国民に対して何かを「禁止する」ということができない。何をするか。それは「国民の自由」である。
では、何が「反してはならない」と言っているか。「国」である。書かれていない「国」という「主語」が「国民」に対して「禁止事項」を明らかにしている。
憲法というのは国(権力)を拘束するためのものだが、自民党は逆に「国民を拘束する」ために憲法を改正しようとしている。
その姿勢が、ここにも見える。
(現行憲法)
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
(改正草案)
第十三条
全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
現行憲法で「個人」と書かれていた部分が「人」になっている。
なぜ、現行憲法は「人」ではなく「個人」と書いているのか。それは「個人」ということばが向き合っているもの(個人ではないもの)が先に書かれているからである。第十二条の「公共の福祉」の「公共」。「公共」ということばを先に提示したので、それに向き合う「人」を「個人」と呼ぶ必要があるのだ。
「公共」とは「多数」である。「多数の福祉」のために「自由と権利」を利用する責務を負うのだけれど、だからといって「多数」に従わなければならないというのではない。何を「福祉」と考えるかは、ひとりひとり(個人個人)違うかもしれない。そういう場合は「多数」ではなく、あくまで「個人」の「あり方」が尊重される。「多数」が「これが福祉」と言っても、それに従わなくてもいいのだ。
「個人」の「個」はひとつ、ひとり。その対極にあるのが「多数」(公共)なのだが、「個」はまた単に「個」ではない。さまざまな「個」が存在するとき、その「個」は「多様性」の「多」に変わるものである。
「個人として尊重される」は「多様性」として尊重されるということである。他の国民から「多様性」のうちの「個人」として尊重される。これは、国民は他の国民の「多様性」を尊重しなければならない、という意味である。
同時に、「国」に対して「個人(多様性)」を尊重しなさい、尊重する義務があると言っているのである。
現行憲法の第十二条は、「憲法の主役」である「国民」の「義務と責任」について定めていた。つづく第十三条は「憲法の脇役/従役」である「国」の「義務と責任」について定めている。「個人として尊重する義務、多様性を認める義務と責任がある」。それがどれくらい尊重しなければならないものかというと、「最大」の尊重を必要とする。国は、ある国民が「そんなことはしたくない、こういうことをしたい」と主張した場合、「公共の福祉(国民の福祉)」に反しないかぎり、尊重しなければならないと「国」に「義務」を負わせている。
改正草案は「個人」を「人」と書き直すことで「多様性」を否定している。「多様性」を否定し、「国の利益」「国の秩序」に反しないかぎり(つまり、国の命令に従って国の利益になるように、そして国の秩序を守るならば)、その「人」は「国」にとって「最大限に尊重される」というのだ。国の命令に従って国の利益になるように、そして国の秩序を守る人を尊重するが、そうでなければ尊重しないぞ、と改正憲法は「本音」をここで語っている。
書きたいことはいろいろあるが、ちょっと省略して、
(現行憲法)
第十五条
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
(改正草案)
第十五条
公務員を選定し、及びこれを罷免することは、主権の存する国民の権利である。
「国民固有の権利」が「主権の存する国民の権利」と「改正」されている。「国民主権」(国民に主権がある)のだから「主権の存する」は必要のないことば(意味上、重複することば)である。それをわざわざ「挿入」したのはなぜか。
「主権の存しない(主権を持たないもたない)国民」というものを、自民党の改正草案は念頭に描いているのだ。「公益及び公共の秩序/国の利益及び国の秩序」に反する国民には「主権はない」(主権を与えない)という意識がここに隠れている。
「国民固有」の「固有」を削除したのも、その証拠である。「国民主権」は「国」が「国民」を与えるもの、「国」が「国民」を選別して、ある人間には「主権」を与え、ある人間には「主権」を与えないというのだ。
「多様性」を認めない、という考えは、こういうところで「補強」されている。