詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

堀江沙オリ「とこしえの明日」

2016-07-12 10:00:43 | 詩(雑誌・同人誌)
堀江沙オリ「とこしえの明日」(「左庭」34、2016年06月25日発行)

 堀江沙オリ「とこしえの明日」はある男とその母のことを書いている。小説ふうの作品。男には仕事がない。母親は寝たきり(?)、認知症(?)。ともかく介護が必要なのだが、あまり親身には介護をしていない。排泄の世話も投げやりだ。半分、ほったらかしにしている。

おまつ代は大きい
今度やったら叱って 始末させれば懲りる
もう部屋にビニールと新聞紙敷きつめて
バケツを布団の側に置いてすぐ用足しさせて
スポーツ新聞はいくらでも拾えるし
用意だけはしとこう
孝行息子だ 俺は

 「孝行息子だ 俺は」というのは、自分のやっていることをなんとか「肯定」しないことには生きていけないからだろう。介護の難しさがにじみでている。
 でも、こういう具合だから、「ストーリー」最後は予想がつく。

お腹空いた
一言目の消えた朝
昨日の弁当の残りを食って
俺たちは 同じ営みを続ける
電話もチャイムも鳴る事のない部屋
布団切って 新聞に包んで袋に入れて
臭いを封印してコンビニに捨てた

 その、予想通りの「ストーリー」を読んだあと、私は、はっとする。

自販機でコーラを買う
新しい泡が喉に降りて
自分の呼吸を久しぶりに感じる

 母親の世話から解放される。これで、少しは楽になる、というのは死んだ人間に対しては失礼な言い方かもしれないが、「やっと死んでくれた」というのは介護をしている人からしばしば聞くことばである。ある意味での「和解」のようなものがある。「ある意味」のことを説明するのは難しいが……。
 その「難しい何か」を、この三行が語っている。
 「肉体」が「自分だけのもの」なる。「自分の呼吸」と書いているが、あ、そうなのだ。それまでは「自分の呼吸」をしていないのだ。無意識のうちに母親と一緒に呼吸している。母親と一緒の部屋にいて、母親が嗅いでいる排泄物の臭いを母親そのものとして嗅いでいる。呼吸している。排泄物は臭い。それは母親にとっても同じだ。母親の呼吸と「自分の呼吸」がどこかで混じりあっている。
 「呼吸」が「自分だけのもの」になる、「肉体」が「自分だけのもの」になる、とは「孤独」になることでもあるのだが、それが「一緒に生きる」ということを思い出させる。一緒に生きるとは、介護だけのことがらではないが、ともに「同じ空気」を呼吸することである。そのときの「呼吸」は自分のものであるけれど、自分だけのものではない。そういうことは、いちいち意識しないけれど。
 でも、やっと自分だけの呼吸ができる。「やっと死んでくれた」。一緒に呼吸しなくてすむ。それを「空気」ではなく、「新しい泡」と「喉」で感じている。この「肉体」の感覚が、すごい。「新しい泡」が「喉」を刺戟する。その「刺戟」を感じる。「泡」のなかにある「空気」が「呼吸」の感覚を思い起こさせるのか。
 何と言えばいいのか、この瞬間、「わかる」と感じる。
 コーラを飲んだときの「刺戟」を思い出し、そうか、その刺激から「肉体」を思い出し、「呼吸」を思い出すのか、と「わかる」のである。
 書かれている「男」になってしまう。「わかる」とは自分が自分でなくなり、対象と一体化してしまうことだ。

今日は大事な日だからパチンコは無し
ATMでお袋の年金をおろす
スーパーの割引弁当を買う
そして ほの暗い部屋の鍵を開ける

 そのあと、最後の母と息子の「会話」がある。

お袋さんチョコ食べんのか
ああ好きだよ
爺さんにもらったんだった
母さん チョコ食べるか

うん
お腹空いた
返事がきこえた
気がした

 「お袋」が「お袋さん」に、「お袋さん」が「母さん」にかわっていく。ずっーと、ずっーと「母さん」と言い続けられたらよかったのに。「母さん」とはじめて呼んだときの、「肉体」の記憶。「肉体」の奥から「母さん」呼んだときの、何かが「喉」にこみあげてくる。「耳(肉体)」がおかあさんの「お腹空いた」という声を聞いてしまう。
 
7/2で生きる
堀江 沙オリ
無明舎出版
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