詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治『ハンバーグ研究』

2016-07-14 10:13:45 | 詩集
廿楽順治『ハンバーグ研究』(改行屋書店、2016年06月30日発行)
 
 廿楽順治『ハンバーグ研究』は『怪獣』と同時刊行。どちらを先に読むか迷った。『ハンバーグ研究』の印刷字体が「視覚」を刺戟してきたので、こちらを選んだのだが……。
 この詩集の印刷字体は、古い本で見かけた字体。ざらざらの紙に印刷された文字。インクがかすれている。インクが活字の角にたまって滲んでいるところもある。そういう字体。
 私はどんな詩でも、そこに書かれている「ことば」を動かして読むので、動かしにくい形で書かれていると、そこでつまずいてしまう。
 この詩集のことばは、動かしにくいのである。インクのにじみ(角からのあふれ)とかすれが、矛盾していて、それが「肉体」のなかを通ると、とても粘っこい感じ、粘着力を発揮し、それにひっぱられる。つまずくだけではなく、前へ進めない、後ろへひっぱられるという感じかなあ。感じたことを書こうとすると、ことばが「へろへろ」になってしまう。
 つまずくこと、大地に触れて、一瞬歩行から逆戻りする感じ、その瞬間に「詩」はあるのだと思うが、どうも、うーん。動かしにくい。
 紙のざらざらと、活字そのものの古くなった感じ、エッジが欠落している甘さ、インクの粘るしつこさが、どうもつらい。重い。「肉体」の内部が重くなる感じがする。

 長い前置きになったが。以下は、その「へろへろ」の実況中継ということになるかな?

 「重い」という感想で前置きが終わったので、「重い荷物」を引用してみる。(原文は「正字」で書かれているが、ワープロの都合で、「常用漢字体」にした。原文は詩集で確かめてください。)

重いにもつをもつて。
わたしはずつとやつてきた。
そこはみんな読みとばされてしまうだろうな。
桜木町から、
居留地の駅まで。
その間もそれはずつと重かつたが、
どうせ隠れてしまう。
重いにもつは、人生の事件だということで。
駅の自動販売機を開けて、
ジュースを交換していた労働者。削除。
向うからやつて来る中年。削除。
わたしもやつてきた。削除。
重さは確実に運ばれている。
まつたくにもつさ。

 「荷物」を「にもつ」と書いた瞬間から、「荷物」が「固形物」ではなく「不定形の、あいまいな輪郭」になる。それが、「肉体」にのかししってくる。「点」ではなく「面」としてへばりついてくる。
 このへばりつく感じ、「肉体」が「面」になった「にもつ」の「面」に触れる感じというのは、どうもよくない。それが「ずつと」なら、もっといやだ。
 「持って」「ずっと」「やってきた」ではなく「持つて」「ずつと」「やつて」と「つ」の文字が大きいと、その接触面まで大きくなってはりつくようで、重たくて、気持ちが悪いなあ。
 それは「にもつ」をもっているひとには深刻な問題だが、荷物を運ぶ必要のない人間(読者)には関係がない。三行目の「読みとばす」とは、そんな感じかなあ。読者にとって、問題なのは「荷物」の行方(結論?)であって、それを運んでいるひとの「肉体的感覚」と、たいてい読みとばされる。
 でも、私はどちらかというと「荷物」ではなく、「にもつ」を運んでいるときの「肉体的感覚」にこそ、思想(詩)があると考える。他人の「結論/荷物の行方」、どうでもいい。みんな(私だけかもしれないが)、自分のこと「結論」で手一杯だから。(私は私の結論については考えるが、他人の結論の面倒までみたくない。)
 「読み飛ばしたい」のだが「読み飛ばす」ということばにつまずいて、私は、そんなことを考えながら読んだ。私は「読み飛ばしたくない」というか、「読み飛ばして」と言われる部分にこだわってしまうのである。
 で、こだわってみると……。
 この「読み飛ばされる」は、「隠れてしまう」と言い直されているように思う。「読みとばす」のは「読者(私)」。その結果、読者が「読み飛ばしたもの」は、筆者の「読みとばされたもの」になるのだけれど、「読み飛ばされたもの」は、どこかに忘れられてしまう。これを「隠れる」という「動詞」で言い直しているところがおもしろい。どこに隠れているかというは、「にもつを運んだひとの肉体のなか」、同時にそのことばを読んだ読者の「肉体のなか」ということになる。「肉体のなか」だから、見えない。「見えない」から「隠れている」ということができる。
 「隠れて」、いつかまたあらわれることを思ってるだろうか。「隠れる」がねばっこい、しつこい感じを刺戟する。いつかよみがえってやるぞ、と言っているように思える。繰り返される「ずつと」よりも、ずっとしつこいとも思った。
 「肉体の奥に隠れる」思想だ。

 で、この「重いにもつ」が最後で「重さ」に変わっているね。
 これは廿楽がテーマとしているのが「荷物」ではなく、「にもつ」を「もつ」ときの「肉体」の感覚であることを語っていると思う。
 読者が「読み飛ばし」てしまう「にもつを運ぶひとの肉体感覚」。それこそが詩なのだと最後に言い直しているのだが、明確な論理にせず(?)、

まつたくにもつさ。

 と、口語で終わるのがいいなあ。口語は論理の径路をふっとばして、「本質」をつかみとる。「リズム」のなかで「本質/思想」になるといえばいいのかもしれない。


化車
廿楽 順治
思潮社
コメント
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