監督 ジョン・クローリー 出演 シアーシャ・ローナン、エモリー・コーエン、ドーナル・グリーソン
どんな映画にも「国民性」があらわれる。それが見える瞬間がとてもおもしろい。
この映画はアイルランドからブルックリンへ「移民」として移り住んだ女性の、成長を描いている。アイルランドの街で「地味」な暮らしをしていた少女。新しい仕事を求めてブルックリンへ行く。そこで成長する。その幸福のさなかに、「故郷」のアイルランドで姉が死ぬ。母親がひとりになる。慰めに帰ると、成長した少女をみた故郷のひとは、彼女をアメリカに帰したがらない……。
これに女性の「恋愛」が絡んでくるのだが。
私がいちばんびっくりしたのは、ラストシーン直前の、かつて働いていた食品店(?)の女主人との対話のシーンである。
女性はブルックリンで結婚したことをだれにも言っていない。けれど女主人は親類の娘(男だったかな?)からの手紙で、彼女が結婚していることを知っている。そして、その知っていることを利用して、彼女を支配しようとする。簿記の能力を身につけた主人公を自分の店で働かせようと画策する。(と、までは描かれていないのだが、そんな感じだろう。)
この瞬間、主人公は、アイルランドの故郷の本質を知る。だれもが親密である。けれど、一方で、だれもがだれかを見張っている。すべてを見つめ、一首の「調和」を保とうとしている。「調和」が破壊されることを拒んでいる。
それは、たとえば、少女が食料店で働いていたころは、ラグビーに明け暮れる裕福な若い男は彼女に目もくれない。しかし、アメリカで洗練され、事務的な能力も身につけていると知ると自分の側へ引きつけようとする。「有能」な人間は「有能」な人間と結びつくことで「調和」を保とうとする。一方、かつて彼女を雇っていた女主人は女主人で、主人公を自分の側に引き寄せ、自分の暮らしを少しでも豊かな形に整えなおそうとする。「よりよい調和」を手に入れようとする。
このときに、動く力、人間を動かそうとする力のあり方が、とてもおもしろい。アイルランド的なのだ。(もちろん、これは私が見るアイルランドであって、アイルランド人は違うと言うかもしれないのだが。)
アイルランドでは、「私は、あなたの秘密を知っている。それをみんなに知られたくなかったら、私の言うことを聞きなさい」という具合に、力が働く。一種の「監視社会」かもしれない。あるいは「秘密」を「共有」する「結社社会」かもしれない。
この「秘密」に対する態度は、イギリス個人主義とはまったく違う。イギリスでは、どんなに「他人」に知れ渡っていようと、その「秘密」を持っているひとが自分のことばで語らないかぎり「秘密」は「事実」にならない。だから、それが本人から語られないなら、だれもそれを批判したりはしない。そのひとが自分のことばで語ってこそ、それが「事実」になる、という厳密な「きまり」のようなものがある。
で、この不思議な「監視社会」が、アメリカに渡ると「警察組織」になる。アメリカではアイリッシュの警官が多いが、これは「社会(共同体)」を見まわし、その「調和」を維持しようとするアイルランド人気質を反映したものだろう。女は、噂話で、他者を監視し、しばる。(噂になるような行動をしばる。)男は噂話のかわりに、「調和」から逸脱していく人間を取り締まる、ということだろう。
ブルックリンの恋人の家に招待されたとき、その家の末っ子が、兄は警官に殴られた。アイルランド人だ。警官はみんなアイルランド人だ。全員が団結して襲いかかってくる。(嫌いだ。)みたいなことを言うが、ここに、イタリア人とアイルランド人の違いが、くっきり出ている。イタリア人も「結社」をつくるが、それはマフィア。アイルランドの警官結社とはまったく逆の存在である。
「調和」は「規律」と言い換えることもできる。
アイルランド人は「調和/規律」を好むのだ。指向するのだ。主人公が下宿する家でも「規律」がはっきりしている。夕食のとき、全員がそろう。会話しながら食事する。これは、この映画が描いている60年代の習慣かもしれないが、それだけではないだろう。そのときの「テーブルマナー」というか「時間」のあり方を女主人がしっかり支配している。話題が逸脱していくと、叱り、食卓にふさわしい話題へと引き戻す。
さらに。主人公はデパートの店員をしているだが、大学の夜学に通い、簿記を学び、会計士を目指す。この「簿記を学ぶ」というのが、また、何ともアイルランドらしいではないか。簿記のことはよくわからないのだが、収支を一覧表にして、金の動きを整え、監視する。「調和」に乱れがないかを点検する。そういうことができる「能力」をアイルランド人はとても尊重するのである。「調和の実務」と呼ぶべきものが「簿記」である。
おそらく、というのは、私の勝手な推測だが。
主人公がブルックリンで「簿記」ではなく、たとえば「建築士」とか「調理師」というような「資格」を獲得して、アイルランドにもどったのだとしたら、この映画に描かれているような「ひっぱりあい」は起きなかっただろう。「簿記」は金の流れの「調和」を監視するものだ。「裏で調和を整える」という「簿記」の仕事だったからこそ、それが「必要」なのものとして、裕福な男からも、小さな店の女主人からも、ひっぱられることになったのだ。
その「ひっぱりあい」に引き込まれて、主人公は、アイルランドの限界を知ったとも言える。ここには「自由」はない。「監視」と「調和」がある。それは静かで、ある意味では「美しい」かもしれないが、息苦しい。「安定」しているかもしれないが、何かが違う。みんな、ただただ「ひきとめよう」としている。「固定」をめざしている。その「固定」は、別の視点からみると、「成長していく人間」を許さない、「成長していく人間」を自分の下におくことで自分が上にのぼっていく、ということをめざす社会にも見える。
主人公は、こういう社会に見切りをつけ、新天地「アメリカ」へと帰っていく。
「管理/調和/結社」は、この映画で描かれるスポーツをとおしても感じられる。アイルランドのスポーツはラグビーとゴルフ。ラグビーはあきらかに上流社会(紳士)のするもの。庶民は、しない。ラグビーのチームメイトは日常でもそろいのブレザー、ポマードで固めた髪形で「結社」を強調する。ラグビーが男のスポーツであるのに対し、もうひとつのスポーツであるゴルフは男女が一緒にできる。肉体のぶつかりあいがないから。女性は、このゴルフを通じて上流社会の「秘密」のなかへ入っていく。
一方のアメリカのスポーツは何か。野球だ。それは紳士のスポーツではない。庶民のスポーツであり、選手にしろファンにしろ、日常でそろいのブレザーを着るようなことはない。外側を固めていない。
そういう「社会」の違い、生き方の違いも、この映画から強く感じられる。
私の感想では、主人公の「恋愛」がかすんでしまうが、二人の男のあいだで揺れる恋愛を描きながら、その背後でアイルランド人とアメリカ人の違いを見つめている点がとてもおもしろかった。
シアーシャ・ローナンは姿勢がとても美しく、二人の男のあいだで揺れながらも、崩れていくという感じがしないのがよかった。「芯」が真っ直ぐな感じが、この映画を支えていると思った。
*
映画とは離れてしまうのだが、ジョイスの「ダブリナーズ(ダブリン市民)」も、「簿記感覚」の小説なのかもしれない。人間の「感情の収支」が、実在の場所を舞台に、克明に描かれている。どんな小さなことも見落とさずに、記録し、それがそのまま「収支報告」になっている。突然、「ダブリナーズ」を読み返したい衝動に襲われた。
この映画が「ダブリナーズ」のジョイスの文体のように、静かで正確なのも、そういうことを感じさせるのかもしれない。人間の対立は「小さなこと」で「一瞬」のうちに起きる。そこからどんな「爆発」があったかは、それぞれの読者(観客)が自分の体験をさぐりなおすことでわかるので、「爆発」はさらりと描写してしまう。
で。
映画にもどると、主人公がアメリカへ帰ると言ったときの、母親の態度がすごい。見送ることもしない。寝室へひきあげる前に(夜の八時前に)、「これが最後のさよならだ」みたいなことを娘に言う。「家族」という「結社」から出て行くのなら、出て行け、私は知らないという激情が、ぐいと抑えられたまま描かれている。「爆発」が結晶している。 なんだか、こわい映画でもあるのだ。
(天神東宝・ソラリアシネマスクリーン8、2016年07月01日)
*
補記
アイルランド気質=簿記精神は主人公の姉がやっているゴルフにも反映されている。単に何打でホールアウトするかということだけではなく、いつも「パー」を問題にしている。それぞれのホールに「基準」があり、それを上回ったか、下回ったかが問われる。最終的に「総合打数」と相関するのだけれど、つまり「総合打数」が少ない人が優勝するのだけれど、そのとき必ず「何アンダー」かが言及される。「収支基準(?)」があって、それをどれだけ上回るかが重要なのだ。「収支基準」を重視するのは「簿記精神」だろう。
主人公がブルックリンの男と、アイルランドの故郷の男のあいだで揺れ動く。これも一種の「簿記感覚」である。どちらが「収支基準」にあうか。男を天秤にかけているような感じがするかもしれないが、「収支」を見極めるというのは重要なことであり、アイルランド気質が、ここにも濃厚に出ていると言える。
*
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どんな映画にも「国民性」があらわれる。それが見える瞬間がとてもおもしろい。
この映画はアイルランドからブルックリンへ「移民」として移り住んだ女性の、成長を描いている。アイルランドの街で「地味」な暮らしをしていた少女。新しい仕事を求めてブルックリンへ行く。そこで成長する。その幸福のさなかに、「故郷」のアイルランドで姉が死ぬ。母親がひとりになる。慰めに帰ると、成長した少女をみた故郷のひとは、彼女をアメリカに帰したがらない……。
これに女性の「恋愛」が絡んでくるのだが。
私がいちばんびっくりしたのは、ラストシーン直前の、かつて働いていた食品店(?)の女主人との対話のシーンである。
女性はブルックリンで結婚したことをだれにも言っていない。けれど女主人は親類の娘(男だったかな?)からの手紙で、彼女が結婚していることを知っている。そして、その知っていることを利用して、彼女を支配しようとする。簿記の能力を身につけた主人公を自分の店で働かせようと画策する。(と、までは描かれていないのだが、そんな感じだろう。)
この瞬間、主人公は、アイルランドの故郷の本質を知る。だれもが親密である。けれど、一方で、だれもがだれかを見張っている。すべてを見つめ、一首の「調和」を保とうとしている。「調和」が破壊されることを拒んでいる。
それは、たとえば、少女が食料店で働いていたころは、ラグビーに明け暮れる裕福な若い男は彼女に目もくれない。しかし、アメリカで洗練され、事務的な能力も身につけていると知ると自分の側へ引きつけようとする。「有能」な人間は「有能」な人間と結びつくことで「調和」を保とうとする。一方、かつて彼女を雇っていた女主人は女主人で、主人公を自分の側に引き寄せ、自分の暮らしを少しでも豊かな形に整えなおそうとする。「よりよい調和」を手に入れようとする。
このときに、動く力、人間を動かそうとする力のあり方が、とてもおもしろい。アイルランド的なのだ。(もちろん、これは私が見るアイルランドであって、アイルランド人は違うと言うかもしれないのだが。)
アイルランドでは、「私は、あなたの秘密を知っている。それをみんなに知られたくなかったら、私の言うことを聞きなさい」という具合に、力が働く。一種の「監視社会」かもしれない。あるいは「秘密」を「共有」する「結社社会」かもしれない。
この「秘密」に対する態度は、イギリス個人主義とはまったく違う。イギリスでは、どんなに「他人」に知れ渡っていようと、その「秘密」を持っているひとが自分のことばで語らないかぎり「秘密」は「事実」にならない。だから、それが本人から語られないなら、だれもそれを批判したりはしない。そのひとが自分のことばで語ってこそ、それが「事実」になる、という厳密な「きまり」のようなものがある。
で、この不思議な「監視社会」が、アメリカに渡ると「警察組織」になる。アメリカではアイリッシュの警官が多いが、これは「社会(共同体)」を見まわし、その「調和」を維持しようとするアイルランド人気質を反映したものだろう。女は、噂話で、他者を監視し、しばる。(噂になるような行動をしばる。)男は噂話のかわりに、「調和」から逸脱していく人間を取り締まる、ということだろう。
ブルックリンの恋人の家に招待されたとき、その家の末っ子が、兄は警官に殴られた。アイルランド人だ。警官はみんなアイルランド人だ。全員が団結して襲いかかってくる。(嫌いだ。)みたいなことを言うが、ここに、イタリア人とアイルランド人の違いが、くっきり出ている。イタリア人も「結社」をつくるが、それはマフィア。アイルランドの警官結社とはまったく逆の存在である。
「調和」は「規律」と言い換えることもできる。
アイルランド人は「調和/規律」を好むのだ。指向するのだ。主人公が下宿する家でも「規律」がはっきりしている。夕食のとき、全員がそろう。会話しながら食事する。これは、この映画が描いている60年代の習慣かもしれないが、それだけではないだろう。そのときの「テーブルマナー」というか「時間」のあり方を女主人がしっかり支配している。話題が逸脱していくと、叱り、食卓にふさわしい話題へと引き戻す。
さらに。主人公はデパートの店員をしているだが、大学の夜学に通い、簿記を学び、会計士を目指す。この「簿記を学ぶ」というのが、また、何ともアイルランドらしいではないか。簿記のことはよくわからないのだが、収支を一覧表にして、金の動きを整え、監視する。「調和」に乱れがないかを点検する。そういうことができる「能力」をアイルランド人はとても尊重するのである。「調和の実務」と呼ぶべきものが「簿記」である。
おそらく、というのは、私の勝手な推測だが。
主人公がブルックリンで「簿記」ではなく、たとえば「建築士」とか「調理師」というような「資格」を獲得して、アイルランドにもどったのだとしたら、この映画に描かれているような「ひっぱりあい」は起きなかっただろう。「簿記」は金の流れの「調和」を監視するものだ。「裏で調和を整える」という「簿記」の仕事だったからこそ、それが「必要」なのものとして、裕福な男からも、小さな店の女主人からも、ひっぱられることになったのだ。
その「ひっぱりあい」に引き込まれて、主人公は、アイルランドの限界を知ったとも言える。ここには「自由」はない。「監視」と「調和」がある。それは静かで、ある意味では「美しい」かもしれないが、息苦しい。「安定」しているかもしれないが、何かが違う。みんな、ただただ「ひきとめよう」としている。「固定」をめざしている。その「固定」は、別の視点からみると、「成長していく人間」を許さない、「成長していく人間」を自分の下におくことで自分が上にのぼっていく、ということをめざす社会にも見える。
主人公は、こういう社会に見切りをつけ、新天地「アメリカ」へと帰っていく。
「管理/調和/結社」は、この映画で描かれるスポーツをとおしても感じられる。アイルランドのスポーツはラグビーとゴルフ。ラグビーはあきらかに上流社会(紳士)のするもの。庶民は、しない。ラグビーのチームメイトは日常でもそろいのブレザー、ポマードで固めた髪形で「結社」を強調する。ラグビーが男のスポーツであるのに対し、もうひとつのスポーツであるゴルフは男女が一緒にできる。肉体のぶつかりあいがないから。女性は、このゴルフを通じて上流社会の「秘密」のなかへ入っていく。
一方のアメリカのスポーツは何か。野球だ。それは紳士のスポーツではない。庶民のスポーツであり、選手にしろファンにしろ、日常でそろいのブレザーを着るようなことはない。外側を固めていない。
そういう「社会」の違い、生き方の違いも、この映画から強く感じられる。
私の感想では、主人公の「恋愛」がかすんでしまうが、二人の男のあいだで揺れる恋愛を描きながら、その背後でアイルランド人とアメリカ人の違いを見つめている点がとてもおもしろかった。
シアーシャ・ローナンは姿勢がとても美しく、二人の男のあいだで揺れながらも、崩れていくという感じがしないのがよかった。「芯」が真っ直ぐな感じが、この映画を支えていると思った。
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映画とは離れてしまうのだが、ジョイスの「ダブリナーズ(ダブリン市民)」も、「簿記感覚」の小説なのかもしれない。人間の「感情の収支」が、実在の場所を舞台に、克明に描かれている。どんな小さなことも見落とさずに、記録し、それがそのまま「収支報告」になっている。突然、「ダブリナーズ」を読み返したい衝動に襲われた。
この映画が「ダブリナーズ」のジョイスの文体のように、静かで正確なのも、そういうことを感じさせるのかもしれない。人間の対立は「小さなこと」で「一瞬」のうちに起きる。そこからどんな「爆発」があったかは、それぞれの読者(観客)が自分の体験をさぐりなおすことでわかるので、「爆発」はさらりと描写してしまう。
で。
映画にもどると、主人公がアメリカへ帰ると言ったときの、母親の態度がすごい。見送ることもしない。寝室へひきあげる前に(夜の八時前に)、「これが最後のさよならだ」みたいなことを娘に言う。「家族」という「結社」から出て行くのなら、出て行け、私は知らないという激情が、ぐいと抑えられたまま描かれている。「爆発」が結晶している。 なんだか、こわい映画でもあるのだ。
(天神東宝・ソラリアシネマスクリーン8、2016年07月01日)
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補記
アイルランド気質=簿記精神は主人公の姉がやっているゴルフにも反映されている。単に何打でホールアウトするかということだけではなく、いつも「パー」を問題にしている。それぞれのホールに「基準」があり、それを上回ったか、下回ったかが問われる。最終的に「総合打数」と相関するのだけれど、つまり「総合打数」が少ない人が優勝するのだけれど、そのとき必ず「何アンダー」かが言及される。「収支基準(?)」があって、それをどれだけ上回るかが重要なのだ。「収支基準」を重視するのは「簿記精神」だろう。
主人公がブルックリンの男と、アイルランドの故郷の男のあいだで揺れ動く。これも一種の「簿記感覚」である。どちらが「収支基準」にあうか。男を天秤にかけているような感じがするかもしれないが、「収支」を見極めるというのは重要なことであり、アイルランド気質が、ここにも濃厚に出ていると言える。
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